天下茶屋跡から紀州(住吉)街道を200m程北上すると左側に天下茶屋公園が広がる。
この公園は薬屋「是斎屋(ぜさいや)」があった場所で、公園東口の横に是斎屋跡の石碑が建てられている。
ケンペルやシーボルトも記録したほど有名だった和中散は、東海道筋の各店で本家を争っていたが、ここは「せさい(是斎)」で売り、街道筋の名物だった。
店の脇には人力で回す木製歯車があり、連動する石臼で薬種を挽いていました。
店の様子を詳しく見せるため、錦絵の上部に店頭を大きく描く構図を採っているため、浪花百景では通常上部にあるタイトルが、左下にレイアウトされています。
柱の後ろに「和中散」の文字が隠れています。
是斎屋さんがいつ頃まで繁盛していたのかは知らず、別の豪商の屋敷になっていたのかも知れませんが、とにかく幕末・明治になってもお金持ちが住んでいたことには違いなく、明治天皇も行幸の際にこの地で休息を取っています。
それから数十年後、昭和初期の時流の下で建てられた明治天皇駐蹕遺址碑は、今も公園の真ん中にドッカリと置かれています。
現地の解説板より「安倍寺塔心礎(大阪府指定有形文化財)」
安倍寺は安倍氏の氏寺ともいわれる奈良時代の寺院で、現在の阿倍野区松崎町の松長大明神の一帯にあったと伝えられている。
この石は安倍寺の塔の中心となる礎石と考えられ、中央に直径61センチ、深さ13センチの柱穴を掘り、さらにその内部に直径10.1センチ、深さ8.2センチの舎利を埋納するための穴がある。
当初は松崎町にあったが、現在はこの天下茶屋の地に移されている。
昭和49年(1974)に大阪府指定有形文化財に指定された。
天下茶屋公園の真向かいにある寺が安養寺。
浄土宗知恩院派の一心寺の末寺として、元 禄2年(1689)、貞誉清薫尼が建てた尼寺。
明治20年(1887)の失火と昭和20年 (1945)の戦災で焼け落ちましたが、信徒さんのご協力で昭和34年(1959)に再建。
境内には近松門左衛門の浄瑠璃『心中天網島』の主人公である紙屋治兵衛の妻「おさん」と、鯛屋貞柳の流れをくむ狂歌師「佐藤魚丸」、大坂相撲の名力士だった「猪名川弥右衛門」の墓がある。
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