信貴山朝護孫子寺

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信貴大橋のバス停を降りると白虎が出迎えです。

開運橋上路

1930年(昭和5年)に大阪から信貴山へのアクセスとして、信貴山急行電鉄(鋼索線と、高安山駅~信貴山門駅の鉄道線)が開業したが、信貴山門駅から朝護孫子寺の間に大きな谷(大門池)があり、大きく迂回する必要があった。

そうした不便を解消するため、熱心な信者であった旧松尾橋梁株式会社の社長が信貴山に寄進したとのこと。

トレッスル橋脚を用いたカンチレバー橋であり、日本では最初期のもので、現在でも非常にめずらしい形式である。
外観は朱塗りされ、欄干には信貴山のシンボルである寅のイラストが随所に施されている。

戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。

1577年(天正5年)に同城の城主・松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も焼失するが、豊臣秀頼によって再建された。

現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している。

2/22、23はトラ祭りの大法要が行われる。

休憩所の特設祭壇に山積みに納められた約5000体の「張り子のトラ」を読経供養する法要が寅祭り。

祭りの当日は大変混雑するためあえて前もって訪問した。

今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。

太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。

その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。

太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。

境内の至るとこる寅のオンパレード。

よく見かける大寅、遠景は本堂。

成福院の塔越しに本堂を望む。

本堂から成福院の塔、地蔵尊を望む。
神仏習合の名残から、境内には鳥居も並んでいる。

醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をしました。

加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。
よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。

なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。

信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されている。

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