篠山城址

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二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。

東枡形、大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。
調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。

鉄門跡、二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。

調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。

これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。

水筋にあたる城の北、約2キロの田の中に、玉水と称するどんな旱年にも干したことのない水溜まりがありますが、これは城中の水量観測のために掘られたものといわれ、今も老松の陰にふしぎに涸れることなく、城の水の安全を保証しています。


葡萄の間の草花小禽図屏風。江戸時代後期の狩野惟信の作品で、藩主の青山家に伝えられていたもの。

大書院構造模型。大書院を復元するのに先立ち製作されたもので、建物の1/3の範囲が模型化されている。

大書院のような大規模建築は設計図だけでは構造把握が難しいことから、このような模型を作った。
宮大工二人が4か月かけて製作された非常に手のかかったもの。

二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごてん)、奥御殿(おくごてん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
 
これらの御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓(たもんやぐら)と門が配置されていた。
 
現在残っている二の丸御殿間取図(にのまるごてんまどりず)や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
 
しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

明治時代に入った1871(明治4)年に篠山城は廃城となりますが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望。

青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として1882(明治15)年5月に創建されたのが、ここ青山神社です。

篠山城の本丸の場所は築城当初と変わっています。

当初は現在の二の丸が本丸でした。
天守台が造られたことにともなって、ここが本丸になりました。

この埋門、非常時(敵が攻め入った時など)には、土砂などで埋めて塞ぎ、侵入を防ぐことを目的として造られた門です。

埋門を抜け、南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されているがなぜか今は通行不可となっている。

説明板にもあるとおり、外堀は現存だが内堀について言及されていないのは、内堀は戦後に一度公園化に伴い埋め立てられた(その後 史跡として復元された)経緯があるため。

高石垣で囲まれた本丸と二の丸のすべてに犬走が設置され、その外側には三の丸と水堀が広がっています。

今は駐車場になっている三の丸から内堀と石垣を眺めながら散策。

右奥が埋門、従来はここから南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されていたが今回、残念ながら通行不可になっていた。

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