昭和レトロの残る街美章園高架下

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近鉄電車「河堀口(こぼれぐち)駅」下車、JR阪和線沿いにぶらぶら歩きます。

こぼれぐち駅という読み、今初めて知りました。

和気清麻呂が、788年(延暦7年)に上町台地開削工事を行った際、掘りかけた堀川にちなむ。

堀川は河堀(こぼり)といい、なまって「こぼれ」となり、その掘り始めた場所であることから河堀口(こぼれぐち)となった。

駅の東側は古くからの商店や住宅が所狭しと軒を連ねている。

駅周辺や高架下などは、まさに時代が止まったように昭和そのもの。

高架下住宅が当時のままの姿で残るのも大阪ではここだけでしょう!

駅名の由来は、大阪の財界人である山岡美章が大正年間に設立した美章土地株式会社がこの駅の付近の土地を住宅地として開発したことに由来する。

ただし、開発したときの美章土地の経営者は大阪商工会議所第8代会頭、大阪商船(現在の商船三井)や日本電力(現在は解散)の社長などを務めた息子の山岡順太郎である。

1945年(昭和20年)2月14日[8]午後8時過ぎ、アメリカ軍による空襲で、B29が阿倍野区内だけに3発の爆弾を投下した。

そのうち1トン爆弾1発が当駅構内に落下し阪和線の鉄筋コンクリート橋脚を粉砕、付近の民家20件ほどを破壊し死傷者30余名を出した。

運悪く和歌山行きの電車が発車した直後でホームに多くの人がいたため、多くの死者が出た。

1951年(昭和26年)8月24日、駅東側に当時の駅職員によって「遭難供養之碑」が建てられた。

当時のままの姿を残しているバラック建て商店兼住宅の2階建てといった感じで、鉄骨を組んでるこの上は駅のホームなんです。

日本を代表する喜劇人であり、今は亡きミヤコ蝶々さんは、若かりし頃の終戦後の一時期、この高架下で生活していたそうである。

トタンの壁に木製のベランダ・・・・
高架下でお店は特に珍しくない・・・・けど、住居スペースは珍しいかと。

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