唐招提寺


鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

天平の遺風を現在に伝えるこの寺は、伽藍、規模ともに創建時の姿を残している。

金堂

国宝。奈良時代(8世紀後半)建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではない)。

鑑真2回目の渡航計画(同年)では、船は揚子江を下ったものの強風で難破する。

第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫し、船を出すこともかなわなかった。

748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。

陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。

753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。

遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩国に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。

同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。

大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。
数え年76であった。

鑑真の生涯や唐招提寺は井上靖の小説『天平の甍』(1957年)で広く知られるようになった。

鑑真和上の業績と名声を通じ、1978年(昭和53年)の日中平和友好条約の成立にも寄与し、高い評価を受けている。

金堂近くから「礼堂」「宝蔵・経蔵」周辺に伸びる小道を北に進み、「御影堂」のある道沿いに出て、東側のうっそうとした森に入っていくと、大変趣のある土塀や杉木立、苔むした地面が広がる空間が現れ、そこに伸びる道を更に北に進むと八角形の壁で囲まれ、中心には立派な宝篋印塔の建てられた鑑真和上のお墓(開山御廟・鑑真和上御廟)が現れます。

また墓所への参道沿いの杉木立の生える地面には、秋篠寺を彷彿とさせるほど立派な「苔」が見られ、木漏れ日が苔に差し込む風景は、美しい「庭園」にいるかのような風情を感じさせてくれるなど、「自然豊か」な御廟となっています。

鑑真和上御廟

同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えません。現在は御廟前に和上の故郷・揚州から贈られた瓊花が植えられ、初夏にその可憐な花を咲かせます。

鑑真和上の故郷である、江蘇省揚州市の名花で、ガクアジサイに似た白い可憐な花を咲かせる「瓊花(けいか)」の見頃に合わせ、御影堂供華園が特別開園されます。

現在、花を咲かせている瓊花は、鑑真和上遷化1200年の昭和38年(1963)に記念事業の一環として、中国仏教協会から贈られた一株の子です。

日 時:毎年4月中旬~5月上旬 9時~16時
※花の状態によって、期

鑑真和上ゆかりの名花 瓊花(けいか)と緑滴る唐招提寺
鑑真和上の御廟のそばと、御影堂供華園(くげえん)では、和上の故郷、中国揚州から送 … 続きを読む →


平城京の薬師寺にある東塔および本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。

21世紀の現在、東塔は平城京での新築とするのがほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。

11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の流記資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、足立康、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。

現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の天平2年(730年)新築と見る説が通説となっている。

ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、西塔は飛鳥からの移築だったとする説もある。

発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。

このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。

金堂本尊薬師三尊像については、既述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。

薬師寺のハス
唐招提寺に続いて薬師寺、今日はハスデーです。 『日本書紀』天武天皇9年680年 … 続きを読む →

この日偶然眞子さまにお会いした。
婚約を発表されたばかりで幸せそうであった。

その後あのような騒動になろうとは想像だにしなかった、お幸せになってほしいと願っている。

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秋篠川から郡山城へ


暖かい日差しを浴びてウォーキングです、尼ヶ辻を出発し、大和郡山城を目指しています。

流域の上流部から中流部にかけて市街化が進んだ地域であり、雨水の流出が増加し、浸水被害の危険性が高まっている。

今、秋篠川は工事中です、流域の何カ所かで工事が行われています。

桜も4分か5分の咲き具合でしょうか、堤防沿いに並木が並んでいます。

近鉄学園前駅からバスで5分ほどの所にある秋篠川沿い(奈良市中山町西)には、東西1.3キロに渡り美しい桜並木が広がっています。

秋篠川は周辺を西から東に向けて流れた後、秋篠寺・西大寺・平城宮跡・唐招提寺・薬師寺近くを南向きに流れ、最終的には大和川に合流する河川ですが、この桜並木はその上流・源流域にあたり、その細い水の流れと立派な桜の木が穏やかな風景を生み出しています。

遠景に薬師寺の塔が見えています。

「平和のシンボル、金魚が泳ぐ城下町」がキャッチフレーズの大和郡山市は、全国金魚すくい選手権大会が開催されている、マンホールにも、「わが町」の文字と共に金魚鉢で気持良さそうに泳ぐ金魚が描かれています。

大和郡山で一番見ごたえのある桜。

黒鉄御門跡から入城です。

桜もきれいに咲きそろっています。

織田信長の時代に、筒井順慶が築城。豊臣秀吉の時代に、豊臣秀長が百万石の居城とし、大幅に拡張された。

江戸時代には郡山藩がおかれ、水野氏、松平氏、本多氏などの統治の後、柳澤氏が入り幕末まで続いた。。

明治維新後、多くの建物は破却されたが、近年、追手門・櫓・天守台などが修復・整備され、城跡に一段と風格を添えている。

「続日本100名城」(財団法人日本城郭協会)に認定されている。

城跡は桜の名所としても有名で、満開の桜のもとで開催される「大和郡山お城まつり」は多くの人々で賑わう。

天守台に多くの人が昇っています。

どうやらコロナで「大和郡山お城まつり」が中止になり、代替行事として武者行進(50名程度)が行われている。

予期せぬ行事に出くわしびっくり。

武将に扮した方々が郡山城跡内を行進、出陣式、撮影会 などが行われました。

極楽橋を渡って天守台で鉄砲隊の演舞が行われ新しい形で充実した内容になりました。

天守台に上がっていた人達は鉄砲隊の演舞を見るべく待っていたのだ。
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近所の桜


三寒四温と言いますか暖かかったり冷たい雨が降ったりですが、今日はすこし晴れ間が出ています。

いきなり桜が咲きだした感じです、カメラを持っていつもの散歩コースを歩いています。

五分か六部の咲き具合です。

皆気持ちよさそうに通り過ぎていきます。

住之江公園も華やいできました。

護国神社にも桜を見に来る人が・・・

まだ、コロナが納まりきってなく、あちこちに木の下で花見をしないでくださいとの張り紙が見られます。


住之江公園にはナイター設備のある野球場が1面と広めのグランドが2面あり野球をやるにぎやかな声が響いています。

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もうすぐ春


まだ花の少ない時期、モクレンが目立ちます。

もう明日から春分です。

2022/03/21:初候 雀始巣(すずめ はじめて すくう)
2022/03/26:次候 桜始開(さくら はじめて ひらく)
2022/03/31:末候 雷乃発声(らい すなわち こえを はっす)

ここ数日でユキヤナギが一気に咲きました。

しかし、季節外れの寒さに襲われています。

三連休最終日から連休明けにかけては広範囲で雨、その後も西日本や東日本を中心にすっきりとは天気が回復せず、気温も低い傾向となる・・・と予想されている。

護国神社の早咲きの桜はそろそろ終わりを迎えます。

ソメイヨシノも蕾が含み、今にもはじけそうな様子です。

スノーフレークが爽やかに咲いています。

昼前、暖かくなってから散歩です。

心字池ではカモが気持ちよさそうに泳ぐ。

一足早いお花見 住之江公園のカンヒザクラ(寒緋桜)
今日はD800に105mmマクロの組み合わせで一足早いお花見です。 新聞にも掲載 … 続きを読む →

先日お伝えした緋寒桜もまだきれいに咲いています。

当初は新聞にも掲載され、多くの人が訪れていましたが、今は静かです。

ゆっくりと鑑賞できます。

家の近くで「思いのまま」を見つけました。

1本の木に紅白の花を咲き分ける品種です。
実際には多いと「紅色」「淡桃色」「白色」「斑入り」「絞り」の5色に咲き分けるようです。

この「思いのまま」という品種名の由来ですが、品種改良の際に思うような色の花が出てこず、改良を手掛けた園芸家にとっては「思いのまま」にならず、梅にとっては「思いのまま」に花を咲かせることから命名されたようです。

世の中思いのままにならないことの多いことよ。

春分の日と夕日
今までにお彼岸にはよく夕日を追っかけて走り回りました。

二上山に沈む夕日
高見の郷の桜の後は道の駅で買い物をしたりと楽しいドライブです。 「道の駅宇陀路 … 続きを読む →

橋上への落陽ならず
春分の日、秋分の日は明石海峡大橋上に陽が沈むという。 少し早めだが天候を見計らっ … 続きを読む →

四天王寺に有難い夕陽を拝む
もうすぐお彼岸です、ここ四天王寺ではお彼岸に西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄 … 続きを読む →

真西に沈む夕日が浄土への白道
仏教では涅槃の世界を「西方浄土」と呼ばれる通り、阿弥陀仏の極楽浄土は「西」にあるとされています。そのため、真西に太陽が沈む春分の日(秋分の日)は夕日が極楽浄土への道しるべになると考えられていました。
この太陽が示す極楽浄土への道を「白道(びゃくどう)」といい、この白道を信じて進めば必ず極楽浄土に行けると言う信仰が生まれたんですね。

日想観は石鳥居の中心に沈む夕日を拝んで極楽浄土を観想する伝統行事で春分の日と秋分の日に執り行われる。

暑さ寒さも彼岸までといいますけど、彼岸の時期は一番過ごしやすい時期ですよね。
ただ、この時季の平均気温は秋より春が低めですので、体調管理は十分ご注意してお過ごしくださいね。

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北野天満宮 花の庭


残されていた庭石を利用して「花の庭」が復興されたというので北野を訪れた。

今日はあいにく「三寒四温」の寒の日でとても寒い。

「三寒四温」は、本来は冬の気候。
おまけに外国に多い現象。

しかし、今は日本の気候に合わせて2月から3月上旬、冬から春への季節の移り変わりの時期に使われるようになっているようだ。

梅苑「花の庭」 – 明治時代までこの地には、北野社神宮寺成就院(成就坊)があり、そこには俳諧の祖と仰がれる松永貞徳が作庭した庭園「花の庭」があった(一説には祇園にあったともされる)。「

花の庭」は、妙満寺塔頭・成就院の「雪の庭」(現在は本坊の庭)、清水寺塔頭・成就院の「月の庭」とで、成就院「雪月花の三名園」と呼ばれていたが、明治時代に成就院が廃されると「花の庭」も壊された。

しかし今年、2022年(令和4年)に残されていた庭石を利用して「花の庭」が復興された。

苑内を一望できる特設舞台が設置されている、しかし、花はまばらで迫力に欠ける。

その点、道明寺天満宮では参拝者が目の高さで梅を観賞できるよう、梅の剪定を何度か行なっています。
道明寺天満宮梅が見頃
天満宮には、なぜどこにでも「使いの牛」があるかご存じですか。 大宰府天満宮 大宰 … 続きを読む →

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春の気配


2022年の啓蟄は3月5日。

寒さが緩んで春の陽気になってきたことで、土の中から虫たちが動き出す季節になりました。

日差しにも温かみが感じられます。

ユリオプスデージー、晩秋から春まで、花の少ない季節に黄色い花を長期間咲かせてくれます。

円満な関係・夫婦円満・清楚・明るい愛・無意識・無邪気という花言葉があります。
明るい愛という花言葉には、花の少ない季節に次々開花させ、黄色い花が周りを明るく照らす様から付けられたとされています。

ユーフォルビア・カラキアスは地中海沿岸が原産の植物で、ドウダイグサ科のユーフォルビア属に属します。

花のように見える独特の形をした緑の苞がたくさんついて、細い葉は斜め下を向いています。

黄色い水仙の花言葉には、「私のもとへ帰って」「もう一度愛してほしい」「愛に応えて」という意味があり、ルナキッソスとはまた別の、冥界の王ハーデスのギリシャ神話を由来としています。

冥界の王ハーデスは豊穣の女神デメテルの子どもであるペルセポネに一目ぼれして、黄泉の国に連れ去りました。

母親のデメテルは怒り悲しんだことがきっかけで、「私のもとへ帰って」などの意味が付けられるようになりました。

また、「もう一度愛してほしい」「愛に応えて」の花言葉は、冥界の王ハーデスが連れ去ったペルセポネの愛をつかむことができなかった思いからつけられました。

公園の片隅、ふと漏れた木漏れ日にも春の温かさを感じる。

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一足早いお花見 住之江公園のカンヒザクラ(寒緋桜)


今日はD800に105mmマクロの組み合わせで一足早いお花見です。

新聞にも掲載されていたのでご存じの方も多と思いますが、住之江公園では寒緋桜が見頃です。

カンヒザクラ(寒緋桜、学名: Cerasus campanulata (Maxim.) Masam. & S.Suzuki)はバラ科サクラ属の野生種のサクラ。

旧暦の正月あたりに咲くことからガンジツザクラ(元日桜)と呼ばれることもある。

別名ヒカンザクラ(緋寒桜)、タイワンザクラ(台湾桜)、ヒザクラ(緋桜)とも言う。

なお語呂が似たヒガンザクラ(彼岸桜)はエドヒガンとコヒガンの通称であり別種である。

樹高は亜高木で樹形は広卵状。

日本の本州では樹高4mほどの亜高木にしか育たないが、台湾では10mを超える高木に成長することもある。

花は中輪の一重咲きで、釣り鐘状の下向きに閉じたような半開きの形で咲き、濃い紫紅色の花弁を付けるのが最大の特徴。

学名の種小名 campanulata は「カンパニュラの様な」と言う意味で、キキョウ科ホタルブクロ属(Campanula、カンパニュラ)の花が下向きに咲く所になぞられて名付けられており、中国語でも「鐘花櫻花」と呼ばれる。

沖縄でサクラといえばこの種を指し、1月~2月に開花することから「元日桜」との別名がある。

沖縄では山間にも見られるが自生なのか、人為的に持ち込まれたものが野生化したものなのかは判っていない。

ただし、石垣島にある自生地は国の天然記念物に指定されている。

この種に近いとされるサクラはカンヒザクラ群と呼ばれる。
カンヒザクラ群には以下のような種類が含まれる。
ここでは一部を上げる。

アタミハヤザキ(熱海早咲)
イズタガアカ(伊豆多賀赤)
オオカンザクラ(大寒桜)
オカメザクラ(阿亀桜)
カワヅザクラ(河津桜)
カンザクラ(寒桜)
ケイオウザクラ(啓翁桜・東海桜・岳南桜)
シュゼンジカンザクラ(修善寺寒桜)
タイリョウザクラ(大漁桜)
ツバキカンザクラ(椿寒桜)
ハツミヨザクラ(初御代桜)
ミョウショウジ(明正寺)
ヨウコウ(陽光)
ヨコハマヒザクラ(横浜緋桜)
リッシュンカンザクラ(立春寒桜)
リュウキュウカンヒザクラ(琉球寒緋桜・琉球緋桜)

花言葉は「艶やかな美人」

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日暮れ時 住吉大社


今回もD800に50mmf1.8の組み合わせ。

この時期住吉っさんは4時半に閉門です。

上の写真の右側の古木、かなりの老木で貫禄です。

結城のしだれ梅

太鼓橋脇の紅梅

住吉公園心字池畔の梅

澪標の巻は、光源氏が住吉神社に参詣する場面を描いている。

その際に、源氏のかつての愛人明石の上が、船に乗って沖合に現れる。

源氏はそれを見て、鉢合わせになることを恐れ、引き返す。

この絵では、牛車に乗っている源氏の前に、明石の上を乗せた船を描いている。

巻のなかの最も劇的な部分をイメージ化している。

無形文化財の住吉踊りがかっぽれのルーツといわれています。

住吉大社では毎年6月14日「住吉の御田」として知られる御田植祭りがあり、無形文化財の「住吉踊り」が奉納されます。

江戸の願人坊主(がんにんぼうず)たちがこの踊りのバリエーションを始めたといわれます。

住吉踊りには「御連中」という一座があり、それは広重の浮世絵江戸百景の中にも描かれています。

汐掛道 此の参道は昔住吉大社の神事の馬場として使われていた場所で社前から松原が続き出見の濱に出る名勝の地であった 浜で清められた神輿が通るために汐掛道と称した  古くから白砂青松の歌枕の地として多くの文人墨客が往来した

住の江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通い路 人目よくらむ         古今和歌集 藤原敏行
我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ             古今和歌集 詠み人知れず
住之江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見て             藤原定家
まつかげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の濱                藤原定家

住吉大社 松苗神事2013
境内に松の苗を植樹し、俳句を披露する神事。 平安時代から住吉大社に伝承されている … 続きを読む →

岸の姫松
住吉の 岸の姫松 人ならば 幾世かへしと 問わましものを (読み人知らず) 古今 … 続きを読む →

住吉の 岸の姫松 人ならば

幾世かへしと 問わましものを

(読み人知らず)

光と影~レンブラント光線
昨日の日暮れ薄明光線が見られた。 「薄明光線」のほか、別名が多数ある。 気象現象 … 続きを読む →

光芒とも呼ぶ。

天使の梯子(てんしのはしご、angel’s ladder)
天使の階段(angel’s stairs, angel’s stairway)
ゴッドレイ(God Ray)
ヤコブの梯子(Jacob’s ladder)
レンブラント光線

きれいな夕焼けです。

住吉の松を象徴するがごとく公園には松が多い。


位置を変えながらいろいろな構図で撮って見た。

中々絵になると思いませんか。

昨日は二十四節気「雨水」の最終日。

この「雨水」の頃から春にかけて降る雨は、「養花雨 (ようかう)」や「催花雨 (さいかう)」と呼ばれ、梅や桜など春の花の開花をうながすと言われています。

日中はストーブもいらなくなり、ちょっと動けば腕まくりをするほどに暖かくなってきた今日この頃。

この頃から草木も芽を出し始め、昔から雨水は農作業の準備を始める目安とされました。

次の二十四節気は、『啓蟄(けいちつ)』です。

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大阪城散策


天満に所用で出かけたおり大阪城を散策、時計回りに一周した。

今回もD800に50mmf1.8の組み合わせ。

OMM(大阪マーチャンダイズマート)のところにある飛び駆けるマーキュリー像。

像の前にある説明板によれば、これは16世紀イタリアの彫刻家ジャンボローニャ作の「飛び駆けるマーキュリー」(イタリア国立美術館)をもとに昭和47年10月につくられたもので彫像鋳造はフィレンツェのブルノ ベアルジ。

午後の日差しがビルを照らす。

平成元年(1989)ドーンセンター建設に伴い深さ2mの地点で発見された石垣を、地上に移築。

高さは約3.3m、野面積み石垣。
秀吉の晩年、慶長3年(1598)に大坂城防衛のため造られたもので、大坂冬の陣後に家康によって取り壊され埋めらたもの。

総延長約150mの石垣で大手門学院小学校まで伸びていた。
現在、石垣は路上に面しており見学自由。

大阪城 乾櫓

大阪城西の丸(二の丸)の西北に位置し、櫓の西側と北側が西外堀に面している。

昭和20年(1945)8月、第二次大戦時の空襲では爆弾が乾櫓北側の水掘に落ち、石落としが吹き飛ぶなどの被害を受けた。

昭和31年(1956)から始まった解体修理で、乾櫓は本来の姿にと大々的に修理され、現在、見られる姿となった。

西外堀から望む天守閣

京橋口

京街道に架けられた『京橋』に由来する。

京街道に向かう玄関口であるため、とびきりの巨石が多く使われている。

その中でもひときわ目を引くのが城内第2位の巨石として知られる肥後石だが、昭和40年代までは城内第1位とされていた

正面に見えているのが京橋門枡形 京橋口二番石。

横 11.5メートル 縦 3.8メートル 推定重量 81トン 讃岐小豆島 担当大名は 岡山 池田藩。

三の丸地区の「筋金門跡」

大阪城に残る戦災の傷跡
あまりにも平和ボケしてしまった現代人は、つい半世紀ほど前の戦災のことなど忘れてし … 続きを読む →

大阪城の謎を探る
大阪城の謎を探ると題するツアーに参加した。 大阪冬の陣夏の陣で家康の本陣となった … 続きを読む →


「大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)」

「守衛所」は現存しているが、当時の屋根は失われており、煉瓦の一部も崩れているなど、痛みが激しい。

現在の「守衛所」は柵で囲われ立ち入り禁止になっている。

「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」

三の丸地区の「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)付近に「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」が遺されている。

この建物は、工廠の「化学分析場(化学実験場)」であった。

建築家の置塩章(砲兵工廠建築部)が設計、大阪橋下組の施工によって大正8年(1919年)に竣工した。

戦後、昭和39年(1964年)~平成10年(1988年)、自衛隊大阪地方連絡部が建物を使用していたが、現在は使用されていない。

建物はネオ・ルネサンス様式で、煉瓦造、地上2階・地下1階である。

北外堀から天守閣を望む。

京橋口を望む。

北外堀の東端、青屋門を望む。

青屋門右の石垣に説明文があります。

青屋口は大阪城二ノ丸の北側に位置する出入口で、青屋門はその桝形の内側に建っています。

創建は徳川幕府の大坂城再築工事が開始された1620年(元和6年)と考えられ、明治維新の大火により被災し、その後、陸軍によって改築されましたが、1945年(昭和20年)の空襲で再び焼失しました。

その為、この青屋門は1969年(昭和44年)に大阪市が残材を用いて再建した門になります。

現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門ですが、江戸時代は櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く伸びていました。

桝形とは敵の侵入を防ぐ四角い区画のことで、青屋口の桝形は二ノ丸の他の各口とは異なり、外側に突き出す出桝形でした。

「青屋」の名前は、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられています。

梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となった。

今では100品種を超える梅が見られる。

厳しい寒さの中、百花に魁て花を開き、清楚に香る梅の花。

そのゆかしい趣は、日本人の感性を優しく包むきわめて日本的な風情であるが、梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園にはほぼ毎年訪れる。

大阪城梅園 望遠マクロで撮る
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梅林は「市正曲輪」という場所にあります。

豊臣時代に秀頼の後見人であった片桐市正(いちのかみ)且元の屋敷のあった場所。

江戸時代には城内警備に当たる大番職を助勢する加番職のための三つの屋敷(加番小屋)が南から順に立ち並んでいた場所でした。

しかし戊申戦争の折りに全て焼失しており残っていません。

内堀から天守台を望む、もう陽も西に傾いている。

徳川期大坂城の桜門の創建は枡形虎口の普請が完成した寛永元年頃といわれているが確証は無いらしい。

明治元年戊辰の役の火災で、虎口内の石垣に焼けた痕跡が残ることから多聞櫓は全焼、この時、桜門は半焼したのではないかと推測されている。

桜門の名称は、豊臣期大坂城二の丸に桜の馬場があり、その門付近の桜並木にちなみ、そう呼ばれたのが始まりだとか。

現桜門の西側に桜門土橋を横矢掛できる曲輪があるが、豊臣期はちょうどそのあたりに桜門があった。


西に傾いた陽が強い影を作る。



千貫櫓、多聞櫓の間から天守閣。

千貫櫓
大手門を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓(すみやぐら)。

名称は石山本願寺を攻めた信長軍がこの付近にあった櫓を攻めあぐね、「千貫文を出しても奪いたい」といわれたことに由来するという。

多聞櫓は他の櫓や門などの重要文化財のようにそのまま現存したわけではありません。
1783年に落雷で全焼し、再築されているのが特徴です。

多聞櫓という名前の由来が、戦国武将・松永長秀の多聞城の形式を使った櫓だからというも紹介されています。

重要文化財 千貫櫓・多聞櫓・金蔵の特別公開 「大阪城」
特別公開の最終日、前日のハイキングで疲れた足を引きづりながらやってきた。 今日は … 続きを読む →

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万博公園 梅園


万博公園内の自然文化園の梅林には、5500平方メートルの敷地に約120品種・約600本、日本庭園の梅林には、約40品種・約80本の梅があります。

この2ヶ所の梅林で合計約141品種・約680本の梅の花が楽しめる。

梅の原産地は中国の長江中流、湖北省の山岳部。

「白加賀」は江戸時代から「加賀白梅」の名で栽培された品種と推定される。

主に関東地方に多く栽培される品種で特に群馬県の栽培が多い。
来歴がまったく不明の優良種である。

映山白(エイザンハク)漢字では「叡山白」とも・・・・

豊後系・豊後性の白い八重咲きの大輪(花径30から40ミリ)。

中国原産で、日本へは古代に渡来した。

大盃(オオサカズキ)は、緋梅系・紅梅性の早咲き品種。

花は桃色の中大輪で一重咲きです。

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