雪の東福寺通天橋


鳥羽街道から東福寺へ向かう。

平安京造営にあたり、平安京の玄関口である羅城門(羅生門)から真っ直ぐ南下していた計画道路である鳥羽作り道(とばつくりみち)に端を発する。

なお、この鳥羽作り道の久我森ノ宮から山崎へ南西方向に直線的に進んでいた道が久我畷(こがなわて)である。

鳥羽作り道は桂川河畔の草津湊を経て、巨椋池岸の納所(のうそ)へとつながっており、水上交通との接点となっていた。ここが納所と呼ばれるのは、平安京へ運ぶ物資の倉庫であったことに由来すると言われる。

また、鴨川と桂川に隣接している。

これらの河道が大きく変化したことによって、最初は直線であった道も時代が経つにつれて次第に蛇行するようになった。

南大門(京都府指定有形文化財)

三門(国宝) – 応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。

上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門である。

三門は、空門、無想門、無作門(むさもん)の三解脱門の略で、涅槃に達するために通らなければならない門とされています。

大屋根の4隅には角柱がありますが、これは天正13年(1585年)に豊臣秀吉が三門の傷みを大修理した際に補足した柱で、通称「太閤柱」と呼ばれています。

三門の南側には、思遠池(しおんち)という池があり、夏になるとハスがたくさんの花を咲かせます。

昨夜来のうす雪が積もりまたとない景観を醸している。

東司(とうす、重要文化財) – 室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司(便所)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから百雪隠(ひゃくせっちん)とも呼ばれる。

内部は中央通路をはさんで左右両側に円筒の壺を埋める。

禅堂(重要文化財) – 貞和3年(1347年)再建。

豪壮な姿に往時の隆盛がしのばれる単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂。

経蔵 – 寛政6年(1794年)再建。

通天橋 – 仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。

1959年(昭和34年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となった。

一面の紅葉も見事だろうが、雪景色もなかなかのもの、枯山水を見ているようだ。 

前方に見えるのは臥雲橋、橋脚から屋根まで木造りの臥雲橋は生活道路でもあるが、この橋から通天橋を眺める景色はCMなどでもお馴染み。

東福寺の通天橋は、東山から流れ出る三ノ橋川に架かる橋。

普段はちょろちょろしか水は流れていませんが、通天橋や臥雲橋から下をのぞき込むとわかる通り、川が流れています。

この三ノ橋川は、伏見稲荷大社のある稲荷山(233m)の北麓に源を発し、東福寺境内を横断し、琵琶湖疏水(鴨川運河)の下をくぐり抜けて鴨川へと流れ込んでいます。

小さな川ながら、東福寺境内では高低差10mほどの深い渓谷を刻みながら西へと流れています。

青空と木々の緑の中で愛らしくも感じる朱色の杮葺き八角円堂「愛染堂」が佇んでいる。

愛染明王を祭る愛染堂は縁結びにも御利益があるといわれている。

大きな門までたどり着くと、上部に楼閣が張り出しているのが特徴的な開山堂(別名 常楽庵)が正面に見える。

聖一国師が祀られるのが、通天橋の先にある「常楽庵(じょうらくあん)」。

門を入ると、眼前に開山堂があり、その左右には、「枯山水」と池を配した「鑑賞式」、二つの庭が広がります。

角度によって別の顔がのぞめる、不思議なお庭です。

右は、普門院 – 文政9年(1826年)再建。
現在工事中。

客殿(重要文化財)と庫裏(重要文化財)からなる。

かつて京都十刹の一つに数えられていた名刹普門寺の名残を残している。

青空に月が覗き、屋根の雪とともに見事。

墓地への小径、一部壁が崩落して風格を見せる。

三ノ橋川には、上流から「東福寺三名橋」ともいわれる偃月橋(えんげつきょう)、通天橋、臥雲橋の3つの橋がかかっており、通天橋は真ん中の橋。

1380年(天授6年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは:普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。

南宋径山(きんざん)の橋を模したもので「通天」と名付けられた。

現在の通天橋は、1959年(昭和34年)に台風で倒壊した後、1961年(昭和36年)に再建されたもの。

黄金色に染まる三ツ葉楓は開山の聖一国師が宋から伝えた唐楓といわれている。

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なんば光旅 なんばパークス


難波駅前広場に、思わず写真に撮りたくなるようなフォトモニュメントが登場。

なんば駅前は幻想的なパープル1色。

2階南側エントランスゲート、スカイオへと誘う、雲海をモチーフとした積み重なった光のゲート。

2Fパークス通り、木々が光に照らされて、歩くと華やかな気分になります。

シャンパンのようにきらめく光のデコレーション、今年で10回目を迎える、なんばエリアを華やかに彩るイルミネーションイベント。

パークスガーデン入口から階段を上っていくと、素晴らしいイルミネーションを見ることができます。 

青色のイルミネーションの中に、白色の光がちらちらと降ってきて、「光の滝」と呼ばれています。

夜空をバックに見る光景の幻想的な美しさは、言葉では表せません。


円形劇場に“煌めく草原”が登場

今年で10回目を迎える、なんばエリアを華やかに彩るイルミネーションイベント。なんばパークスでは、8階円形劇場に「煌めく草原」が輝きを増して登場。

色とりどりのイルミネーションが広がる中、白や青に煌めく光が幻想的な世界を表現する。

「南海ホークスメモリアルギャラリー」

お帰りノムさ
大阪球場跡地に建つ「なんばパークス」の「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、昨 … 続きを読む →


8階・9階の屋上部分は、まるで光のテーマパークの様に辺りが輝いています。

グランドキャニオンから見下ろす光の滝。

[パークスガーデン3・4階 ウッドデッキ]

ウッドデッキスペースには、ゆっくり寛げるベンチがたくさん。

光に包まれるような癒しの空間が広がっています。

2Fパークス通り、ワゴンの植え込みがきれいです。

なんばウォーク1番街の「アートパーク」にはシカゴ美術館所蔵作品の複製陶板画が並ぶシカゴギャラリーがあり、モネやスザンヌといった有名な絵画の複製画が楽しい。

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大仙公園


北東に大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、南西に上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)があり、両古墳に挟まれる位置に広がっており、園内にも小古墳が点在している。


堺市博物館、自転車博物館、堺市立中央図書館、堺市茶室「伸庵」「黄梅庵」、堺市都市緑化センター、平和塔、日本庭園などが設けられている。

1989年(平成元年)に「日本の都市公園100選」、「大阪みどりの百選」、2014年(平成26年)には「日本の歴史公園100選」にそれぞれ選ばれた。


大仙公園の南半は、1629年(寛永6年)に江戸幕府の代官・高西夕雲と堺の豪商・木地屋庄右衛門によって開発された新田で、当初は万代(もず)新田と呼ばれたが、のちに夕雲開(せきうんひらき)と呼ばれるようになった。


伸庵(しんあん)

明治から昭和にかけて多くの茶室を残した数寄屋普請の名匠・仰木魯堂(おおぎろどう)が手がけて1929年(昭和4年)に建てられた茶室。

以前は東京・芝公園にあったが、福助が寄贈し、1980年(昭和55年)に現在の地に移築された。

国の登録有形文化財に登録されている。

玄関横に設けられた立礼席は、移築の際に加えられたもので、一般の人もお茶を楽しむことができる。

2007年(平成19年)の将棋竜王戦第一局の会場となった。

黄梅庵(おうばいあん)

元は、堺の商人で茶人だった今井宗久所領(現在の奈良県橿原市今井町)の豊田家にあった茶室。

明治から昭和にかけて日本の電力開発に尽力した「電力の鬼」にして近代の数寄者・松永安左ヱ門(耳庵)が、戦後に小田原の別邸内に再興した。

黄梅庵の名は、梅が熟し黄色く色づくころに完成したことから耳庵が名づけたもの。

現在の地には、耳庵の遺族から寄贈を受け、1980年(昭和55年)に移築された。

国の登録有形文化財に登録されている。
普段は内部は公開されていない。

平和塔

堺大空襲などの死者、堺市の戦没者らの鎮魂を祈念して1971年(昭和46年)に建設された、高さ60mの大仙公園のシンボルタワー。

内部は非公開だが、階段が設けられており頂上に上ることは可能になっている。

園内には医師のモニュメントか点在しているが古墳と関係あるのかな。




この蔦の絡まった古い民家、周りの景観と不釣り合いで異彩を放っている。
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朝の街 住吉大社界隈


高燈篭より二百メートルほど西の民家前(住之江区浜口西1)に「住吉高灯籠跡」の碑が立っています。

早朝 住吉大社
夜明けの住吉公園。 この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当 … 続きを読む →

高燈篭は古くから住吉の名所として広く知られ・・・・

剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。

宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。

住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。

船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。

大阪最古の公園である住吉公園に昭和8年ラジオ塔が建設されました。

エンタツ・アチャコの漫才や甲子園の中学対抗野球等が流されて、市民の憩いの場になっていたようです。 

しかし60年の風雪に耐えたラジオ塔も損傷激しく、住吉公園開設120年を記念して、平成5年10月24日ラジオ塔を新しく建て替えました。

今は一般の放送は流れていませんが、多くの人が早朝からラジオ体操に参加され愛用されています。

古来住吉は松で有名です。

住吉公園に多くの松がありますがかなりの老木も目立ちます。

阪堺電車住吉鳥居前無停留所、この先前方左へ大きくカーブします。

井原西鶴句碑

貞享元(1684)年6月には、和歌の神様が祀られている住吉神社の境内で、一昼夜ぶっとおしで2万3500句もの俳句を詠み散らかしたという記録を打ち立てています。

西鶴は死に様も元禄六(1693)年8月10日に、大坂・鑓屋町(やりやちょう)の自宅で病のためになくなったということしかわからない。

死因は結核だったと伝えられます。
享年52歳でした。

彼の最後の句「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」は、「人生は50年といわれているのに、2年も多く生きることが出来た。その二年ぶん、浮世の空にうかぶ月を眺められた幸せよ」とでも訳しておきましょうかね。

井原西鶴といえば江戸の文豪、今風にいえば小説家の走りのような人のイメージがあります。

しかし、彼と文学の出会いは俳句でした。
ただ、井原西鶴の俳句は数が勝負の一発芸。

松尾芭蕉のように一句、一句の言葉を磨き抜いて表現するのではなく、パフォーマンスでした。

天王寺7坂めぐり ⑦真言坂
生國神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏廃仏毀釈まで神 … 続きを読む →

生玉神社といえば井原西鶴。

浮世草紙(小説、好色一代男とか)を書く前は俳諧師(俳句読み)だったらしく・・・・

住吉大社文華館

住吉大社には、国宝建造物である住吉四本殿や重要な文化財建造物の他にも重要文化財指定の住吉大社神代記、舞楽面、太刀を始め、古文書類、舞楽装束等の貴重な宝物類が点在して格納され、保存施設設備も十分ではありませんでした。

これら貴重な文化財を火災、破損、散逸等から守るため、一堂に収納保管し、また一般にも公開する等我々祖先が残した大切な遺産を永く後世に継承するため昭和52年5月住吉大社境内地に住吉文華館を建設しました。

御文庫(おぶんこ)は境内後方の神苑隅に南面して建っています。

書物を収めるために創建されたもので、施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだったとか。
奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

建物は寄棟造り本瓦葺きで、正面に扉がありその上部に唐破風の向拝を付け、2階両側面と1階片面に八角窓を開けています。

地域の文化活動を支えた同社の歴史を証する建物として国の登録有形文化財に指定された、土蔵造り2階建て。

種貸社(たねかししゃ)

元種を授ける神、初辰まいり1番参りで、「願いの種」を授かります。

ご祈祷した「お種銭(おたねせん)」を授かり、これを商売などの元手に加えて、資本充実の祈願をします。

また、子宝祈願の崇敬も厚く、殿内にはお子様を授かった方が奉納した「種貸人形(たねかしにんぎょう)」が喜びの数だけございます。

ご利益:資金調達・子宝・知恵
祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

朝の神々しいばかりの光が降り注ぐ。

早朝は降り注ぐ光の中を歩きます。


反橋に降り注ぐ光。

神々しいばかりの光をあひて参拝。

参拝者もまばらでひっそりとしています。

花ザクロはザクロ科ザクロ属の落葉小高木。

実ザクロの園芸品種でふつう結実せず、八重ザクロの別名の通り花を楽しむために作られたものです。

いろいろな花芸があり、枝先に紅や白の覆輪や八重咲きなどがあります。

古い風情のある屋敷、気になる存在ですが扉は閉ざされたまま。

気になりながら通り過ぎるだけ。
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朝の街 靭公園


四季に彩られるケヤキ並木、朝の清々しい空気を吸って散策します。

平成16年にリニューアルされたバラ園は今が見頃。

ロサ ルキアエ ウィクライアーナ

斑入りの葉と小さな小さな花が魅力的です。


ミネハハ

小輪、丸弁咲きの花が、寄り集うように房咲きとなります。
花色は均一に染まるライト・ピンク。

ブラグント’81

スカーレット色の堂々とした高芯剣弁咲き大輪花です。

アジサイも咲き始めました。

靭公園のバラ園は、世界約40カ国で構成される世界バラ会議で、最も美しいバラ園の1つとして2006年に優秀庭園賞に輝きました。

バラ園の面積は約9,000㎡の広さがあります。
この敷地内に、約170品種・約3,400株のバラが5月上旬~6月上旬と10月上旬~10月下旬の2回咲き誇ります。

園内では散策、ストレッチ、読書とそれぞれ楽しんでいます。


「大塩平八郎終焉の地碑」

教会建て替えのため移転を余儀なくされ、靫公園内に移設することに。

当初約200万円と見積もられた移設費用をまかなうため、昨年12月から寄付を募った。
200人以上から寄付金が集まり、3月に移設工事自体は完了した。

靭公園界隈
靱公園は、大阪市西区靱本町にある都市公園(総合公園) 四つ橋筋からあみだ池筋まで … 続きを読む →


公園の北側の「京町堀」は大坂冬の陣の後、人口が少なくなっていた大坂に再び人を集めるための政策が取られた際、伏見城下の京町から移り住んだ商人の地であることが地名の由来とされる。


1931年(昭和6年)まで、西端部に雑喉場魚市場があった。




おしゃれなカフェや雑貨店も多い。




人ごみが苦手な方にも、もってこい!ゆっくりカフェタイムを楽しむことができます。

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北加賀屋 ウォールアートの世界

久方ぶりに加賀屋を訪れた、メルヘンチックな世界に浸ります。

『銀河鉄道999』のヒロイン、メーテル <作者:E.LEE>

敦賀に「松本零士ロード」というのがあります。

かつては東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、敦賀は「日本でも有数の鉄道と港の町」でした。

1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて、「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像12体、「銀河鉄道999」のブロンズ像18体の計28体のモニュメントを敦賀駅から気比神宮までのシンボルロードに設置しました。

「松本零士ロード」 銀河鉄道999散策
スタートは敦賀の玄関口、敦賀駅、かつては東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦 … 続きを読む →


母親によく似た美女・メーテル
 
格差社会が激しくなった未来の地球。

母親を機械伯爵に殺された少年・星野鉄郎(CV:野沢雅子)は、永遠の時間を生きることができる機械の体を手に入れ、機械伯爵に復讐することを誓っていました。

そんな鉄郎がメガロポリスステーションで出逢うのが、ロシアふうの黒い帽子に黒いロングコートをまとった美女・メーテル(CV:池田昌子)でした。

母親によく似た面影のメーテルに、鉄郎は思わず見入ってしまいます。

警察に追われる鉄郎をメーテルはかくまい、しかも旅に同行してくれれば銀河鉄道のパスポートを渡すと持ちかけます。

機械の体を手に入れるためにはパスポートが必要ですが、鉄郎にはパスポートを買うお金はありません。

渡りに船です。かくして家族のいない孤独な少年・鉄郎は、謎めいた美女・メーテルと銀河旅行に旅立つのです。

<Rising water 作家:E.LEE>

ガッチャマンが脱出するところかな。

『b. friends on the wall(ビードット フレンズ オン ザ ウォール)』はギリシャ人のアーティストのb.(ビードット)さんが、小学生と共同で描いたウォールアート

ギリシャ出身のアーティスト、b.(ビードット)が100メートルにわたって描いたウォールペインティングは、カラフルでコミカルな宇宙人。

彼らが手をつなぐことで示す友情をすべての地球上の人々へ、というメッセージが込められている。


『NAMURA 152P』は152人の参加者で描いた、巨大な波のウォールアート

よく見ると色んな動物やキャラクター、文字が隠れているので、何が描かれているのかを探して楽しむこともできます

突然現れた新体操の選手。

「K」は K’ita‘K’agaya(北加賀屋)の「K」
  
ストリートアートで有名なイギリスのBen Eineさんの作品です





イギリスのアーティスト・Ben Eineが手がけた壁。


そして最後に見つけたのはかっこいい単車、男の子なら一度はあこがれた世界だ。

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自転車で大和川へ


コロナ過、いろいろな過ごし方が出てきていますが「チェアリング」も流行っているとか、ごろんと昼寝もいいかも。

堤防の上、川沿い、サイクリングや散策を楽しむ人がたくさんいます。

南海高野線、堤防下には紫と言うよりは、赤紫の花の名前は、ナヨクサフジです。

尚、ナヨクサフジの花言葉は「世渡り上手」だそうです。・・・

阪堺大橋から安彦大橋まで往復です。

堺の晩春を彩る“つつじロード”

樹齢80年を超えるつつじと、近年になって植えられた約2,500本、総延長約600メートルに渡るつつじのプロムナード。

“大阪みどりの百選”にも選出された旧浅香山浄水場や、浅香山緑道など一帯で、例年、4月下旬~5月上旬につつじが見ごろを迎える(新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2021年度の「浅香山つつじまつり」の開催は中止となりました)。

浅香山緑道に、与謝野晶子の歌碑がありました。

 ● 大和川 砂に渡せる板橋を 遠くおもへと 月見草咲く

 ● 沙(すな)白き 新大和川 わが町に さかひ(堺)少女(おとめ)の 浄(きよ)かれと添ふ

 ● 橋一つ 越え大阪に 続くより 近きこころに 作れ都も

日本の各地やヨーロッパを旅していますが、砂も水も美しかったふるさとの大和川がなつかしいとうたっています。

前方に阪和線が見えてきました、今大和川左岸を走っています。

奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。

奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。

生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野に出ると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込む。

管理境界地点の看板には下流は「大和川」、上流は「初瀬川」と記されており、この地点より上流が初瀬川と通称される。

ただしあくまでも河川法上は源流まで大和川である。
上流の橋の欄干や地図上では大和川と記されている。

奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。

同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。

安彦大橋で折り返しです。

右岸の阪和線下菜の花の群生がきれいです。

流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で水質の悪い一級河川の一つであり、2009年の調査では関東の綾瀬川に次いでワースト2位であった。

水質改善の取組により平成22年、23年には、国が管理する一級河川の中で、「過去10年間で水質が大幅に改善されている河川」で全国第1位になるなど水質の改善が進んでいます。

南海高野線まで戻ってきました。

大阪市と堺市の境界である大和川に架かる阪堺線の「大和川橋梁」、この橋は阪堺電気軌道の創業時の1911年製で、全長198mのプレートガーター橋です。

さらに橋を支える橋脚は珍しい鉄管柱で、近代土木遺産に選定されています。

川を渡る神輿~住吉大社神輿渡御
五月殿の前には夏越女らが乗る車が待機しています。 人力による神輿渡御は、実に45 … 続きを読む →

大和川夕景
今日もきれいな夕日、ススキが陽に映えてきれい、土手の上下に散策の人。 夕日を背に … 続きを読む →

チン電と夕日
チン電と夕日を狙うには絶好の日和だ。 大和川、遠里小野大橋の下で日差しを避けて時 … 続きを読む →

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雨の日 住之江公園界隈


犬の散歩も雨の日は大変です、ビショビショになって濡れるので、散歩後のケアが大変です。

ぬれそぼった猫、拡大して見ると毛もぴしょぴしょになっています。

飼い猫の寿命が10年以上、ときには20年近く生きる個体もあるのに対し、野良猫の寿命は3年から5年程度だといわれています。

こちらはちょうど餌やりに来た人がいるようです。

配達を商売にしている人も雨で大変です。

向こうからこちらへ向かっている人は交通整理のガードマンです、どちらも大変な職業です。

雨の日の花嫁も大変そうだけど拡大して見ると二人とも幸せそうな表情をしています。

雨のお出かけ、肩のあたりはぐっしょり濡れています、傘の猫がらがかわいいね。

少しの散歩だけど町は様々に変化しています。

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阿弥陀池から土佐藩邸周辺散策


鰹座橋交差点

鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられる。

鰹節を売買する鰹座があったことが橋名の由来で、また土佐殿橋とも呼ばれた。

江戸時代は鰹座橋と玉造橋の間に土佐藩大坂蔵屋敷があり、土佐廻船によって鰹節を始めとする海産物、材木などが大量に陸揚げされ、盛況を極めた。

玉造橋交差点

かつてあった玉造橋が交差点名の由来。

玉造の名は17世紀半ば、大坂城・玉造口の与力・同心が増員のため、ここに移転させられたことによる。

伯楽橋

明治41年(1908)、市電東西線開通に合わせて架橋。

西詰めに開かれた松島遊郭の圧力で 、昭 和15 年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。

伯楽というのは『荘子』に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しを見分ける名人のことで、そこから牛馬の売買・仲介者、病気などを治す医者のことなどを指す言葉になりました(伯楽の音変化で博労、馬喰ともいう)。

土佐稲荷神社(三菱発祥の地 岩崎家旧邸跡)

かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物が扱われた。

明治2年(1869)、岩崎彌太郎が土佐藩のお手先商法である「開成館貨殖局大阪出張所」の幹事心得となり、大阪事務所を指揮して汽船・武器の輸入に活躍。

翌年、廃藩置県が行われるとの情報で後藤象二郎、板垣退助らと協議して長堀川北岸に事務所を置き、藩から独立した九十九商会を設立、土佐藩の負債を肩代わりする条件で船3隻を入手して海運業を始めた。

廃藩置県後、一旦、三川商会となり、明治6年(1873)3月、三菱商会と改称。

これが三井、住友と並ぶ日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起こりです。

土佐稲荷神社は三菱発祥の地で、彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて社章(スリーダイヤ)を作りましたが、土佐稲荷神社の神紋の中にもスリーダイヤが入っています。

岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣なども三菱系列の会社が寄進しています。

また第12代横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存しています。

木村蒹葭堂邸跡碑

蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。

庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。

蒹葭堂は生まれつき病弱で手がかかる子どもであったので父より草木を植えて心を癒すことを許され、やがて植物や物産への興味に繋がっていく。

近年「浪速の知の巨人」と称され評価が高いが、事実・本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。

また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。

寛政2年(1790年)55歳のとき、密告により酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。

酒造の実務を任されていた支配人 宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう。

蒹葭堂は直接の罪は免れたが監督不行き届きであるとされ町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受ける。

彼の死後、膨大な蔵書は幕命により大部分は昌平坂学問所に納められたが、帝室博物館書目に昌平坂学問所の蔵書印が押された蒹葭堂蔵書の一部が確認できるため、いくつかの過程を経て一部散逸してしまったことははっきりしている。

昌平坂学問所に納められた大部分は、現在内閣文庫に引き継がれている

奇抜なウォールアート発見。

大阪・北加賀屋がカベジョの聖地に
インスタ映えスポットが見つかるサーチアプリ『GENIC WALL(ジェニックウォ … 続きを読む →


和光寺(阿弥陀池)

阿弥陀池は古代からあって、霊水が湧く有難い池で、廃仏派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇10年(602)に信濃の住人・本田善光に拾われて善光寺まで運ばれたという言い伝えがあります。

善光寺に紅葉を訪ねる
善光寺の御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた … 続きを読む →

皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたという。


元禄11年(1698)、堀江川が開削され、堀江新地の区画整理が始まると、翌年、長野・善光寺から智善上人を迎えて、阿弥陀池のほとりに和光寺を建て、善光寺本堂に安置されていた阿弥陀仏を本尊としてお祀りした。

境内及び周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席、軽業の見世物などが並び、2月の涅槃会や、4月の仏生会の植木市は、こと賑やかあったといいます。

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松下幸之助創業の地

福島区は大阪大空襲の被害をあまり受けなかった、区の7割が非戦災地域。

今では近代的な街に生まれ変わっているが、商店街の奥の奥は戦後のどさくさ横丁「地獄谷」、伝説のストリッパー一条さゆりの引退公演が行われた吉野ミュージック劇場が存在していた町でもある。

地獄谷、こんなディープゾーンがあったとは!

リバーガーデン福島 こもれびの丘

14,998㎡の広大な敷地を活かし大阪市中心6区最のガーデン。

アテナ塔

人々の幸せと森を守るアテナ神。
ここに住まう方、地域の方々全てが幸せに暮らせるよう遺跡に願いを込めました。

アテナ神の聖鳥である知恵の鳥フクロウも共に見守っています。

野田阪神駅前にはトヨタやイオンモールなどが並ぶ。

イオンとファッション・グルメなど多彩な専門店を有するショッピングセンター、ウイステ。

ウイステとは、植物の「フジ」(Wisteria)のこと。

15世紀ごろの当地周辺は「野田藤(ノダフジ)」と呼ばれるフジが美しく咲き乱れ、日本中に花の名所として知られていた(現在、福島区の花はフジである)。

このことから、新たに開業したショッピングセンターの愛称に、当地ゆかりの植物であるフジにちなんだ名が付けられた。

阪神本線の高架下、「野田阪神機械工具街」という看板が掲げられている。

この界隈は松下幸之助が電気器具工場を始めた地だけのことはあって、いまだに町工場の多い一帯だ。

松下幸之助創業の地記念碑(大開公園)

1918年(大正7年)松下幸之助23歳の時に、大阪市北区西野田大開町844番地(現在の大開二丁目)に借家を借り、妻むめの、義弟井植歳男(三洋電機創業者、当時15歳)の3人で松下電気器具製作所を創立。

1922年(大正11年)創業の家が手狭になったことから、西野田大開町896番地(現在の大開二丁目)に100坪余りの新工場(第一次本店・工場)を竣工した。

松下幸之助は終生この地に本籍を置いていた。

松下幸之助さんが誕生した、和歌山(紀州)を代表する石といえば、緑泥片岩(りょくでいへいがん)であり、阪南・和歌山から四国一帯にかけ一つに繋がる地層の中にある約1億年前の堆積岩で、緑泥岩を含んでいるため、青緑色に冴え、色があせず、景岩、石碑、石垣に用いられています。  

築城の名人・藤堂高虎が造った和歌山城の石垣をはじめ、松下幸之助氏生家跡の松下公園に建立された「松下幸之助君 生誕の地」(湯川秀樹氏 揮毫)などに使用されています。

和歌山周辺では昭和初期から採掘や採石が禁止され、現在は四国の阿波、伊予などのみで販売され、この緑泥片岩の石碑も、伊予西条市周辺の川から採石された自然石で、大きさ、形、色、艶など一番良いものを現地で探し当てました。

題字「松下幸之助創業の地」は、松下幸之助氏のご長女、松下幸子様の揮毫により刻み込まれました。

昭和7年(1932)の創業記念式典で、水道水のように大量の製品をどこでも安価に供給するのが産業人の使命であるという有名な「水道哲学」を説きました。

記念碑は直筆の「道」の文字が刻まれています。

「松下幸之助 創業の地」由来

松下幸之助氏:1894.11.27 ~ 1989.4.27 和歌山県海草郡和佐村出身。

この地大開は、松下電器産業株式会社の創業者 松下幸之助氏が大正7年(1918)3月7日、同社の前身「松下電器器具製作所」を創立した創業の地です。

のちに経営の神様と呼ばれ世界中にその名を馳せた松下幸之助氏は23歳の若さで配線器具の製造・販売を始め、昭和8年(1933)に門真市に移転するまでの15年余をこの地で過ごし、事業の進展とともに逞しく大開から巣立っていきました。  

松下幸之助氏は大開の人情や風土に育まれ、大開小学校の保護者会会長や大正14年(1925)には区会議員に当選するなど、文字どおり大開の一員として充実した日々を過ごしました。

松下電器の業容の発展に伴い移転を余儀なくされたものの、終生本籍をおいていたことが物語るように大開きは同氏ときわめてゆかりの深い土地であります。

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