工場夜景 浜寺公園


工場夜景を撮って見たいという願望はあったが、運転免許は返納してしまっており車が使えない。

諦めかけていたが浜寺公園の北の水路から工場夜景が撮れることを知り出かける。

画像は浜寺公園駅の旧駅舎。

第1回近畿の駅百選選定駅 浜寺公園駅舎
「東京駅」や「中之島中央公会堂」など、数々の重要文化財を手掛けた辰野金吾の設計に … 続きを読む →


工場夜景スポットの宝庫である堺泉北臨海工業地帯。

その中でも、公共交通機関でのアクセスが良いのが浜寺公園。

西側が浜寺水路に面しており、この運河ごしに工場夜景が広がっています。

阪神高速4号湾岸線越しに夜景が撮影できるが距離があるので中望遠以上のレンズがあった方がいい。

今日の相棒は、NIKKOR Z 24-200mm 
撮影データ 絞りf6.3 シャッタースピード30秒 iso感度100

水路の西側、三井化学大阪工場。

煙突からの水蒸気が流れていい感じ。

水路には灯りが影を落とす。

水蒸気が大きく流れる。

東に目を転じると浜寺水路に架かる府道29号線の浜寺大橋、その上を阪神高速4号湾岸線が走る。

浜寺大橋を渡るとすぐに東燃ゼネラル石油の工場があります。

浜寺公園と泉北一区臨海埋立地とに挟まれた幅200mの水路。

大阪府立漕艇センターにおいて、浜寺大橋から高石漁港に至るまでのうち2,000mをボート競技用のコースとして利用。

コース全長2,000m(B級1,000m・C級2,000m公認)、コース巾90m、レーン数6となっています。

漕艇センターは昭和44年関西随一の理想的漕艇コースとして誕生、平成9年第52回国体開催を契機に艇庫の増築やコース整備など大改修が行われた。

アクセス 電車の方は南海「浜寺公園駅」、もしくは阪堺電車の「浜寺駅前駅」から徒歩で10分程度。

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ゴールデンアワーの梅田を撮り歩く


ネコちゃんのビルの地下で軽く食事。

今日もシグマ 8-16mm F4.5-5.6 DC HSMがお供。

ちょうどゴールデンアワーの時間帯、黄金色の街を歩く。




やはりここはお気に入りの場所、足が向いてしまいます。

狭い路地り隙間から目標をパチリ。


今日の目的の場所。


阪神前の陸橋が金色に輝く、まさにゴールデンブリッジだ。



新しいスタイルの乗り合いバスが展示されています。

土曜日だが人出はまばら。



JR大阪駅に巨大ヒョウが!
飛び出す3D広告に思わずスマホをかざす人々。

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超広角で高層ビル群をダイナミックに


最近、「超広角レンズ」が熱い。

矢継ぎ早に魅力的なレンズが発表されています。

誘われるように普段疎遠にしている広角レンズを取り出した。

シグマ 8-16mm F4.5-5.6 DC HSM

最短撮影距離は24cm。最大撮影倍率は1:7.8倍。
レンズフィルター装着は不可。
本体サイズは75×105.7mm(最大径×全長)、重量は555g。

2010/4/29から順次発売

発売当初、世界初、8mmをカバーするデジタル専用超広角ズームレンズ。

2021年6月に発売されたM.ZUIKO DIGITAL ED 8-25mm F4.0 PROまで独断場だったと記憶している。

しかし、2019年生産終了。
記録を見ると2016年8月に購入している。

購入のきっかけは建物の撮影時に必要な距離が撮れず画角に納まりきらないことが多々あり、また、室内撮影で画角を確保するのが主目的であった。

当時から風景マクロの存在は知ってはいたが積極的に撮ろうとしなかった。

最近清家清子さんの作品で見て俄に興味を引き起こされた。

また、写真仲間の長老から定例会で、建物がゆがんでいることを指摘され当時初心者だった私はそれはダメなものだと思い込んでしまっていた。

一般的に35mm以下が広角レンズとなりますが、特に21mm以下は超広角レンズとなり、かなり広い範囲を撮影することができます。

被写界深度が深いので、画面の点前から奥の方まで綺麗にピントを合わせて撮影することができる。

そのため、奥行きのある被写体でも全体をくっきりと写すことができます。

画角が広いことも特徴。

画角が広いと広範囲の風景を撮影することができます。

また、遠近感を強調するという特徴があります。

超広角レンズレンズにはパースを強める効果があり、中央に向かって被写体が伸びていくような写真を撮ることができます。

写真に奥行き感が出せます。

超高層ビルが密集する梅田ならではの撮り方です。

この撮り方ができる場所はかなり限られており、日本国内で同じような写真が撮れるのは新宿(東京)・汐留(東京)・名駅(愛知)などです。

最近の超広角の開発主眼は16mmあたり。

ソニーもこの焦点距離に何本も製品を投入して攻勢をかけている。

作品作りの楽しみが一つ増えた。

大きく歪むという欠点を克服しながら付き合っていきたいと思っている。


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SONY αプラザ


ハービスエント 4F ソニーストア 大阪内で写真家の清家 道子さんの 作品展があり見に行く。

ハービスエントは大阪・西梅田に位置する、大阪最大級の高級ブランドビル。
四季劇場やビルボード大阪も。

ハービスENT(ハービスエント、英字表記:HERBIS ENT)は、大阪府大阪市北区梅田2丁目にあるファッションビル。

阪神電気鉄道が運営。

正式名称は梅田阪神第2ビルディング。

αプラザ(大阪)はハービスエント 4Fにある。

清家 道子 作品展
「光の記憶」

2022年9月24日(土)~2022年10月13日(木)

カラーコーディネーターを経て風景写真家となり、九州を中心に撮影活動している。

作品を通して彼女には色彩を学んでいるが、実際のレタッチになるとやり過ぎで失敗ばかりしている。

今回、大阪で写真展をやるというので見に行く。

お昼は地下のレストラン。

ハービス大阪の左側を裏道へ向かう遊歩道に猫ちゃんがいます。
正式名称「壁抜け猫」、作者は松永真さん。

地下には20店ばかりのレストランがあり、梅北のように込み合うことが無いのでいつも好んで使っている。

食後は地下街を西に散策。

梅田ダイビルは低層部の吹きぬけ構造が特徴で、2001年に第12回大阪施設緑化賞(みどりの景観賞)特別賞を隣接する安田生命大阪ビル(現 明治安田生命大阪梅田ビル)とともに受賞、同年の松井源吾賞、2003年の第23回大阪都市景観建築賞(大阪まちなみ賞)奨励賞を単独で受賞した。

ちょうど昼時で、多くのサラリーマンが食事や休憩を楽しんでいます。


ビルの谷間で紅葉した木を見つけた、もう秋なんです。

地上は並木がきれいです。

毎日新聞社ビル。


地下街の西端、もうすぐ先は福島になります。

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梅北散策


梅田での用事を済ませしばし撮り歩き。

今や北は工事真っ最中。

うめきた2期地区開発事業 建設工事の最新状況 22.09【2024年夏ごろ先行街開き】とのメッセージがありました。

いずれにしても2025年が一つの目標だろう。







今日もお昼は時の広場の「バール・デルソーレ」で

イタリアの本物カフェ、ソフトイタリアーノ、カルツォーネや本格ナポリピッツァが楽しめるイタリアの本質的なバールです。
(バールとは、イタリアの職人気質が、陽気に、いっぱい詰まったイタリアのカフェ)

ちょうどお昼時ですがご覧の通り、いつもがらんとしています。
くつろげる場所です。

営業時間 8:00~23:00(L.O.22:30)
定休 年中無休

【ディナー】3,000円 ~ 3,999円
【ランチ】~ 999円

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中近世の自治都市平野郷を訪ねる


全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。

全興寺を後にして平野郷散策へ出る。

戦国時代平野郷は、自衛のため周囲に堀をめぐらし、環濠集落を形つくっていた。

そして、出入口にはそれぞれ門と門番屋敷や地蔵堂を設け警備に当った。
濠の間には、大小十三の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていました。

ここは流口地蔵

流口は平野環濠の最南端の出入口で、流口木戸門から南下する道は中高野街道です。

中高野街道は喜連・瓜破を通り、嘗て平野川の水源だった狭山池で堺から来る西高野街道と合流する信仰の道です。

蘇民将来と疫病よけ

『釈日本紀』巻7に引用されている『備後国風土記』逸文に、疫隅社(えのくましゃ)の縁起として、次の説話が記されています。

昔、北の海に住んでいた武塔神(むたのかみ)が、南の海神の娘のもとに出かける途中、二人の兄弟に宿を乞いました。

兄の蘇民将来(そみんしょうらい)はとても貧しく、弟は裕福で大きな家に住んでいました。

弟は惜しんで家を貸そうとはしませんでした。

一方、兄は粟の茎で編んだ座布団をすすめ、粟飯と粟酒などを出してもてなしました。

数年が経ち、武塔神は八人の子神を連れてその地を再び訪れました。

そこで、「私は、以前受けた恩に報いようと思う。

あなたの子孫は家にいるか」と尋ねました。

蘇民将来は「私の娘と妻とが家におります」と答えました。

すると武塔神は、「茅の輪をその娘の腰に着けさせよ」と言います。

そのとおり娘の腰に茅の輪を着けさせたところ、その夜に娘一人を除いて、その土地の人々はことごとく殺され滅ぼされてしまいました。

武塔神は、さらに「私の正体は速須佐能雄能神(はやすさのをのかみ)である。

今後、疫病が流行することがあれば、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を着けていれば、死を免れるであろう」と言いました。

この説話は、疫病消除の「茅の輪」の由来譚となっていますが、「蘇民将来の子孫」が呪文となり、疫病除けの護符に使用されます。

また、武塔神はスサノオノミコトと名乗っていますが、後には祇園社(八坂神社)の牛頭天王と習合し、その信仰は複雑に展開していきます。

おもろ庵

昭和博物館みたいな古民家カフェ

折角だが本日は定休日。

小林新聞

新聞屋さん博物館

朝日新聞誕生の地、大阪市内で一番古い朝日新聞販売店”小林新聞舗”。 
創業は明治22年。
 
館内には、明治時代の大阪朝日新聞・大阪毎日新聞、日清戦争から現在までの号外、読者サービスでであった明治時代からの双六・画報・優待券などの付録の他に、珍しい新聞販売資料・写真など数千点の所蔵の中から約二百点が展示されている。 

建物はモダンなアーチ型の窓があるノスタルジックな大正風。

店名は「アート」だが雑然としていてアートの感じがしない。

何処の商店街も同じだがやってるのかどうかよくわからない。

樋尻口は竜田越奈良街道や八尾街道に通じる道です。

樋尻門筋の名前は東に平野川から環濠の水を引く樋があったことに由来します。

樋尻口の守護神だった樋尻口地蔵は地雷で首を吹き飛ばされたという伝説があります。

真田幸村が家康を狙い地蔵付近に地雷を仕掛けましたが、家康の身替りになった地蔵の首が全興寺まで飛びました。

平野公園は環濠の一部であつた松山池の跡地につくられました。

公園内には環濠の痕跡がわずかに往時の名残をとどめております。

公園の周囲に環濠に沿って築かれた土塁が残っています。

観光の目印のようですが、説明がなく使い方不明です。

転用石

石垣をつくるため、墓石や民家の礎石だけでなく石仏までかき集めたというのは、領主にとって名誉な話ではない。

敵から没収したものなら自慢にもなるが、ほとんどは領民から取り上げたものである。

すなわち、石材を揃えられなかった事実は資金に窮していたことの証である。

やむを得ないことであるなら、見えない部分である地面や水面の下になる箇所に使用すればよい。

ところが、転用石の多くはわざわざ正面中央部や角の部分など、人目につく部分に使用されている。

城には物理的な強さだけでなく、多くの人の力を結集したという事実にもとづく呪術的な強さが必要というのが戦国時代の考え方であり、領民から集めた石を石垣にしたのはその現れだったとも考えられている。

墓石や石仏には人々の先祖代々の思念や信仰の力が籠もっているため、石垣の素材としては最適という考えが成り立つ。

転用石をよく見える場所に置くのは、領主と領民が一体となったことを誇示するものであり、石を提供した領民へのサービスであったという見方もなされている。

赤留姫神社

「赤留比賣命」は日本神話に登場する神で、新羅から祖国であるとする本邦へ渡来したとされています。

本社社殿の左側(北側)には「住吉社」(写真右側)と「金刀比羅社」(写真左側)が西向きに鎮座。

住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』にも「子神」として「赤留比賣命神」が記され、古くから住吉大社と関係が深かったことが窺えます。

境内入口。西向きに鳥居が建っています。

社地は横(南北方向)に広く縦(東西方向)に狭いため、鳥居をくぐってすぐのところに社殿が建っています。

拝殿後方に建つ本殿は銅板葺・一間社流造で朱塗りが施されたもの。

やや小高いところに建っています。

拝殿前の狛犬。砂岩製で、がっしりとした体格のもの。

神社の前に猫好きのおばちゃんがいてしばらく猫談義。

生活感は感じられないですが、風情のある建物です。

『鍾馗さん』は京都や奈良の町屋によく据えられている飾り瓦です。

中国で鬼を退治したという伝説の英雄で、疫病神を祓い、魔を取り除くと信じられてきました。

昔、ある薬屋が大きな家を建てた際、屋根に大きな鬼面瓦を据えたそうです。

その鬼瓦を見た、向かいの家の娘が、その鬼に常に睨まれているような気がして夜ごとうなされ、ついには病気になって寝込んでしまったのです。

家族は病気を直すために、様々な手をつくしたけれど、一向に良くならないので娘が言う、その鬼瓦を取り外してくれないかと、薬屋に頼んだのですが、薬屋には大金を払って取り付けた鬼瓦なので外す事はできない!と言われてしまうのです。

そこで家族は鬼に勝つものは何か?と考え、中国の伝説にならい鐘馗さんの瓦を特別につくってもらい屋根に置いたそうです。

すると、娘の病はすっかり回復したといいます。
これが屋根のうえに飾るようになった由縁とされているそうです。

立派な板塀のお家。

長寶寺 王舎山長生院

坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃の春子姫が、延暦二十五年(806)桓武天皇崩御により、弘法大師に帰依し剃髪し慈心大姉となられ、長寶寺を開基されました。

「王舎山」の山号は、後醍醐天皇が、皇居を吉野に移される時に、長寶寺を仮の皇居とされ、その時に賜ったものです。

境内の手水鉢には 水神に祈願するため 瓢箪(ひょうたん)を模した石に柄杓(ひしゃく)で水を掛けるようになっている。

銅鐘は建久三年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘の一つに数えられています。 

ともに国の重要文化財に指定され、市立美術館に寄託されています。

広大な寺域に多くの堂宇があったが、元弘の乱(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰した。

「平野郷町誌」によれば、現在の本堂・庫裡は、当寺第三十三代・慈源大姉の時、天保年間(1830-1844年)に再建されたと言う。なお、当寺の住職は代々坂上家の女子が補されることになっている。

防火水槽 58 ■ 平野区平野本町3-1-19

平野区ではじめて見つけた防火水槽は、ご覧の通りの本格派。

さすがは戦火に巻き込まれることなく今も風情ある旧平野郷にとてもマッチした物件です。
 
この第58号、昔ながらな格子ある町家の中に、まさに“鎮座”しています。

その材質は重厚感のある石。その上には木のフタ、そして大きな重石。

“イザっ”と言う時にヤワな人では消火作業できんのやないかとは思いますが、構成美としてはじつに落ち着きがあってかっこよくまとまっています。
 
よく見ると、どうやらこの物件の正面には文字が彫り込まれています。
 風情ある平野郷にあまりにぴったりすぎて“出来すぎ”な感もありますが、ほとんどオブジェとして残っているというのもちょっとテーマパークっぽくてええかもしれませんね。ま、“戦争遺産としての防火水槽を探す”というニュアンスからすると…ややはずれているとも思いますけれども。

古風な街並みに場違いなBar。

テントの破れと壁に絡まる蔦、面白い取り合わせ。

蔦だけでもおもしろてオブジェ。

平野郷十三口  田辺道西脇口地蔵

この地蔵堂は田辺道西脇口門の傍らにあったもので、田辺方面へ通じる木戸口であった。

環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなった。   説明板より

南口地蔵とも子安地蔵とも呼ばれ、南下すると堺口から延びる住吉・堺に通じる八尾街道に合流します。

西脇口には昭和55年まで南海平野線が通り平野駅がありました。

現在は線路沿いに細長い公園になっています。

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暮れる街を駅へ急ぐ 湯浅


山田川の北橋の上から今帰ってきた西を眺める、左が大仙堀。

もう既に暮れかかっている。

北町通り、「北町茶屋 いっぷく」に転がり込む、歩き疲れてもう一歩も歩きたくない心境。

暖かいコーヒーをいただきしばしの休憩。

北町通を西へ歩いている、この先が角長。

この先を左に折れれば「陣風呂」

陣風呂の前を西へ。

「坂越まち並み館」のおばさんに教えてもらった路地の歩き方を参考にしながら歩く。

こういった路地から見た本通りがポイントと教わった。

だいぶ西へ来すぎたので東へ進まねば・・・・

太陽を背に進めばいい。

大通りが見えてきた。

左深専寺、ここまでくればもう駅も近い。

湯浅駅から伝統的建造物保存地区へは道路が舗装されていてわかりやすい。

田舎の夕暮れは早い、もうほとんどの家が店じまいをしている。

立石道標まで来た。
ここから駅はすぐそこだ。

一安心したらお腹がすいてきた、昼ご飯以来食べていないが、この辺りには食事できる場所はない、先を急ぐのみ。

ほんとによく歩いた、この日の歩数は24,000歩を越えている。

駅前複合施設「湯浅えき蔵」の完成を記念し、1997年に長野県の美ヶ原高原美術館に展示されていたブロンズ像「変容の刻」が寄贈されている。

美ヶ原と言えば野外彫刻の宝庫、以前の訪問を思い出した。
野外彫刻 – 美ヶ原高原美術館
美ヶ原高原美術館はその高原の東側、牛伏山の東側斜面に、およそ4万坪の広大な敷地に … 続きを読む →

しかし、これからがまだ大変なのだ何せ1時間に1本の列車を待たねばならない。
どうやら青春18切符も当初の思惑とはだいぶ趣を異にしている。

適当に途中下車して観光しながら旅を…というのは遥か昔の話で、うかつに途中下車しようものなら次の列車がないのだ。

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熊野古道と醤油の街ノスタルジック散策


湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る町としても知られています。

交通上重要な位置にあった湯浅は、近世に入り次第に商業都市として発展を遂げます。

その核をなしたのは、なんといっても醤油です。

鎌倉時代、中国の宋で修行を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」から生まれたのが、現在の日本の醤油の始まりと言われており、紀州湯浅は「醤油発祥の地」と知られています。

白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく残す貴重なものと認められたのです。

熊野古道へ向かう分岐点「立石(たていし)の道標」

熊野街道の遺跡として、町民によって大切に守られてきた「立石の道標」。

建立は天保9年(1838年)で、「すぐ(まっすぐ)熊野道」「きみゐでら(紀三井寺)」「いせかうや右(伊勢・高野山は右へ)」の彫文字を確かめられます。

斜め向かいに江戸後期の町家を改修した休憩所「立石茶屋」があり、軽食や名産品を販売しています。

中世には天皇や貴族などの貴賓層が中心であった熊野詣は、時代が下り街道が整備されていくと、庶民にも広がり人々の往来は一層盛んになった。

蟻のように大勢の人々が詣でる様を例えて、「蟻の熊野詣」という言葉もみられるほどである。

さらに、熊野詣だけではなく那智山青岸渡寺から始まる西国三十三所巡礼にも、この辺りでは熊野古道が使われるようになり、多くの人々が行き交っていた。

『湯浅おもちゃ博物館』は文化庁の委託事業として発足。

古民家の良さをできるだけ残し、おもちゃの展示や手にとって遊べる空間をつくり、子供から年配者までが楽しめる地区全体の交流拠点を目指しています。

新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、長期休館中です。

湯浅町は、紀伊半島西部にある広さ20平方キロメートルほどの町。

入江の奥に位置するこの町は、海路の便が良かったこともあり、古くから物流の中心地として栄えてきたほか、1800年代初頭にはなんと92軒もの醤油屋が営業していたという醤油醸造の町としても有名です。

ここには、平成18年に文部科学省から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたエリアがあり、いまでも江戸~明治時代の面影を残したままになっています。

近年では、醤油醸造の歴史に触れ、時代を感じられるその町並みが、観光スポットとしても注目されています。

Ⅰ.湯浅姓の由来

1: 湯浅姓は、地名から発祥したものと思われます。
この土地に、湯浅と名が付いたのは、中世の初め頃で、
今よりも海は、ずっと内陸まで入っていて、水がきれいで浅く、
入り江や中洲のある美しい所を意味します。
(他に法皇・上皇命名説など諸説あり)

2: 中世の平安時代末期に(西暦1140年頃)この地に湯浅宗重が湯浅党を旗揚げし、 それ以来300余年に渡りこの地は栄え、1450年頃、町は残りましたが、湯浅党は滅亡しました。 湯浅の主だった人々はその間に、あるいはその時に、全国にちって行ったのです。

3: 明治に近代国家が樹立され、住民の戸籍が整備された時、湯浅姓を名乗る人々が多く出ました。  現在全国に約12,000軒と推定されています。

民家の軒先の連子格子に蒸籠箱を利用した作品がディスプレイされた「せいろミュージアム」

辻行灯は、家屋や建具の古材を用いて津浦氏が自作しており、住民からの依頼にもとづいて設置している。

古い民家の残る通り。

湯浅の風情を短歌に詠んだ野口雨情。

ノスタルジーな路地。

路地から大通りを眺める。

崩れかけた白壁、とてもノスタルジックです。

津浦家(旧内伝麹店)

「内伝麹店」は、醤油や金山寺味噌の製造に欠かせない原料である麹の製造販売業を営んでいました。

主屋は近世後期の様式で、明治 11 年(1878)に建てられたことが判明しています。

岡正

鍛冶屋町通りと北町通りが接する角地に位置する。

建物はもと「京喜屋(きょうきや)」の屋号をもつ呉服店の一部であり、入居者が三代にわたり「岡正(おかしょう)」と称する酒店を営んでいた。

建築年代は江戸の終わりか明治前期頃で、主屋は北面し、切妻造平入(きりつまづくりひらいり)、本瓦葺とする。間口は六間あるが、西三間半と落棟(おちむね)の東二間半は構造的には分離している。

奥行きはわずか二間で、側面から見ると蔵のような外観となる。

あちこちに自転車が・・・・・

屋号“まるしち”で親しまれている鮮魚店。

湯浅湾で水揚げされたばかりの地魚や干物が並んでいます。

「えりすぐった魚でないと、お客さんに出されへんからね」ときっぱり。

隣のカフェに持ち込める「焼さば」は売り切れ御免。
午前中が勝負です!

戸津井家(戸津井醤油醸造場)

「戸津井醤油醸造場」は江戸文化年間創業の醤油醸造家でした。

創業時には、「竹屋(たけや)」の屋号を称していましたが、明治元年(1868)からは「丸竹(まるたけ)」と屋号を改めています。

主屋は昭和 11 年(1936)の建立で、湯浅の戦前期の建築の特徴をよく伝えています

ノスタルジックな路地散策、今日は雲がとても印象的です。

湯浅駅から歩いて10分ほどのところにある古民家風カフェ「北町茶屋いっぷく」。

旅の疲れを癒してくれる趣ある空間です。

新鮮なお刺身やうどん、カレーといった食事メニューのほか、ケーキやぜんざいなどのスイーツも揃っています。

散策で疲れた時の休憩にぴったりのお店です。

千山庵

1棟まるごと貸し切りの宿。

宿泊棟は「きたまち」に8人用と6人用。
「かじやまち」に10人用。

北町通りに面した築150年を超える古民家を改装した1日1組限定の宿。

土間や吹き抜け、天窓、低い天井など、当時の造りが残されており、湯浅の歴史や文化を感じながら、ゆったりとした時間を過ごせるのが魅力。

みやげ処 ふみよ

ここにしかないローカルなお土産が欲しいなら…

おけきの焼きもちを食べ歩きながら進んでいくと、次のおすすめスポット「 庵茶屋の和(いおりちゃやのわ)」が見えてきました。

こちらは手仕事のカトラリーとアクセサリー、焼き物や手芸品を販売するお店で、カフェも併設しています。

店内には店主自ら製作している木製のカトラリーやアクセサリー、地元の手芸作家さんが手掛けた作品が並びます。

販売されている作品の数々はどれも個性豊かで自由な表現力が目を引きます。

太田家(太田久助吟製)

「太田久助吟製」は、金山寺味噌を製造販売。

江戸時代には醤油醸造を営んでいましたが、戦後に金山寺味噌に業種変更しました。

かつての醤油蔵で昔ながらの金山寺味噌が作られています。

「北町ふれあいギャラリー」も湯浅駅から歩いて10分ほどのところにあります。

古い建物を使用したギャラリーには、絵画や写真などを展示しています。

ひと昔前の日本にタイムスリップしたかのような空間に身を置くと、懐かしい気持ちとともに心が癒されていきます。


歴史を感じる自転車は、現役?
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銭湯跡歴史資料館 甚風呂


湯浅の街歩いていると面白いものが次々と現れる。

散策中に地元のカメラマン氏に遭遇、定例会のネタ探し最後はこの辺りが頼りなんだけど・・・とのこと。

江戸後期から昭和60年まで営業の公衆浴場。

湯浅の町並の特徴である小路の辻に立地し、個性的なデザインの塀を構えた浴場と経営者の住まいであった主屋で構成されています。

瓦葺の塀には、菱型の開口部が設けられています。

とても印象的な塀は大正時代のデザインです。

正式な名称は「戎湯(えびすゆ」でしたが経営者(須井甚蔵)の名前から「甚風呂(じんぶろ)」と呼ばれ、長年にわたり地域住民の憩いの場として親しまれてきました。

廃業から10年以上が過ぎ、主がいなくなった甚風呂は平成13年に町の財産となりその歴史が受け継がれました。

平成19年から2年かけた修理工事を経て平成21年から銭湯跡民俗資料館として公開しています。

一歩入れば、タイムスリップしたような、のんびりとした時代の面影が見え隠れする懐かしい空間です。

番台(ばんだい)

入り口を入ってすぐにあるのが番台です。 

番台は入浴料を徴収するところですが、男湯と女湯の双方が監視できる場所に作ってあります。 

番台の前の脱衣所には、男湯と女湯の仕切りがありますので、双方からは見えません、甚風呂では仕切りは取り外しており、広い空間になっています。 

明日から後のひな祭り 湯浅
平安時代末期から南北朝時代にかけては、湯浅荘を根拠地とする湯浅宗重ら湯浅党が、紀 … 続きを読む →

雛の飾り付けがされています。

浴室(男湯)

男湯の壁面には、昭和30年代に放映された映画のポスターが掲示されています。 

湯浅町にはかつて、湯浅会館と旭座の2つの映画館があり、風呂場の脱衣場に映画のポスターが貼られていました。 

掲示されているポスターは甚風呂の改修工事の際、押入れの長持ちの中から見つかったものをクリーニングして掲示しております。

2本立て50円鑑賞料ですので、当時の物価が偲ばれます。

男湯です。
床は石造りで珍しい。

浴槽へは壁側からも入れるようになっていて親切設計。

とても重い洗面器。戎湯と彫られています。

女湯と男湯とつながっています。
別々で沸かさなくていいし便利ですね。
もぐって女湯に入ってくる強者とか居なかったんでしょうか。

昔は仕切りなど無く子供が行き来してたそうです。

「ゆ」と書かれた蛇口。

浴室(女湯)

浴室は左右対称に、男湯と女湯に分かれています、甚風呂の浴槽は特徴があり立ち湯(立ったまま入浴する方式)の構造になっています。 

奥に見えるのが子供用の浴槽で浅くなっています。 

浴槽は二つあります。浅い方は子供用?
深い方は立って入るそうです。

顕国神社秋祭りの展示室

毎年10月18日に、顕国神社の秋祭りが行われます。 

各町内から、神輿を繰出しお渡りが執り行なわれます。 

この神輿は、伝建地区の北中町のものです。 

壁面には昔の祭りの古写真が展示されています。 

湯浅の祭りの特徴は、馬宿を設け、祭りで馬の早駆けが行われ、町中を馬が疾走する豪快な祭りでした。 

特に明治の頃には、中町の通りが広かった為、賞金を掛けた競馬も行われていたそうです。 

昨今は、馬を飼う家もなくなり、祭りに馬使われなくなりましたが、北浜町が馬でのお渡りを復活させています。 

吹抜展示室・駕籠(かご)

江戸期の終わりから、明治にかけて使われたものですが、お医者さんの往診に使われていたようです。 

大名や武家が使ったものに比べて、質素な作りになっていますが、駕籠かきを雇うのにかなり経費が掛かったようです、昔もお医者さんはお金持ちだったようですね。



焚口

甚風呂では、最初のころは、薪やおが屑でお湯を沸かしていましたので焚口が残っていますが、後年重油ボイラーに切り替わったので、焚口が改造されています。 

燃料タンクと循環ろ過器が写っています。 

焚口の周囲は、防火のためレンガが使われています。

2階展示室・徳利(とっくり)

「とっくり」といえばお酒を連想される方も多いでしょうが、湯浅は醤油の醸造業者が多く、この写真に写っているのはすべて醤油徳利です。 

大きいのから小さいのまで、様々な醤油徳利が作られていたようです。


右の取っ手を廻すと「リ、リ、リン」と音が鳴る手回しの電話機。


蓄音機。現役で使えるそうです。

アクセ  JR湯浅駅下車徒歩約10分

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純白のアウトドア大理石博物館「未来心の丘」


「未来心の丘」は、広さ5,000平方メートルにもおよぶ白い大理石の庭園で、世界を舞台に活躍されている彫刻家  杭谷一東(くえたにいっとう) 氏にその制作を依頼しているもの。

天猫
仏教護法の十二天より
「月天(がってん)」を望む猫

猫が月を望む「天猫(てんねこ)」

十二天の「月天(がってん)」は猫とコラボ。
笑っているような表情で、癒されます。

大理石はすべてイタリアから運ばれてきたものを使用

使われている大理石の総重量は約3,000t。

東京タワーに使われた鋼材が3,600tと言われているので、とにかくスゴい重量です。

敷地面積は約5,000平方メートル。

サッカーコートとほぼ同じくらいの広さです。

東南方を護る「火天(かてん)」の炎を表現した「未来からの炎」

未来心の丘の中央にそびえ立つ「光明(こうみょう)の塔」

十二天とは東西南北の四方と東北・東南・西北・西南に上下(天・地)を加え、さらに日と月の天尊を加えたもの。

よく耳にする帝釈(たいしゃく)天や毘沙門(びしゃもん)天なども、この十二天に含まれているそうです。

光明の塔は未来心の丘のシンボル的存在で、十二天の「日天」が放つ光(希望)を表現したもの。

仏教護法の十二天より
「日天(にってん)」が放つ光
(希望)の塔

西に沈む太陽に合掌

「カフェ・クオーレ」

大理石が惜しみなく使われ、こちらもアート作品。


風の四季
仏教護法の十二天より
西北方を護る「風天(ふうてん)」の屏風

どの屏風が春?夏?秋?冬?

白獅子の塔
仏教護法の十二天より
南西方を護る「羅刹天(らせつてん)」 が乗る獅子

アクセス
[船] 三原港または尾道港から瀬戸田行きの連絡船を利用。瀬戸田港からは徒歩15分。
[自家用車] しまなみ海道 生口島北ICから20分程度。

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