紅葉に彩られた 吉野山・世界遺産ハイキング

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表題はいかにも紅葉真っ盛りの吉野山を連想させますが、実際は数日前に吹き荒れた大雨によって殆どの紅葉は葉を落としてしまったようだ。

おまけに天気予報は雨100%。
小雨をついてのウォーキングだった。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

近鉄吉野駅から「ささやきの径」を辿る。
傘をさしたり、畳んだりしながら如意輪寺を目指す。

ご覧の通りの落ち葉の径だが、まだ少々紅葉が残っている。

如意輪寺
平安時代の延喜年間(901年 – 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。

以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。

後村上天皇に仕えた女官に、弁内侍と言う者があった(日野俊基の娘)。
日ごろ から天皇の寵愛を受けていたが、ある時、高師直が自分の妾にしようとして内待を 誘ったが、途中運よく通り合わせた正行によって難を救われた。

その因縁もあって、 天皇より正行へ給わらんとしたが、正行は戦に出ることをおもって
   とても世に永らふべくもあらぬ身の仮りのちぎりをいかで結ばん
と断った。
そしてその翌年、四条畷に戦死したのである。

内待は悲しみの余り、吉 野郡龍門村龍門寺に入って髪を切り、尼となって正行の菩提を弔った。
その時の歌に
   大君に仕へまつるも今日よりは心にそむる墨染の袖
とあり、その黒髪の一部を埋めたのが、この至情塚だと言われている。

正行公及び百四十三人が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髻は、その後、御陵の 西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつり、楠塚と唱えた。
安政4年(1857)に至りこの五輪塔を廃して碑を建て、上方に「正行公埋髻墳」、 下方に「精忠兼至孝至節在天聞五百年前月今仍照髻墳 芳山司職免堂撰」と刻した が、その後、御陵の拡張と共に現在の地に移転改葬された。

正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。
正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。

世泰親王墓は後醍醐天皇陵への参道を入ったすぐ右手にある。
世泰親王(ときやすしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。
長慶天皇の皇子(第一皇子か)(後醍醐天皇のひ孫)で、母は従二位教子と推定される。

延元4年(1339年)8月16日、皇位を後村上天皇に譲った後、52歳でこの世を去ります。
後醍醐天皇が病の床に伏されたとき次のような歌を詠まれています。

身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」 と詠み都を憧れつつ、吉野金輪王寺でついに崩御されたそうです。

後醍醐天皇の遺骸は後醍醐天皇が勅願所とされていた如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬され、後醍醐天皇のごいしどおり、京都に対する願いを表すために、天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっており、「北面の御陵」として有名です。

如意輪寺から五郎平園地へ向かう石仏のあたりはまだ紅葉もきれいだった。

如意輪寺の方向を望めば真っ赤な紅葉とイチョウの黄のコントラストが見事だ。

五郎平園地も紅葉は見事で、ウォーカーが弁当を広げる姿が見られた。

寺伝によれば、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年~824年)空海が入り常泉寺と称したという。
1385年(至徳2年/元中2年)に竹林院と改められた。

戦国時代の院主尊祐は弓道に優れ一派をなした。
明治初年の神仏分離に伴い1874年(明治7年)廃寺となったが、その後天台宗の寺院として復興、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)現在の修験道系統の単立寺院となった。役行者霊蹟札所。

伝承によれば、天智天皇から逃れた弟の大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮にとどまっていた。

ある冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねたところ、「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせです」と答えた。
その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされる。

文禄3年(1594年)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となった。
もとは金峯山寺の蔵王堂の前に在って密乗院と称していたが、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称された。
現在は宿坊も営む。

善福寺
神武天皇が東征したおり、八咫烏(やたがらす)と吉野の首長であった井光大神(いびかりおおかみ)がその道案内を勤めた、という伝説がある。
その井光大神の住居があったという地に、善福寺は建っている。

善福寺を開いたのは役行者。
平安初期には空海が大峯山で修行中、この地で休息をとったとも伝えられています。
善福寺は吉野山にあって、ひっそりとまるで隠れ寺のようにたたずむ。

寺の脇には大きなサルスベリの木だろうか、その奥には紅葉も美しい。

山肌に上昇霧が見える。

勝手神社跡
平成13年に不審火で本社が焼失してしまいましたが、源頼朝に追われた源義経が吉野に逃れた際に身を隠した場所だといわれ、義経と別れた静御前が頼朝に捕らえられ、舞を舞った場所だとされています。

もとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)だったが、明治維新の神仏分離(廃仏毀釈)により、神社となった。
後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。

社伝では、白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け,一時居所とした。

後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。
門前名は「天莫空勾践 時非無范蠡」と記された木札が見える。
  天勾践(こうせん)を空(むな)しうするなかれ
  時に范(はん)蠡(れい)無きにしもあらず

太平記で有名な作楽神社に事跡を記した。

境内脇に「人目千本」の碑が建つ。
見渡せば桜の紅葉は終わってすでに落葉してしまっている。

後醍醐天皇のほか、源義経や豊臣秀吉ゆかりの地でもあり、多くの文化財が所蔵されている。

吉水院庭園
豊臣秀吉が吉野で大花見をした際、吉水神社は花見の本陣となり、豊臣秀吉が自ら基本設計をしたという庭園。

日本住宅建築史上最古と言われる「書院(重文)」には、後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があり、重要文化財に指定されている。

本殿は旧吉水院護摩堂。
また、ここには勝手神社が仮遷座されている。

弁慶の力釘
義経一行が吉水院(当時)に滞在している時、弁慶が力試しに指先で石に押しこんだもので、「弁慶の力試しの釘」と伝わります。

参道の紅葉は真っ赤できれい。

東南院(とうなんいん)は、大峰山の持護院。
金峯山修験本宗別格本山。
役行者霊蹟札所。
山号は大峯山。
開山は役行者。

二天門跡
本堂(蔵王堂)の南正面には現在は門がないが、かつてはここに二天門があった。
信濃出身の武士であった村上義光(よしてる)は、元弘3年(1333年)、護良親王の身代わりとしてこの二天門の楼上で自害したと伝えられ、門跡には「村上義光公忠死之所」と記した石柱が立つ。

四本桜
本堂前の広場に石柵で囲まれた一廓があり、4本の桜が植わっている。
ここは、元弘3年(1333年)、北条軍に攻められた大塔宮護良親王が落城前に最後の酒宴を催した故地とされている。
石柵内に立つ銅燈籠は文明3年(1471年)の作で、重要文化財に指定されている。

大塔宮護良親王御陣地碑
1332年(元弘2年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の変の際、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時、吉野山(吉野城)を拠点として活動した。

しかし、翌1333年(元弘3年)には幕府方、二階堂貞藤率いる軍勢に攻め入られ陥落。
この時、村上義光が大塔宮の身代わりとなって蔵王堂で自害し、宮は高野山方面へと逃れたとされる。

蔵王堂境内より南朝妙法殿を望む
この南朝妙法殿は、南朝四帝と南北朝時代以後の戦乱によって死亡した多くの霊を祭るために、昭和三十八年秋に建立されたという。

もともとは実城寺の本尊であった、木造釈迦如来座像(重要文化財)と普建、文殊の両菩薩を主尊としている。
この釈迦如来像は、数多い金峰山寺の仏たちの中でももっとも古い仏像で、檜の一木からできているという。

金峯山寺・仁王門の「阿形像」。
像高約5.5mもある巨像で、室町時代の仏師・康成の作とされている

銅の鳥居(かねのとりい)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山寺の銅で造られた鳥居。
大峰山上までに修行(しゅぎょう)、等覚(とうかく)、妙覚(みょうかく)の3つの門があり、この鳥居は第一門で「発心門」とも呼ばれていた。

創立年代不詳であるが、俗に東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)鋳造の際に余った銅を使い建立されたという。

黒門
金峯山寺の総門。明治以前は大名といえども、馬を下りなければならなかったと伝えられる。
ケーブル吉野山駅から徒歩数分のところに建つ黒塗りの高麗門で、金峯山寺の総門である。
現存する門は1985年の再興。
その先は黒門坂。

芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。

正式名称は「昭憲皇太后・御野立ち跡(しょうけんこうたいごう・おのだちあと)」と言う。
名前の由来は明治天皇の后(妻)であった昭憲皇太后が、この場所から吉野山の桜を眺望された事に因む。

春は七曲り坂に咲く桜を展望するのに最適な場所であり、その光景は吉野山を代表する桜景色の一つ。
ベンチも備えられており観光客からは憩いの場所としても利用されている。

吉野山の下千本が見下ろせる絶景ポイント!
七曲り坂に咲いた桜が一面じゅうたんのように広がる。
また、朝方の霧がかった景色は吉野ならでは。
訪れた人の足を止めてしまいます。

<オススメのポイント>朝日に反射した桜。
今は、桜の紅葉も終わり枯れ木を見渡す。
この後、雨脚が急に激しくなり、吉野駅に降りるまでにスブ濡れになってしまった。
問い合わせ先吉野山観光協会