石瓦が葺かれた、日本最古の現存天守 丸岡城

戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。
標高約17mの独立丘陵上に立地する平山城で、現存する天守閣としては最古級のもの。
二重三階望楼型独立式という形式で、通し柱はなく、1階が2・3階を支える構造となっています。

現在、見られる天守は、昭和23年(1948年)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年(1955年)に部材を組みなおして修復再建されたのである。
その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓に改変されている。

屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。

丸岡城の天守閣は、全国に現存する12の天守閣の中でもっとも古い建築様式を有しており、国の重要文化財に指定されている。

石垣は、「野づら積み」という古い方式で、すき間が多く、粗雑な印象ながら排水が良く、大雨に崩れる心配はありません。

本丸を中心に北に二の丸や三の丸、東に東の丸を配し、五角形の幅広い堀に囲まれていた。
形が五角形なのも幅の最大が91メートルもあるのも珍しく、五角形に囲んだ堀は、伊予宇和島、越後新発田城など例が少ない。

ほぼ5角形のはなはだ広い濠の外郭に侍屋敷を配置し、更に河川を利用して外濠を設け、寺院民家を包容して城下町を形成していた。

濠の幅は、最大のところは91mにもおよび、今は想像も出来ない程の変わりようあるが、天守はその時そのままの状態で保存されており、東西12.7m、南北10.8mにて屋根は二重で、内部は三層になっている。

一筆啓上石碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙として有名です。

「お仙」とは後の丸岡城主本多成重(初代丸岡藩主 幼名:仙千代)のこと。
この石碑が縁で、日本一短い手紙文の一筆啓上賞の起こりとなりました。

福井震災前の石製の鯱
福井震災で落下した笏谷石の鯱は現在天守閣登り口の階段脇に保管されています。

一階から二階、二階から三階へは、急な階段を登り綱の助けをかりながら上がります。

天守より西を遠望、日本有数の稲作穀倉地帯が広がり、遠くは東尋坊がある三国まで望める。

天守より東を遠望、勝山方面平泉寺、豊原寺跡を望む。

天守の南側の昔は内堀だったあたりは、現在は霞ヶ城公園として整備されています。
1990年(平成2年)日本さくら名所100選に選定された。

丸岡城(まるおかじょう)は、別名霞ヶ城と呼ばれ、「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。

現在は大蛇が噴き出す霞を見ることはできませんが、春、丸岡城を取り囲んでいる桜の花々の淡いピンクが霞のように見え、その中に丸岡城が浮かんでいるような幻想的な景色を作り出してくれます。

丸岡の近くの古墳から出土した石棺。

丸岡は継体天皇発祥の地で、城のある丘は第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられています。
古くは、「麿留古平加(まるこのおか)」と呼ばれ、それが「丸子の岡」となり、やがて丸岡に転じたとされています。
だから、椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるという言い伝えです。

今日のお昼は越前竹人形の里でいただいた。
この竹人形371,500円の値札がついていた。
髪の毛まで竹製とか。

竹人形の里らしく近くにはきれいな竹藪がありました。

丸岡城に残る「人柱お静」の伝説。
丸岡城を築城する際に、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった。

城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を武士に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。
その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。

しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、その約束は果たされなかった。
それを怨んだお静の怨霊は大蛇となって暴れたという。
毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。
城内にはお静の慰霊碑が残る。

(現存する天守閣とは、姫路城・松本城・犬山城・彦根城・弘前城・備中松山(高梁)城・松江城・丸亀城・(伊予)松山城・宇和島城・高知城と丸岡城であり、はじめの4城は国宝の指定を受けており、残りの8城は国重要文化財の指定を受けている)

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

丸岡城へのアクセス、行き方歩き方

福井県坂井市丸岡町霞町1-59
JR福井駅→京福バス本丸岡行きで40分、バス停:丸岡城下車、徒歩すぐ。
またはJR丸岡駅→京福バス本丸岡行きで15分、終点下車、徒歩7分