霊鑑寺のツバキ


哲学の道は多くのインバウンドに埋め尽くされている。

桜はほぼ満開に近い。

満開の桜をにらみながら霊鑑寺へむかう。

「椿の寺」として知られる霊鑑寺は、承応3年(1654)、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・多利宮(たりのみや)を開基として創建され、歴代皇女が住職を務めた尼門跡寺院。

現在、椿の特別公開が行われている。

霊鑑寺で参拝客を真っ先に迎えてくれるのは、門をくぐってすぐ左正面目に姿を表す梅の古木と散椿の古木。

散りツバキで埋め尽くされた地面は真っ赤です。

庭園入口に設置された椿の花手水は、ピンクや白などのカラーで統一されており、思わずシャッターを切りたくなる可愛さ。

庭園内の小さな手水鉢にも椿が浮かべられています。

その先の玄関は、竹に色とりどり様々な品種の椿の花を活けた花あしらいが飾られています。

かつてここには樹齢400年と言われた日光(じっこう)という椿(京都市天然記念物)がありました。

残念ながら2015年に枯死して今はその姿は見られません。
枯死した日光椿は後水尾天皇も愛でたと伝わる古木椿です。

実物を見ることが叶わず、大変残念に思っている椿の一つですが3メートルほど離れた場所に生えている日光椿は、元の椿と根がつながっていたたので、市の指定天然記念物はこの日光に引き継がれることになったそうです。

無作為に綺麗そうなのをドンドン撮っていきます。


今年はちょうど桜の時期と重なり、桜と椿のトンネルをくぐりながら歩きます。


別名「谷の御所」と呼ばれた格式と清楚な佇まいを今に伝えています。

本堂は江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が寄進したもので、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を安置しています。

後水尾天皇が椿を好まれたことから、広い庭内には100種以上の椿が植えられており、日光(じっこう)椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿などが、色とりどりに咲き誇ります。

当寺は、そもそもは後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所であった。

その後、寛永20年(1643年)に基子の希望により後水尾上皇によって寺院に改修されることが決められ、翌正保元年(1644年)には上皇の娘である宗澄女王が入り、寺院化が進められた。

承応3年(1654年)5月に霊鑑寺と寺名が付けられると、女王は得度して宗澄尼と号した。
以降尼門跡として5人の皇女が入室している。

御所人形が約200点ほど伝わっており、皇室ゆかりの寺宝も多い。

特別公開の時期、書院は内部へ上がっての拝観可能だが撮影禁止なのですが画像はありません。。

その後、法然院へと向かいます。

途中、安楽寺がありますが特別公開の日がずれているため拝観できません。

安楽寺は、別名松虫鈴虫寺と呼ばれる浄土宗のお寺です。

なぜ松虫鈴虫寺と呼ばれるのか、それはある姫たちに関する悲しいお話が由来となっています。

鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。

1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。

江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

白砂壇(びゃくさだん)

山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。
水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

当山には椿が多く、特に本堂北側の中庭には、三銘椿(五色散り椿・貴椿・花笠椿)が整然と植えられている。

花期は3月下旬から4月中旬。

三銘椿、春期特別公開 法然院
正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。 … 続きを読む →


さて、両姫のその後ですが、二人は瀬戸内海の小さな島「生口島」の光明坊で念仏三昧の日々を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生しました。

経緯は不明だが住吉にも松虫鈴虫を祀った塚がある。
松虫塚
昔、このあたりは見渡す限りの原野で、秋には虫の声が満ち、特に松虫 (今の鈴虫)の … 続きを読む →

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長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 – 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 – 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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竹渕神社由来


大阪府八尾市の、西に向かって出っ張り、大阪市平野区に囲まれてほぼ飛び地のようになっている地域は、旧渋川郡竹渕(竹淵)村にあたる。

竹渕は正式な住所としては現在「たけふち」と訓ませるが、地元では古来「たこち」と称している。

竹渕の由来
なんと神武東征に遡る。

のちに神武天皇となる「磐余彦」、日向国を出発してから何年もの歳月を費やして、大和国に入るべく河内国に上陸。

まずは生駒山地と金剛山地の境目「龍田越え」を敢行するが道険しく断念。

次に「暗峠越え」もしくは「磐船街道越え」を目論んで、生駒山地沿いを北上した。

現在の東大阪市日下あたりで、待ち構えていた長髄彦軍と遭遇し戦となる。磐余彦軍は完敗し退却を余儀なくされた。

長脛彦は執拗に追いかけてくる。おそらくは古大和川沿い、平野川沿いを逃げただろう。

ちょうど、この地に来た時、大きな竹藪を発見。磐余彦軍は竹藪に隠れ込む。

長髄彦も竹藪に入り、磐余彦を探す。

竹藪の中には大きく深い淵があった。
さてはこの中に潜んでいるのだろうと、長髄彦はその淵に部下を潜らせて探させた。
しかし、磐余彦はどこにもいない。

長髄彦は、これは神の仕業かと恐れおののいて退却していった。

竹渕神社由来書 より

磐余彦はこの地にしばらく逗留した後、熊野から大和に入るべく東征を続けたという。

前述のように、古代の竹渕には水運に従事する氏族が住んでいたといわれる。

彼らが水の神を祀ったのが竹渕神社の始まりかもしれない。
龍神の伝承はその名残りではないだろうか。

道路一つ隔ててこちら側は大阪市平野区、竹渕神社は大阪府八尾市。

『和名抄』では「多加不知たかふち」と訓ずる。
 
その南端に、竹渕神社は広い社域を横たえている。

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河内小阪


栗林書房

昭和7年創業、初代社長は栗林秋治郎さん。
元は長瀬の古本屋から始まり、後に現在の小阪本店に移りました。
そして、本店だけでは手狭になってきたため、文庫の店とレッド小阪店を順に展開。

東大阪の著名人である司馬遼太郎さんもこのサービスを利用していました。

司馬さんのエッセイ本「以下、無用のことながら」では、栗林書房が「駅前の書店」という見出しで登場します。

そのためか、司馬遼太郎記念館に訪れた人が寄ることもあるのだとか。
「わざわざ鹿児島からやってくる方もいらっしゃいましたよ。

司馬遼太郎記念館へのルート、八戸ノ里駅からのルートもある。

ウラ小坂、何ともレトロな名前。

河内小阪駅から南のアーケードに入り、少し東に入ったあたり。
若干分かりづらい路地。

高田川部屋所属「須磨の海」が「おでんとホルモン煮 須磨」を開店したのもこの路地。

理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。

まもなく司馬遼太郎の命日「菜の花忌」がやってきます。
住民こぞって司馬さんの好きだった菜の花を植えて記念しています。

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →

また、今年で生誕100年に当たります。

念財団」は、ファンを対象に最も好きな司馬作品についてインターネットでアンケート調査を行い、1567人から回答がありました。

調査の結果、最も人気を集めた作品は、『坂の上の雲』でした。

近代国家として歩み始めた、明治維新から日露戦争までの日本を松山出身の秋山好古・真之の兄弟と正岡子規の3人を軸に描いています。

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」という書き出しも有名で、中高年や男性を中心に、全体の20%余りの支持を集めました。

次いで人気だったのは、幕末の志士、坂本竜馬の短くも劇的な生涯を描いた『竜馬がゆく』で、およそ15%の支持を集め、男女を問わずすべての世代で幅広い人気でした。

3番目は同じく幕末を舞台にした『燃えよ剣』。
新選組副長として剣に生き、剣に死んだ土方歳三が主人公です

小坂神社は、東大阪市下小阪に鎮座されています。

御祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)。

小坂神社略記によりますと、天正二十年(1592)、十八軒の家がこの原野開拓に当たり、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、小坂神社を奉祀したのが小坂神社の起こりとされています。

弥栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)

創建年代は不明で元は牛頭天王と呼ばれていた。
 
その名からもわかるように御祭神は、須佐之男命です。
 
石山合戦で焼失し、1600年に再建。
 
1872年、現社名となっております。

木村重成、大坂城炎上の無念

重成が決死の覚悟をした場所か!

大坂夏の陣で木村重成は、大坂城の救援に向かう途中、この地で城の炎上を見、馬の上に立って城に別れを告げ、戦地へ引き返し戦死したことから、この地が馬立と呼ばれるようになったという。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い
八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大 … 続きを読む →


この辺りは大阪空港への着陸コースに当たっており東からの航空機はすべて通過する。

今日は午前中は風もなく陽が射して暖かい日でしたが夕方になるにつれ曇りがちとなり風も出て寒い夕暮れとなった。

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ミナミにあるパワースポット難波八阪神社


難波八阪神社の創建年月日についての詳細がわかる資料は、1945(昭和20)年に起きた大阪大空襲で被災し現存していないとのことですが、言い伝えによると、仁徳天皇(313~399年)の時代にまでさかのぼります。

今日はもう1月8日だがご覧の通り長蛇のの列。
厄除け、疫病退散、縁結び、夫婦円満、安産の神様です。

厄除けはもちろんのこと、最近では新型コロナウイルスの疫病退散を願う人たちが訪れる神社でもあります。

「獅子殿(ししでん)」と呼ばれる大きな獅子がいるユニークな神社として有名で、全国各地からこの獅子殿を一目見ようと多くの方が集まります。

また、境内にある獅子殿(獅子舞台)がインスタ映えするということでSNSで大人気になっています。

「目はライト・鼻はスピーカー」

の役割を担っているという、実用性を兼ね備えた画期的な造り。

時は流れ、1945(昭和20)年の大阪大空襲で社殿が全て焼失し、現在の本殿は1974(昭和49)年に完成。

境内の西側に鎮座(ちんざ)する「獅子殿」と呼ばれる大きな獅子の頭をした舞台も、同年に建てられました。

獅子殿は、高さ12m、幅11m、奥行き10m。

この地域に疫病が流行りだし、これを治めるために※神仏習合の神である牛頭天王が現れたことをきっかけに、お祀りをしたのが始まりとされています。

総本山は京都の八坂神社になりますが、「坂」の漢字が違うのは、大阪の「阪」にちなんでつけられています。

難波八阪神社の手水舎では、獅子(?)の像がお出迎えしてくれます。

水が出てない…と思ったら、近づいて3秒待ったら水が出る、という自動式手水舎でした。

戦艦陸奥主砲抑気具(しゅほうよっきぐ)記念碑

戦艦陸奥は竣工当時「世界七大戦艦」とも呼ばれ、姉妹艦の長門とともに大日本帝国海軍の象徴として日本国民に長く親しまれていましたが、太平洋戦争の終戦直前に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没しました。

その戦艦と運命を共にした1121名の将兵の魂を慰霊し、永遠の平和を祈るものとして安置されています。

篠山神社

摂津、河内、播磨と呼ばれていた当時の大阪市エリアでは、野菜を売ることが公認されていませんでしたが、大坂代官篠山十兵衛景義(ささやまじゅうべえかげよし)が大阪市に住む百姓や人々のために公設市場が公認されるように尽くした結果、大阪市エリアでも野菜の販売が許可されました。

この善行から、篠山代官は多くの方から感謝され、生き神さま(生祀:せいし)として祀られました。

また、現在なんばエリアにある木津(きず)市場の発祥にも関わっており、地元の方から親しまれています。

アクセス

電車の場合
大阪メトロ 御堂筋線・四つ橋線 ナンバ駅より約6分
大阪メトロ 御堂筋線・四つ橋線 大国町駅より約7分
南海難波駅 より約6分

自動車の場合
国道26号線元町3丁目北 を西へすぐ

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超穴場!久安寺の紅葉


楼門

14世紀、室町時代の建立。

奈良時代の開基、優雅第一と賞される楼門は「軒反り」という稀有な技法により造られ国の重要文化財に指定されています。

楼門は車道に面しており表からの撮影は危険。

久安寺は、大阪府池田市伏尾町にある高野山真言宗の寺院。
山号は大澤山。
本尊は千手観音。

寺伝によれば、神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願を受け行基が開創し、天長年間(824年 – 834年)の頃に空海(弘法大師)が真言密教の道場として中興した安養院が前身と伝わる。

保延6年(1140年)に安養院は焼失したが、薬師如来像、阿弥陀菩薩像は焼失を免れ、安元年(1145年)に近衛天皇の勅願により祈願所として中興され、賢実上人が境内の本堂などの伽藍を増築し、その頃から「久安寺」と称するようになった。

最盛期には四十九もの子院があったが、現在は本坊となっている小坂院だけが残っている。

安土桃山時代の頃、豊臣秀吉が参拝の際、月見茶会を開いたといわれ、江戸時代中期に歌人の平間長雅が移り住み、観音信仰の聖地として広く庶民に知れ渡った。

広い境内に参観者は10名くらいか、静かに撮影できる。

全山紅葉と言っても過言ではないくらい紅葉が美しい、手入れも良く行き届いている。

本堂の周囲は回廊になっており360度展望可能。

右手に少しだけ屋根が見えているのが三十三所堂、西国33カ所霊場の本尊のお姿33体を祀る。

前方に見えるのは御影堂、宗祖弘法大師空海を祀る。




【腰掛石】

大正年間まで「あ字山」山頂にあった石。

秀吉参拝し、三光神を勧請し、月見の茶会を催した時腰掛けたといわれる石。

開運の鐘。







虚空園

「虚空にバン字あり・・・」と本堂での修法瞑想。

本堂北に広がる「バン字(こころ)池」を中心に花咲く庭。参道である両果の道を はさんで、東にある小山を「ア字山」といい、庭園全域を虚空園と称す。


池を泳ぐ鯉と水面を漂うもみじの葉。

鯉の泳ぐ音が時々聞こえるほどの静寂に心が洗われます。





朱雀池の蓮




仏塔・舎利殿涅槃堂


見事な紅葉をゆっくりと鑑賞できました。
また、境内のベンチで弁当がいただけます。

殆どの寺院では境内での飲食は禁止されていますが、久安寺のホームページによると、お弁当などはベンチのあるところでお願いします。
庭園池周辺の飲食はご遠慮ください。
ごみはお持ち帰りください。

となっています、ありがたいことです。

アクセス
阪急池田駅から阪急バス(西のりば<4のりば>) 久安寺バス停下車すぐ

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秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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秋真っ盛り 四天王寺本坊庭園


「釈迦の滝」

昨年は6月に訪問、今日はクラブの人を連れての訪問。

四天王寺の喧騒とは打って変わって静かな本坊庭園。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたもの。

小奏楽堂というからには中で何かの演奏が行われたのでしょうか。
中には入ることができない。

大池には阿弥陀三尊石が組まれている。

阿弥陀如来を中尊とした三尊石は迫力あるものである。
江戸時代以降は丸みを帯びた石が使われることが多く、こちらの庭園が江戸初期に造園されたこととも一致する。

自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m2の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。

造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。


四天王寺 極楽浄土の庭の由来

四天王寺は日本書紀によれば、推古天皇(飛鳥時代)に創設。飛鳥寺(奈良県明日香村)と並び、本格的な仏教寺院としては日本最古である。

極楽浄土の庭は江戸初期とされ、現在の庭は明治初期に火災による焼失から復興されたものである。

極楽浄土の庭は、中国の説話「二河白道(にがびゃくどう)」に基づく。

二河白道とは浄土教における極楽往生を願う信心で、「二河」とは「火の河:怒り」と「水の河:欲の深さ」を表し、その間にある「白道」を進めば、極楽浄土に達し往生できるというもの。

紅葉がきれいです、超広角レンズでいたずらして見た。

ここで望遠ズームに取り換え、これが通常の画像です。

サキシマフヨウの実

和名は先島諸島に由来し、主に鹿児島県西部の島から琉球にかけて分布するとされてきた。
2014年の研究では台湾にも分布することが報告されている。

池に浮かぶ落ち葉

陽を透かしてハイキーで。

元和9(1623)年、徳川秀忠による再建

前には、補陀落の庭が広がる

方丈前庭にある「補陀落の庭(ふだらくのにわ)」。

三尊石の阿弥陀如来の左脇侍は観音菩薩であり、その観音菩薩が住む霊場の伝説上の山が「補陀落」である。

本坊、ガラスに移り込んだ庭園の紅葉がきれいです。






冠木門は通りれぬけできない。

その向こうには、先程とはちょうど反対側から見る唐門が見える。
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久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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河内国一之宮 太古の聖域 枚岡神社


枚岡神社は今から2681年前に建てられた古社だと伝えられている。

おまつりされている神様は「天児屋根命」。
初めて神事を執り行った”まつりごとの神様”だ。

天岩戸開きという有名な神話の中でアメノコヤネノミコトは、岩の中にお隠れになった天照大御神をお出しするため、祝詞を奏上し、注連縄を張るなどの祭祀をおこなった。

枚岡神社はそんな神事を司る神様、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を主祭神としておまつりする他、妃神の比売御神(ヒメミカミ)、経津主命(フツヌシノミコト)、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)をおまつりしている。

天児屋根命の任務とは

天岩戸開きで活躍された天児屋根命は、その後時代が下って天孫ニニギノミコトが天上の世界から地上に降臨された時、一緒に降臨された。
その際アマテラスオオミカミから「天孫輔弼(てんそんほひつ)」という言葉を授けられたのだ。

天孫輔弼(てんそんほひつ)・・・天孫は天皇陛下のこと。
輔弼は”よくお助けしなさい”という意味。

つまりアメノコヤネノミコトは「天皇をよくお助けする」という任務をもって地上に降臨されたのだ。

国土平定を祈願したのが始まり

枚岡神社の創始は皇紀前3年(紀元前657年)、つまり初代神武天皇が天皇に即位される3年前にできた神社だ。

国土統一を目指し九州日向国から東征してきた神武天皇は、ちょうど現在の枚岡神社の背後にある生駒山を越えて大和国に入ろうと試みた。

しかし長髄彦(ナガスネヒコ)という豪族に阻まれ戦争が起きてしまう。

ナガスネヒコは、ニニギノミコトよりも早く天孫降臨したと伝わるニギハヤヒノミコトの親戚。

ニギハヤヒノミコトは枚岡神社のすぐ近くに鎮座する石切劔箭神社の御祭神だ。

枚岡神社は坂の多い神社だ、名横綱大鵬幸喜の言葉が張り出されていた。
まさにその通りだ、ここで大鵬の言葉を見るとは思わなかった。

奈良の春日大社に祭神二柱を分祀したことから「元春日」とも呼ばれる枚岡神社。
 
祭神の一柱である武甕槌命は、神鹿に乗って旅立たれたことから、枚岡神社では鹿が神使いとされています。

境内には、なで鹿(神鹿)と呼ばれる狛鹿が安置されており、健康と家族の平安、子供の幸せ、旅行安全などを祈願して撫でるとご利益がいただけるといわれています。

青銅製神鹿の手水所です。
ここで手と口を清めます。

その後、すぐ傍の御祓川(夏見川)に架かる行き合い橋を渡って身を清めます。

橋の手前両側には、石製の神鹿が、左側にはヤマモモの木があり参詣者を迎えています。
モモには邪気を祓う力があるといいつたえられ、記紀の神話にも記されています。

鹿は神の使いであり、神聖さが穢されないよう見張っているかのようです。

境内に小川が流れている神社が多くあります。

水の霊性により、境内が清浄に保たれ、かつ参拝者の罪や穢れが祓清められると考えられているからです。

枚岡神社の夏見川は別名「御祓川」おはらいがわと呼ばれています。

この川を渡ることで、参拝者は罪穢れが祓われ、清浄な心と身体で参拝することができます。

摂社 若宮神社

ご本社の御子神様をお祀りしており水神ともいわれています。

社の後方にはご神水が湧き出る「出雲井」があり、参道からご神水をお受けいただけます。

拝殿右手を奥に進んで行くと、巽参道があります。

右手は「宝基の森」と言われ古くより称えられる神がいる森で、神聖な場所となっています。

霊泉の白水井

若宮社を過ぎると左手に白水井があります。

現在、白水井を汲むことはできませんが、元々は白い水が湧き出ていて「眼病効果」「お乳が飲むと出るようになった」などという言い伝えがある霊泉です。

通奥に見えるのが「天神地祇社」。

通路奥の小高いところに「天神地祇社」が西向きに鎮座。

本社の境内社や当地周辺の神社をここに合祀しています。

平成・令和の大造営以前は若宮社以外の全ての境内社をここに合祀していました。

大造営で一新され、春日造風の覆屋の中に妻入切妻造の社殿が納められています。



拝殿前参拝所を右奥方向にすすみます。

南北に御本殿前斎庭と梅林を結ぶ参道が巽参道です。

この参道を境にして、東側は「宝基の森」と古くより称えられる神のいます森があり、ここは人が神と出会い、心をうつし祈りを捧げる神聖な場所です。

天神地祇社のさらに南側、枚岡梅林へと出るところに「楠正行公縁の井戸」があります。

このように当社は多くの井戸があり、生駒山から湧き出る水を神聖視していることが窺えます。

境内にある滝行場。生駒山の麓や山腹に鎮座する寺社ではよく見かけるものです。

恐らく生駒山を拠点に活動した修験道と結びついたものと思われます。

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