番所庭園


庭園のある岬は江戸時代より紀州藩の海上への見張り番所が置かれた場所であったことから「番所の鼻」と呼ばれ、当庭園はその見張り番所の跡地を整備したものである。

「ばんどこ」と読む

平坦で海に長く突き出た独特の地形をしている庭園は「番所の鼻」といわれています。黒船の見張り番所の跡で、文久3年(1863)に軍艦奉行並だった勝海舟もここを訪れています。

ペリー黒船来航を機に、紀州藩が海防に本格的に取り組み、江戸時代(1854)に海上への見張り番所「元番所お台場」が造られた。

昭和40年(1965)に、元番所お台場跡に庭園が築かれ番所庭園が開園。
日本遺産にも認定されている。

当庭園は紀伊水道に浮かぶ大島(男島)、中ノ島(女島)、双子島を眼前に望む景勝の地であり、夕日の名所としても知られる。

番所の鼻の先端から望む大島と中ノ島

724年(神亀元年)、聖武天皇が和歌の浦へ行幸された際に、お供した藤原卿が雑賀浦の漁火を見て歌を詠んだという万葉ゆかりの地でもあります。

万葉時代神亀元年(724)に藤原卿が「雑賀(さひか)の浦」の漁火を見て詠まれたといわれている歌はあまりにも有名です。


番所庭園の地質は、緑色を呈する緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、紀州青石とも呼ばれています。

紀州では、古来より石垣、門柱、庭石、石碑、石畳などに広く用いられています。

群青の海と、緑泥片岩の断崖絶壁のコントラストは、いかにもサスペンドラマに登場しそうな雰囲気です。

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玉津島神社界隈


玉津島神社

稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊、明光浦霊をお祀りしています。

古来より風光明媚な和歌の浦、玉津島神社は山部赤人が歌に詠んで以来、万葉集をはじめとして、多くの歌に登場します。

1917年(大正6年)、鹽竈神社は玉津島神社(玉津嶋神社)の祓所から神社になった。

海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

近くには家庭円満の守り神として多くの人の信仰を集めてきた樹齢数百年の大木「和合の松」があったが、2012年(平成24年)6月に倒壊した。

和歌の浦のシンボルでもあった姿を復活させようと、通常難しいとされる挿し木によるクローン苗を使って、2018年4月に元の場所に植樹された。

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したもの。

橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。
勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。

近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物があったが、解体され、現在は和歌の浦アート・キューブになっている。

妹背山は玉津島神社のすぐ横にある、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島。

その西側には県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡ることができます。

妹背山・三断橋

玉津島神社から妹背山に繋がる県内最古の石橋。中国の杭州西湖の六橋を模したとされ、小アーチ型橋を3カ所繋げている。
徳川頼宜により架橋される。

雑賀城(さいかじょう)は、戦国時代に現在の和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目付近に存在した日本の城(丘城)。
妙見山城とも呼ばれた。

いつの頃まで存在したのかは不明であるが、遅くとも秀吉が紀州征伐をする1585年(天正13年)には廃城となっていたであろうと推察される(この年から和歌山城築城が開始される)。

対岸には紀三井寺が見えている。

和歌山市の一部に当たる雑賀地方は、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷の5ヶ郷からなる。

鈴木氏、土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏らが族党をつくり雑賀衆となった。
鈴木重秀(雑賀孫市)は、雑賀衆を代表する者であった。

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西国三番札所 粉河寺


粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある粉河観音宗の総本山の寺院。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。

伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

中門(重要文化財) – 入母屋造、本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。

棟札によれば明和年間(1764年 – 1772年)から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成。
扁額「風猛山」は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

紀州青石

和歌山城築城当初の石垣には、紀州特産の「青石」が多く使われている。

緑色を呈するため緑泥片岩とも呼ばれ、古来から紀州では石垣、門柱、庭石、石碑、石畳など広く用いられている。

青石の産地は中央構造線の南、西南日本外帯に分布し、東は三重県から西は愛媛県に至り、伊勢青石、紀州青石、阿波青石、伊予青石がブランド石となっている。

粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。

盥漱盤とはいわゆる「手水(ちょうず)鉢」のことで、寺社に立ち入る前に手や口を清めるためのものである。

「盥」は「たらい」、「漱」は「うがい」を表します。

かつて粉河の地域の鋳物産業は活発で、粉河鋳物と呼ばれるほどであった。

この盥漱盤は安永4年(1775)粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作品で、粉河鋳物の代表的作品であると言われている。

太子堂

鎌倉時代には天台宗の寺院として550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。

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中世地中海の港街 ポルトヨーロッパ


イタリアの路地裏に迷い込んだかのような小広場です。

400年の歴史をもつ地中海沿岸の漁村「イタリアのFINO(フィーノ)」がモチーフ


イタリアの路地裏に迷い込んだイメージ。





階段エリアの「ヴィエッタ カプリ」はイタリアの路地をイメージ

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鉄砲伝来と根来寺


根来寺は1130年に開祖の覚鑁(かくばん)が高野山に造営した小伝法院という一堂がはじまりとされ、1140年に現在の地へ移り、戦国時代には寺領72万石の大寺院となっています。

根来衆は豊臣秀吉と激しく敵対したことは有名だが、大塔と大師堂は秀吉による焼き討ちを免れたことが知られている。

大塔(大毘廬遮那法界体性塔、国宝) – 本尊・胎蔵大日如来。
高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。

基部には羽柴秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。

1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。

また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。

それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

新義真言宗の総本山。
長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。

鎌倉時代に現在の場所へ移転したといわれる。

南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大教団となった。

現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。

天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。

「根来衆」と「雑賀衆」の兵力規模

鉄砲で武装した根来寺の僧兵集団は「根来衆」と呼ばれ、兵力は1万人にも達していたといいます。

さらに当時の和歌山には、「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲を主力とする一団もいました。
もともとは雑賀庄内(さいかしょうない)(現・和歌山市)の土着集団で、鉄砲を8000丁も保有する傭兵団でもあったといいます。

また、熊野水軍の流れもくんでいたため、海運と交易が盛んだったばかりか、有事には水軍としても活動しました。

この根来寺と雑賀衆の関係は良好で、雑賀側の住民が根来寺に塔頭を建てることもありました。
また使用した鉄砲も、根来衆が伝えたとする説があります。

根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。

聖天堂(重要文化財)

聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。

鐘楼門

根来寺の僧兵、津田監物(つだけんもつ)が種子島から鉄砲と火薬の技術を持ち帰り、門前町の鍛冶屋につくらせました。
このとき製造されたのが、国産最初の1丁であるといいます。

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。

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暮れる街を駅へ急ぐ 湯浅


山田川の北橋の上から今帰ってきた西を眺める、左が大仙堀。

もう既に暮れかかっている。

北町通り、「北町茶屋 いっぷく」に転がり込む、歩き疲れてもう一歩も歩きたくない心境。

暖かいコーヒーをいただきしばしの休憩。

北町通を西へ歩いている、この先が角長。

この先を左に折れれば「陣風呂」

陣風呂の前を西へ。

「坂越まち並み館」のおばさんに教えてもらった路地の歩き方を参考にしながら歩く。

こういった路地から見た本通りがポイントと教わった。

だいぶ西へ来すぎたので東へ進まねば・・・・

太陽を背に進めばいい。

大通りが見えてきた。

左深専寺、ここまでくればもう駅も近い。

湯浅駅から伝統的建造物保存地区へは道路が舗装されていてわかりやすい。

田舎の夕暮れは早い、もうほとんどの家が店じまいをしている。

立石道標まで来た。
ここから駅はすぐそこだ。

一安心したらお腹がすいてきた、昼ご飯以来食べていないが、この辺りには食事できる場所はない、先を急ぐのみ。

ほんとによく歩いた、この日の歩数は24,000歩を越えている。

駅前複合施設「湯浅えき蔵」の完成を記念し、1997年に長野県の美ヶ原高原美術館に展示されていたブロンズ像「変容の刻」が寄贈されている。

美ヶ原と言えば野外彫刻の宝庫、以前の訪問を思い出した。
野外彫刻 – 美ヶ原高原美術館
美ヶ原高原美術館はその高原の東側、牛伏山の東側斜面に、およそ4万坪の広大な敷地に … 続きを読む →

しかし、これからがまだ大変なのだ何せ1時間に1本の列車を待たねばならない。
どうやら青春18切符も当初の思惑とはだいぶ趣を異にしている。

適当に途中下車して観光しながら旅を…というのは遥か昔の話で、うかつに途中下車しようものなら次の列車がないのだ。

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朝日・夕日100選 端崎


端崎、たたきざきと読む。

朝日・夕日100選、釣り場として有名、明恵上人が修業したという刈藻島がある。

3時過ぎでまだ日は高い、片道30分くらいの距離だが行ってみることにする。

湯浅の街からは対岸の道を西へ進む。

端崎と霧崎という二つの岬を擁する海岸は、県立自然公園になっている。

湯浅駅からそこへ行くには、市街地を抜け川を渡り栖原坂の峠を越えていく。

このルートをバスも一応通っているが、本数は少ない。
栖原には、ユースホステルがある。

御崎へ向かう道路はたまに釣り人とか工事関係の車両が通るだけで歩いている人なんか誰もいない。

明恵上人が修行をしたといわれる刈藻島が見えてきました。

釣り人が一人います、確かにここへ沈む夕日はきれいだろう。

しかし、夕日を待つわけにいかない、来た道をまた引き返す、物好きだねえ。

朝日・夕日100選の碑が建っているので迷うことはない。

明恵は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。

法諱は高弁(こうべん)。
明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。

父は平重国。母は湯浅宗重の四女。
現在の和歌山県有田川町出身。
華厳宗中興の祖と称される。

萬福寺とお茶
萬福寺の総門は、1661年(寛文元年)の建立(重文)。 中央の屋根が高く、左右の … 続きを読む →

鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。

紅葉の高山寺を訪れる
高雄・槇尾・栂尾は三尾といわれ、いずれも京都市北西部の紅葉の名所として知られてい … 続きを読む →

明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。
この時が現・高山寺の創立と見なされている。

帰り道、山の中腹に城が見える。

康治2年(1143年)に湯浅宗重によって在田郡の青木山に築城された山城である。

代々湯浅氏が居城した。
湯浅城は要害として知られ、文安4年(1447年)に畠山氏がこの城を三度攻めてようやく落としたとされる。

城跡には土塁、曲輪等が残る。
青木山の向かいには城を模した湯浅温泉・湯浅城があり、4階の資料館には湯浅氏に関するものが展示されている。

炎天下をとぼとぼ歩き疲れた、茶屋に転がり込み一服。
これから大阪まで帰る、夕日に照らされた路地を撮りながら駅まで約30分。
今回の青春18切符の旅はこれで終わり、暑くてしんどかったが面白かった。
次の旅は何処へ行こうかな。

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天保12年創業 角長


湯浅町は、諸説ある日本における醤油発祥地の一つで、その醸造文化が2017年度には文化庁から日本遺産に認定されている。

鎌倉時代、同じ紀伊国(和歌山県)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈国師)が、入宋時に学んだ径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとされている。

江戸時代、湯浅の醤油造りは紀州藩の庇護を受け発展し、92軒もの醤油屋があった。
しかし、第二次世界大戦後の混乱などにより、1949年には23軒にまで減少。

その後も大手との競争激化などによりさらに減ったが、今日でも角長や湯浅醤油など5軒が醤油造りを続けている。

日本が世界に誇る調味料(SOY SAUSE)のルーツは湯浅だった。

嘗味噌の中に、瓜・茄子などの野菜から塩の浸透圧によって水分が出てくる。

この水は当時の野菜の生産が6月~8月であったため、黴の発生や腐敗の元にもなり、捨てるだけであったのだが、昔ある時、その汁を利用してみると、これがなかなか美味しい。

そこで、初めからその汁を利用するつもりで造れば「新しい醤」つまり調味料が誕生すると考えたのが今様醤油の始まりだと言われている。

また、湯浅の水が醤油作りに適した水であった事も湯浅醤油発展の一因となっている。

紀勢本線 湯浅駅から北西に700m。山田川沿いの“北町通り”には昔ながらの醤油蔵が立ち並び、その中心部に老舗の醤油メーカー“角長”がある。

湯浅の地は熊野路の入口にあたり港も発達し、また良質の水にも恵まれたため、興国寺の醤油はこの地に定着し、自家用以外に商品として製造された。

16世紀中ごろには大坂などに出荷され、江戸時代には 紀州藩の特別な保護もあって、90軒を超える醸造家が現れ“湯浅醤油”の名声は不動のものとなった。

大仙掘に面する醸造場には「角長・醤油発祥地」の袖看板がでている。

また醸造場の南に並ぶ“角長醤油職人蔵”と“角長醤油資料館”には それぞれ「醤油の発祥」「湯浅醤油の起源」という説明板が掲示されている。

その後 醤油醸造の技術は、野田(千葉県)・銚子(千葉県)や小豆島(兵庫県)などに伝わり、やがて大手メーカーによる大量生産の技術が開発されると、伝統的な手作り醤油の湯浅醤油はシェアを大きく奪われて衰退し、現在は醸造家の数は非常に少なくなっている

。伝統的な製法で醸造しているのは “角長”一軒のみであるという。

上方しょうゆの発達

室町時代後期以降、近畿地方にしょうゆの産地が形成されます。

堺、湯浅、龍野などの産地は、江戸時代中期にしょうゆの量産化がすすみ、製法が進化して品質も向上します。

その後、江戸時代に上方で書かれたとされる『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』によると、しょうゆの原料に、炒って挽き割った小麦と、よく煮た大豆をかき混ぜ、「麹蓋」に入れて麹をつくると記されており、現在のしょうゆづくりとの共通点が見いだせます。

また、大坂を舞台にした世話浄瑠璃『曾根崎心中』の主人公徳兵衛は醤油屋の手代であったことからも、この頃の上方の町人にとって、しょうゆは身近な存在だったと想像されます。

江戸時代初期~しょうゆ、東へ

1603(慶長8)年、幕府が江戸に開かれると、経済、文化も江戸を中心に発展するようになります。

江戸初期には都市建設がすすむ中で、生活用品の多くは上方のものが使われていました。

しょうゆも例外ではなく、上方から大量のしょうゆが江戸に送られていた記録が残っています。
いわゆる「下り(くだり)醤油」です。

江戸時代中期~関東における生産の発展

江戸の町が整備されるとともに関東でさまざまな産業が興り、上方からの輸送に依存しないようになっていきます。

関東におけるしょうゆ生産の中心として発展したのが、下総国の野田と銚子でした。

しょうゆづくりに適した気候、江戸川・利根川を利用した水運、また周辺に原料となる大豆・小麦を産する平野がひらけていたことで、しょうゆの一大産地となっていきます。

いやぁ、角長の話から曽根崎心中が出てくるとは思いませんでした。

この世の名残夜も名残・・・ お初天神
「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏 … 続きを読む →

この世の名残、夜も名残 北新地蜆川跡を辿れば
阪神・福島駅~梅田橋跡~浄祐寺~大阪堂島市役所跡~出入橋~桜橋跡碑~堂島薬師堂~ … 続きを読む →


この春、龍野を訪れました、ここも醤油の産地です、醤油のことに少し触れています。

童謡「赤とんぼ」のふるさと 龍野
『播磨国風土記』によれば、龍野の由来は「『野見宿禰がこの地で没し、出雲から多くの … 続きを読む →

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熊野古道と醤油の街ノスタルジック散策


湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る町としても知られています。

交通上重要な位置にあった湯浅は、近世に入り次第に商業都市として発展を遂げます。

その核をなしたのは、なんといっても醤油です。

鎌倉時代、中国の宋で修行を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」から生まれたのが、現在の日本の醤油の始まりと言われており、紀州湯浅は「醤油発祥の地」と知られています。

白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく残す貴重なものと認められたのです。

熊野古道へ向かう分岐点「立石(たていし)の道標」

熊野街道の遺跡として、町民によって大切に守られてきた「立石の道標」。

建立は天保9年(1838年)で、「すぐ(まっすぐ)熊野道」「きみゐでら(紀三井寺)」「いせかうや右(伊勢・高野山は右へ)」の彫文字を確かめられます。

斜め向かいに江戸後期の町家を改修した休憩所「立石茶屋」があり、軽食や名産品を販売しています。

中世には天皇や貴族などの貴賓層が中心であった熊野詣は、時代が下り街道が整備されていくと、庶民にも広がり人々の往来は一層盛んになった。

蟻のように大勢の人々が詣でる様を例えて、「蟻の熊野詣」という言葉もみられるほどである。

さらに、熊野詣だけではなく那智山青岸渡寺から始まる西国三十三所巡礼にも、この辺りでは熊野古道が使われるようになり、多くの人々が行き交っていた。

『湯浅おもちゃ博物館』は文化庁の委託事業として発足。

古民家の良さをできるだけ残し、おもちゃの展示や手にとって遊べる空間をつくり、子供から年配者までが楽しめる地区全体の交流拠点を目指しています。

新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、長期休館中です。

湯浅町は、紀伊半島西部にある広さ20平方キロメートルほどの町。

入江の奥に位置するこの町は、海路の便が良かったこともあり、古くから物流の中心地として栄えてきたほか、1800年代初頭にはなんと92軒もの醤油屋が営業していたという醤油醸造の町としても有名です。

ここには、平成18年に文部科学省から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたエリアがあり、いまでも江戸~明治時代の面影を残したままになっています。

近年では、醤油醸造の歴史に触れ、時代を感じられるその町並みが、観光スポットとしても注目されています。

Ⅰ.湯浅姓の由来

1: 湯浅姓は、地名から発祥したものと思われます。
この土地に、湯浅と名が付いたのは、中世の初め頃で、
今よりも海は、ずっと内陸まで入っていて、水がきれいで浅く、
入り江や中洲のある美しい所を意味します。
(他に法皇・上皇命名説など諸説あり)

2: 中世の平安時代末期に(西暦1140年頃)この地に湯浅宗重が湯浅党を旗揚げし、 それ以来300余年に渡りこの地は栄え、1450年頃、町は残りましたが、湯浅党は滅亡しました。 湯浅の主だった人々はその間に、あるいはその時に、全国にちって行ったのです。

3: 明治に近代国家が樹立され、住民の戸籍が整備された時、湯浅姓を名乗る人々が多く出ました。  現在全国に約12,000軒と推定されています。

民家の軒先の連子格子に蒸籠箱を利用した作品がディスプレイされた「せいろミュージアム」

辻行灯は、家屋や建具の古材を用いて津浦氏が自作しており、住民からの依頼にもとづいて設置している。

古い民家の残る通り。

湯浅の風情を短歌に詠んだ野口雨情。

ノスタルジーな路地。

路地から大通りを眺める。

崩れかけた白壁、とてもノスタルジックです。

津浦家(旧内伝麹店)

「内伝麹店」は、醤油や金山寺味噌の製造に欠かせない原料である麹の製造販売業を営んでいました。

主屋は近世後期の様式で、明治 11 年(1878)に建てられたことが判明しています。

岡正

鍛冶屋町通りと北町通りが接する角地に位置する。

建物はもと「京喜屋(きょうきや)」の屋号をもつ呉服店の一部であり、入居者が三代にわたり「岡正(おかしょう)」と称する酒店を営んでいた。

建築年代は江戸の終わりか明治前期頃で、主屋は北面し、切妻造平入(きりつまづくりひらいり)、本瓦葺とする。間口は六間あるが、西三間半と落棟(おちむね)の東二間半は構造的には分離している。

奥行きはわずか二間で、側面から見ると蔵のような外観となる。

あちこちに自転車が・・・・・

屋号“まるしち”で親しまれている鮮魚店。

湯浅湾で水揚げされたばかりの地魚や干物が並んでいます。

「えりすぐった魚でないと、お客さんに出されへんからね」ときっぱり。

隣のカフェに持ち込める「焼さば」は売り切れ御免。
午前中が勝負です!

戸津井家(戸津井醤油醸造場)

「戸津井醤油醸造場」は江戸文化年間創業の醤油醸造家でした。

創業時には、「竹屋(たけや)」の屋号を称していましたが、明治元年(1868)からは「丸竹(まるたけ)」と屋号を改めています。

主屋は昭和 11 年(1936)の建立で、湯浅の戦前期の建築の特徴をよく伝えています

ノスタルジックな路地散策、今日は雲がとても印象的です。

湯浅駅から歩いて10分ほどのところにある古民家風カフェ「北町茶屋いっぷく」。

旅の疲れを癒してくれる趣ある空間です。

新鮮なお刺身やうどん、カレーといった食事メニューのほか、ケーキやぜんざいなどのスイーツも揃っています。

散策で疲れた時の休憩にぴったりのお店です。

千山庵

1棟まるごと貸し切りの宿。

宿泊棟は「きたまち」に8人用と6人用。
「かじやまち」に10人用。

北町通りに面した築150年を超える古民家を改装した1日1組限定の宿。

土間や吹き抜け、天窓、低い天井など、当時の造りが残されており、湯浅の歴史や文化を感じながら、ゆったりとした時間を過ごせるのが魅力。

みやげ処 ふみよ

ここにしかないローカルなお土産が欲しいなら…

おけきの焼きもちを食べ歩きながら進んでいくと、次のおすすめスポット「 庵茶屋の和(いおりちゃやのわ)」が見えてきました。

こちらは手仕事のカトラリーとアクセサリー、焼き物や手芸品を販売するお店で、カフェも併設しています。

店内には店主自ら製作している木製のカトラリーやアクセサリー、地元の手芸作家さんが手掛けた作品が並びます。

販売されている作品の数々はどれも個性豊かで自由な表現力が目を引きます。

太田家(太田久助吟製)

「太田久助吟製」は、金山寺味噌を製造販売。

江戸時代には醤油醸造を営んでいましたが、戦後に金山寺味噌に業種変更しました。

かつての醤油蔵で昔ながらの金山寺味噌が作られています。

「北町ふれあいギャラリー」も湯浅駅から歩いて10分ほどのところにあります。

古い建物を使用したギャラリーには、絵画や写真などを展示しています。

ひと昔前の日本にタイムスリップしたかのような空間に身を置くと、懐かしい気持ちとともに心が癒されていきます。


歴史を感じる自転車は、現役?
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銭湯跡歴史資料館 甚風呂


湯浅の街歩いていると面白いものが次々と現れる。

散策中に地元のカメラマン氏に遭遇、定例会のネタ探し最後はこの辺りが頼りなんだけど・・・とのこと。

江戸後期から昭和60年まで営業の公衆浴場。

湯浅の町並の特徴である小路の辻に立地し、個性的なデザインの塀を構えた浴場と経営者の住まいであった主屋で構成されています。

瓦葺の塀には、菱型の開口部が設けられています。

とても印象的な塀は大正時代のデザインです。

正式な名称は「戎湯(えびすゆ」でしたが経営者(須井甚蔵)の名前から「甚風呂(じんぶろ)」と呼ばれ、長年にわたり地域住民の憩いの場として親しまれてきました。

廃業から10年以上が過ぎ、主がいなくなった甚風呂は平成13年に町の財産となりその歴史が受け継がれました。

平成19年から2年かけた修理工事を経て平成21年から銭湯跡民俗資料館として公開しています。

一歩入れば、タイムスリップしたような、のんびりとした時代の面影が見え隠れする懐かしい空間です。

番台(ばんだい)

入り口を入ってすぐにあるのが番台です。 

番台は入浴料を徴収するところですが、男湯と女湯の双方が監視できる場所に作ってあります。 

番台の前の脱衣所には、男湯と女湯の仕切りがありますので、双方からは見えません、甚風呂では仕切りは取り外しており、広い空間になっています。 

明日から後のひな祭り 湯浅
平安時代末期から南北朝時代にかけては、湯浅荘を根拠地とする湯浅宗重ら湯浅党が、紀 … 続きを読む →

雛の飾り付けがされています。

浴室(男湯)

男湯の壁面には、昭和30年代に放映された映画のポスターが掲示されています。 

湯浅町にはかつて、湯浅会館と旭座の2つの映画館があり、風呂場の脱衣場に映画のポスターが貼られていました。 

掲示されているポスターは甚風呂の改修工事の際、押入れの長持ちの中から見つかったものをクリーニングして掲示しております。

2本立て50円鑑賞料ですので、当時の物価が偲ばれます。

男湯です。
床は石造りで珍しい。

浴槽へは壁側からも入れるようになっていて親切設計。

とても重い洗面器。戎湯と彫られています。

女湯と男湯とつながっています。
別々で沸かさなくていいし便利ですね。
もぐって女湯に入ってくる強者とか居なかったんでしょうか。

昔は仕切りなど無く子供が行き来してたそうです。

「ゆ」と書かれた蛇口。

浴室(女湯)

浴室は左右対称に、男湯と女湯に分かれています、甚風呂の浴槽は特徴があり立ち湯(立ったまま入浴する方式)の構造になっています。 

奥に見えるのが子供用の浴槽で浅くなっています。 

浴槽は二つあります。浅い方は子供用?
深い方は立って入るそうです。

顕国神社秋祭りの展示室

毎年10月18日に、顕国神社の秋祭りが行われます。 

各町内から、神輿を繰出しお渡りが執り行なわれます。 

この神輿は、伝建地区の北中町のものです。 

壁面には昔の祭りの古写真が展示されています。 

湯浅の祭りの特徴は、馬宿を設け、祭りで馬の早駆けが行われ、町中を馬が疾走する豪快な祭りでした。 

特に明治の頃には、中町の通りが広かった為、賞金を掛けた競馬も行われていたそうです。 

昨今は、馬を飼う家もなくなり、祭りに馬使われなくなりましたが、北浜町が馬でのお渡りを復活させています。 

吹抜展示室・駕籠(かご)

江戸期の終わりから、明治にかけて使われたものですが、お医者さんの往診に使われていたようです。 

大名や武家が使ったものに比べて、質素な作りになっていますが、駕籠かきを雇うのにかなり経費が掛かったようです、昔もお医者さんはお金持ちだったようですね。



焚口

甚風呂では、最初のころは、薪やおが屑でお湯を沸かしていましたので焚口が残っていますが、後年重油ボイラーに切り替わったので、焚口が改造されています。 

燃料タンクと循環ろ過器が写っています。 

焚口の周囲は、防火のためレンガが使われています。

2階展示室・徳利(とっくり)

「とっくり」といえばお酒を連想される方も多いでしょうが、湯浅は醤油の醸造業者が多く、この写真に写っているのはすべて醤油徳利です。 

大きいのから小さいのまで、様々な醤油徳利が作られていたようです。


右の取っ手を廻すと「リ、リ、リン」と音が鳴る手回しの電話機。


蓄音機。現役で使えるそうです。

アクセ  JR湯浅駅下車徒歩約10分

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