奄美大島の高倉


奄美大島や沖縄には高床式(たかゆかしき)の倉が残っています。

このような高床倉(高倉)は台湾やフィリピンなどの南方地域にその起源があると思われます。

古代には日本国中に存在していたと考えられますが、現在では南西諸島や八丈島にわずかに残るのみとなりました。
本高倉は昭和33年(1958年)に重光家屋敷地内にあったものを移築したものです。

気候に適した屋根や床

高倉の屋根を厚く葺いているのは太陽の熱を遮るため、屋根が急なのは雨水が流れやすく雨漏りを防ぐためだといいます。

床板は板張りが多く見られますが、かつては琉球竹を編んだものが張られ、通気性を良くして湿気から食物を守っていたそうです。

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古民家を訪ねて 奄美大島の高倉(旧重光家高倉)

奄美大島や沖縄には高床式(たかゆかしき)の倉が残っています。
このような高床倉(高倉)は台湾やフィリピンなどの南方地域にその起源があると思われます。

古代には日本国中に存在していたと考えられますが、現在では南西諸島や八丈島にわずかに残るのみとなりました。
移設元旧奄美大島宇検村部連

本高倉は昭和33年(1958)に重光家屋敷地内にあったものを移築したものです。

高倉は穀倉であり、主として穀物を貯蔵していました。
他に衣類・長持・魚肉(干物)・豚肉なども貯蔵していたようです。

その構造は湿気を防ぐように造られているため、湿度の高いこの地方には非常に適したものです。

また、脚の部分は堅い木(イジュ)でつくられており、ネズミが爪をひっかけて登ることができないようになっています。

四方の壁は外側に傾斜し、床とほとんど水平になっていて、竹の網代(あじろ)で組みこまれているため通風がよいようになっています。

高倉の登り降りは、丸太にキザミを入れた原始的な一本梯子を使用します。

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琉球王朝のシンボル 首里城

日本100名城の一つ。
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。
戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。

2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

シンボル守礼門は残念ながら修理中でした、しかし、修理中の守礼門を見ることもめったにないので記念にパチリ。

「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。
歓会門(かんかいもん)が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。
国王が寺院を参詣(さんけい)したり、浦添から以北の地方へ行幸(ぎょこう)するとき等に使用した門であった。

創建は1477~1526年【尚真王代(しょうしんおう)】といわれ、1983年(昭和58)に復元された。
順路の関係から現在は出口専用になっているが、往時は日常的に人々が出入していた門である。

石垣が凄いのは熊本城ですが、この首里城の石垣の先端の尖った形は最高。
沖縄のサンゴ石灰岩は脆いため、わざわざ全体を湾曲させ耐久性を高めているとか諸説あるようだが定説はない。

正門の歓会門から入場、漏刻門や、広福門の屋根も見えている。

「龍樋(りゅうひ)」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。
この水は王宮の飲料水として使われていた。

また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。

瑞泉門からの眺め。
首里城内には随所に眺望のよい場所がある。

城壁の手前にある礼拝所を「首里森御嶽(すいむいうたき)」という。
「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされている。

また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれる。
琉球最古の歌謡集『おもろさうし』にも「首里森御嶽」に関する詩歌が多数登場する。
1997年(平成9)12月に復元された。

屋根を飾る龍、異文化漂う美しさ。

奉神門と北殿。
奉神門は首里城に入り、正殿の御庭(うなー)までにくぐるいくつかの門の中で最後の門。
左右に部屋がある長大な門で、門としての役割のほか、様々な儀式などに利用された。

正殿と南門。
正殿は国王が政務や儀式を行う際に使う場所で、首里城で最も重要な場所。
南殿は薩摩藩の接待所として用いられた。

そのため外観は正殿や北殿のような朱色ではなく、白木造りのままなのが特徴。
御庭(うなー)が紅白に分けられているのは儀式の際、諸官の配列をわかりやすくするため。
正殿に向かってのびる浮道は国王や中国使節ら、限られた人しか通れなかったという。

正殿1階の床に設けられた覗き窓から見た、首里城正殿の遺構です。
首里城正殿は創建以来、戦火・失火などにより4回の焼失と再建を繰り返しています。

ここに見える石積みは、焼失・再建を繰り返した首里城正殿の遺構です。
現在の首里城正殿は本来の遺構を保護するため、約70cmほどかさ上げして建築されています。

西のアザナからみた東シナ海、遠方に残波岬が見えています。

少し視線を左方向へずらすと渡嘉敷島、慶良間諸島などが霞んで見えます。

西のアザナを下から見上げたところ。
西のアザナは城郭内の西側に設けられた標高130mの物見台。
那覇市街と東シナ海が一望できる。

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首里城へのアクセス、行き方歩き方

首里城公式サイト

住所:沖縄県那覇市首里金城町1-2
電話:098-886-2020

ゆいレール「首里駅」または「儀保駅」より徒歩約15分
ゆいレール「首里駅」から路線バス (首里城下町線8番)で「首里城前バス停」より徒歩3分

那覇空港から車で約11分
最寄の那覇ICから約5分

首里金城町石畳道散策

首里金城町石畳道は、首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4km総延長10kmの官道であった真珠道の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年にその建造が始まった。

第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊されたが、金城町に現存する238mの区間が首里金城町石畳道としてその姿を現在に伝えている。
下ってまた登らなければならないのでそれなりの覚悟が必要、しんどいがご褒美はそれ以上にある。

道には年月を経て光沢を帯びた琉球石灰岩の平石が敷きつめられたままで、沿道には近世以前の石垣も多く現存する。
沖縄県指定史跡で、日本の道100選の一つ。

表のみを旧来のまま残した民家、こういうの見るとうれしくなるねえ。

金城大樋川(カナグシクウフフィジャー)
金城村屋の隣にあります。
以下説明文より。

金城大樋川は金城村の共同井戸で、急な崖の下から二つのかけ樋で地下水を導き出しています。
その前には、約10mほど石積みを施し、半月形の貯水池を設けています。
さらにその前には、石敷きの広場が作られ、南側には排水溝があります。
樋川の周囲の三方は、土留めの石積みがなされ、特に背後は、四段に分けてがっちりと積まれています。

東側の集会所のところは、かってフィージャーモーと呼ばれた広場で、坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤し、一息入れた場所でした。
また、広場から石畳道を挟んだ東側は、薩摩に学び沖縄で最初に和紙を漉いた大見武筑登之親雲上(おおみたけちくどうんへーちん)の屋敷跡で、17世紀の末ごろ、この樋川の水で和紙がつくられたようです。

「首里城下の細い路地には貴人や役人が住んだ御殿が立ち並び首里城へ日参する人々が往来していた」

石畳道と石垣がどことなく時代を感じさせてくれる「16世紀に作られたものとは思えないくらい違和感がない!」そんなことを思いながら首里城の役人になった気分で坂道を下っていった・・・・

金城村屋(かなぐしくむらや)。
集会所兼休息所です。1996年築だそうです。
ここに掲げられていた文です。

石畳の石
この石をよくご覧下さい。
芋を真二つに切り、平らの部分を上に、半丸の方を下にして土床にねかしたように敷かれている。
この石は全て貴重な琉球石灰岩でできている。
一見何の変哲も無いこの石畳が、約500年の間幾多の風雨や戦乱にもめげず今日まで耐えてきた。

首里城より南部への要路としての交通のみならず、人々の生活に不可欠な水の確保に重大な貢献をなしたことは特筆すべきことである。
石畳に落ちた雨水は特別に加工された土床により、吸水、浸透、濾過される。
また、瓦れき、砂利等を敷くことにより、スーフカと称する用水溝へ注がれ、任意の村井(ムラガー:共同井戸)へと誘導される。

島国で限り有る小数の可動力のみで、長い年月を費やし、失敗を繰り返し、血のにじむ努力を重ね、ついに命の水を口にした
辻々の村井は全て豊富な水で潤った。

先人達の高度な土木技法は、現代の技術を以っても難しく、復元に苦慮するところである。
今私達はその石畳の上に立っている。
天の恵みと先人達の英知に感謝し、平和がこの「石畳の石」と共に永遠なれと願わずにはいられない。

内金城ヌ大嶽(うちかなぐすくぬうふたき)
首里金城町の石畳道脇にある御嶽。

赤い格子の前に、香炉が三つ置かれている。
石積みの左横にも小さな祠のようなものと香炉が置かれている。

ガジュマルやクワズイモなどの植物がうっそうと生い茂る森の中に、樹齢200~300年の大アカギ6本が立ち、東側に大嶽、西側に小嶽がある。

「首里金城の大アカギ」とも呼ばれる巨木は、国の天然記念物にも指定されている。
沖縄の行事「鬼餅(うにむーちー)」の由来となった鬼餅伝説が残されている。

この大アカギの根元には自然の祠がありまして、中には小さな仏像が収められていました。
300年間のいつの頃からか、根元に自然の祠ができ、この場所に旧暦6月15日に神が降りられ、願い事を聞き上げられていると、古老の言い伝えがあります。

石畳道は、古の遺産であると同時に、地域の生活道路でもあります。
車も通ります。

この道を、琉球王朝時代の国王が冊封使と共に識名園に向かい、庶民が日々の生活でこの道を利用し、戦時中は米軍が掃討作戦を展開し、そして現在は観光客が行き来し、NHKがちゅらさんを撮った。

首里城歓会門と守礼門との間にある世界遺産園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。
園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。

オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘(にしとう)により創建されたという。
石門と周辺一体の森のことを総称して園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)という。
尚真(しょうしん)(在位 1477~1526年)によって1519年に創建された、築造者は竹富島出身の西塘(にしとう)。

この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君(きこえおおきみ)が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。

園比屋武御嶽石門を裏から見たところ。
石造には珍しい?懸魚の装飾が。

第32軍司令部壕跡
首里城と弁財天堂との間の木々の中にひっそりと、首里にあった旧日本軍の第32軍司令部壕の痕跡が残っています。

案内板も説明板も無く、首里城とは対照的に、観光客はだれも誰も訪れてはいません。
草場の中に埋もれようとしているこのコンクリートの残骸が、旧32軍司令部壕の入口の一つでした。
現在戦闘による落盤の為、この入口からは入る事ができません。
壕は首里城の下,長さ1,000m余りにもわたる。

円覚寺跡
第二尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に鎌倉の円覚寺を模して建立された。

円覚寺跡(総門・放生池・放生橋)

第二尚氏の支援を受けて繁栄し、寺前にある円鑑池(えんかんち)では、中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置を占めていた。
周辺には石畳や水路の光景が広がり、首里城内の湧水・雨水が集まる仕組みとなっています。

弁財天堂は池の中央に浮かんでいるかのように佇む赤瓦の小堂。
航海安全を司る水の神・弁財天を祀っています。
1502年、朝鮮より渡来した方冊蔵経(仏教経典の大百科のようなもの)を収納するために建立されましたが、1609年薩摩軍による戦火で焼失。
やがて1629年に円覚寺の弁財天を移して弁財天堂としました。堂に渡る小橋は「天女橋」と呼ばれ、その素材には琉球石灰岩を使用。

海運業者たちは船の航海安全を祈願するために弁財天を崇(あが)め、航海があるたびに盛大な祈願祭を行っていた。
弁財天を祀(まつ)る理由は琉球特有のオナリ信仰と関わりがある。
船乗りの男たちは姉か妹がオナリ神となって自分を守護すると信じていた。

船乗りたちはオナリ神になった姉か妹の髪を懐紙に包みお守りとしたものだ。
弁財天は女性の神であり、オナリ神に通じる。
この弁財天を管轄するのは、王のオナリ神である聞得大君だ。

円鑑池から琉潭池(りゅうたんいけ)に続く遊歩道 円鑑池から戻り、又少し行ってから階段を下りていくか、回り込むように進むと、一段低くなった琉潭池の南端にでます。

ここは1427年、冊封使の進言により造られた人工池といわれ、「香りのする木や花を植え、万人が利用できるようにして太平の世の象徴として永遠の記念とした」などと書かれた石碑がありました。
冊封使をもてなす船遊びの宴も、ここで行われたと言うことです。

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首里金城町石畳道へのアクセス、行き方歩き方

住所:那覇市首里金城町
電話:那覇市観光課  098-862-3276

ゆいレール: 首里駅から徒歩12分
石畳前バス停からすぐ

王家の陵墓 玉陵(たまうどぅん)

玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。
所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 – 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。
世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。

玉陵奉円館
玉陵入り口にある券売所。
ガイドブックなどの刊行物も販売。
地下1階は資料展示室になっており、玉陵の概要や玉陵内部の様子を展示説明している。

東の御番所(あがりぬうばんじゅ).
沖縄戦前までお墓を守る番人がお墓の管理をしていた。
王国時代には墓参りに来た王様が休憩をしたところでもある。

墓所に向かって拝所がある。

玉陵碑
9名の被葬資格のある者を書き付けているが、この碑文の本当の意図は、尚真王の長男・尚維衡、浦添王子朝満が葬られるのを排除することを目的にしているとされる。
朝満は尚真王の長男で世子であったが廃嫡され、王位に就くことができなかった。

この碑文は、尚真王の母である世添御殿の意向を汲んで刻まれたとも言われている。
王位継承を巡っての一族内の争いがあったことを示唆している。
尚真王の後、尚清王が即位すると、書き付けに反して、朝満を玉陵に移葬した。

入口部分の石垣は一段高くなっていて、開口の形状は角張っています。
城壁でよく見られるアーチ門とは趣の異なる直線的なイメージです。
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。

中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。
洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。
建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。

東室の左側は岩が盛り上がったような形をしていて、右側の円塔と同じくらいの高さになっています。
そして、それぞれの頂には石造りの獅子が載っています。
両側から王と王妃の墓を守っているかのようです。

中室は洗骨までの遺体を安置し、洗骨後の王および王妃の遺骨は東室へ、それ以外の家族の遺骨は西室へ安置したと伝えられている。

2442㎡の広大な墓域は沖縄最大で、一見すると「これがお墓ですか!?・・・」と思えるくらいの巨大さであり、同時に当時王統の権力の大きさを伺い知ることができる。

中室を挟んだ反対側の西室は獅子の彫刻もなく、少し格下の印象です。
王族とはいえ王や王妃とは少し扱いが違うようです。

こちらも板葺き屋根を模した石造りです。
本来木製の物をあえて石で作るのは、魂の永遠不滅を願っているのでしょうか。

琉球王国は、1429年に尚巴志【しょうはし】王が琉球列島を平定・統一してから始まる。その尚巴志王の父・尚思紹【しょうししょう】王から7代63年間(1406~1469)続いた時代を第一尚氏王統と呼び、その後、1872年の明治政府による琉球処分・琉球王国滅亡までを第二尚氏王統という。

ご紹介する玉陵【たまうどぅん】は、第二尚氏王統・初代国王の尚円【しょうえん】王の子で第3代国王・「尚真王【しょうしんおう】」(在位:1476~1526)によって1501年に築かれた巨大な石造の陵墓【りょうぼ】である。

始めは尚真王の父・尚円王の遺骨を改葬するため造られたとされ、中室・東室・西室の3つ墓室から構成されている。

見学することは出来ないが墓室内部は天然の岩壁をくり貫いて造られているらしい。
また、外部は切石積の家型としていて沖縄特有らしいが木造建築のように見えるからか破風【はふ】墓と呼ぶ。

洗骨後の骨をおさめる骨壺、魂が行き来できるよう小さな穴が開いている。

中央と左右の上部に三頭の石獅子が鎮座している。
中央の石獅子は胸を張って正面を向いた堂々としたもので、左右の石獅子は玉紐と戯れたユーモラスな表現になっている。

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玉陵へのアクセス、行き方歩き方

住所:那覇市首里金城町 1-3
電話:098-885-2861

交通アクセス1
那覇空港から 車(一般道)で約 30分

交通アクセス2
沖縄自動車道 : 那覇ICから 車(一般道)で約 20分

交通アクセス3
路線バス : 首里城公園入口バス停から 徒歩で約 10分
停車バス : 1番首里識名線、8番首里城下町線、17番石嶺開南線、46番糸満西原線

沖縄屈指の名城 今帰仁城

日本100名城の一つ。
今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))
今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。
堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。

攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。

今帰仁城の模型。
城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。
北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。

1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。
2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。
2010年(平成22年)2月22日に国の史跡地域が追加され、史跡名称が今帰仁城跡 附シイナ城跡へ改められた。

昭和50年、沖縄海洋博覧会の工事の進む中、石垣が積まれた箇所の発見がありました。これが城郭の一部であることが確認され、昭和54年12月28日に国の史跡として追加指定されました。

高さは2メートル前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続きます。
石垣で囲まれた空間を外郭と呼んでいます。
最近調査が行われ、外部の整備が進められています。

お城入り口の城壁
見応えがあるのは何と言ってもその城郭である。

外周は約1500m、高さ6~10mで自然の地形に沿って巡らされた様は「万里の長城」を想像するに容易である。

カーザフは、平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをいいます。
ここは、一段と低い所でその両側は切り立った「谷底」になっています。

この地名の語義は「川迫(さこ)」つまり、川の谷間として理解されています。
露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったものと想像することが出来ます。

入場券発売所の周辺にはいつも猫がいます。
発売所のカウンターで寝ていることもあります。
声をかけると愛想をしてくれました。

平郎門(へいろうもん)は今帰仁城の正門で、その名称は「琉球国由来記」に「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。

現在見る門は、昭和37年(1962)に修復されたもので、左右に狭間があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢なつくりとなっています。

内部から見た『平郎門』。
狭間は門番が外を見張るためののぞき窓になっています。

平郎門からまっすぐ伸びた階段。
七五三形式の階段参道になっています。

本来は曲がりくねっていたと思われるが、地元民によって桜の植栽とともに整備されたものだそうです。

階段の両脇は寒緋桜が咲き誇っており、折から桜祭りが行われていた。

ピンクがかわいい寒緋桜の名所でもある。

主郭から見下ろす『志慶真門郭』(しじまじょうかく)と城壁
城跡の南側の、主郭より一段低いところにあります。
今帰仁城の裏門にあたり、戦略上重要な所であったと思われています。

城の裏門にあたる志慶真門を守るこの場所から武家屋敷跡が発掘されています。
この城は標高約100メートル、古期石灰岩(こきせっかいがん)のほぼ独立した丘の上にあります。
そのため、城内の生活用水については不便であったとされています。

地元の古老によると、志慶真川から急な崖を登って水をかつぎあげたといわれています。
実際、志慶真門郭の北東部には水揚げ場跡が残り、石垣は志慶真川に突き出すようにして積まれています。

階段の道に比べると旧道はゴツゴツしている上に滑りやすく、歩きやすいとは言えませんが、何となくこちらのほうが趣があるような気がします。

また、右側に目をやると眼下に谷と遠くの景色が見えます。
この谷は古い石切り場らしく、樹木の間に現われている崖の岩肌は直線的な切れ目が多数見られます。

階段を登って左手に石碑があります。北山王側室であった志慶真乙樽(シゲコウトゥダル)が詠んだ琉歌で『今帰仁の城 しもなりの九年母 志慶真乙樽が ぬきやいはきやい』と刻まれています。

老年になってできた子を可愛がる様子を時期はずれのみかんに例えた歌だそうです。
今から700年ほど前、乙樽という絶世の美女がいて今帰仁城主に見初められ側室になります。

王妃との間に子がなかった城主は老齢になってやっと子を授かりますが、その子を見ることもなく死んで行きました。
王子は千代松と名づけられましたが、臣下が反乱を起こし、乙樽も王妃も必死の思いで城から逃げ出しますが、産後間もない王妃は逃げ切れず、王妃は乙樽に子をたくし、志慶真川に身を投じて命を絶ちました。

乙樽は残された千代松をわが子のようにかわいがり、立派に育てあげます。
やがて千代松は丘春(おかはる)と名を改め、かつての臣下とともに敵をうちます。

乙樽は忠誠と慈愛の証として神人(かみんちゅ)という職を与えられたと伝えられているそうです。
『志慶真乙樽の歌碑』が大庭の一角に建てられています。

ソイツギ(城内下の御嶽)
北殿跡(ハサギ跡)の西側にあって、城(ぐすく)ウイミの時ここでも祭祀(さいし)が行われています。
神名は 「ソイツギノイシズ御(お)イベ」とされています

版築(はんちく)
今帰仁城の造られた山は石山で、頂上まで岩盤が露出していますから、人が住む場所がありません。
そこで、土を盛り上げて平らにするという方法で、基礎工事を行います。

ここに版築と呼ばれる中国の技法が使われていました。
赤土を敷いては突き固め、敷いては突き固め、と何度も繰り返します。
土が流れないように土留めの石を積みながら、基礎工事をおこないます。
発掘調査したときはツルハシが立たないほど、カチカチに固まっていたそうです。

御内原(うーちばる)から見下ろす「大隅」。
兵舎が立ち並んでいたのだろうか?
平郎門を通り抜けて、大庭に向かって左側部分を大隅と呼んでいます。

現在蜜柑や桜が植栽され、城外に抜けられる洞穴もあり、面積はかなり広い郭の一つです。
ここは、かつて「城兵達の武闘訓練の場」であったと想定されており、以前大量の馬の骨が発掘された場所です。

大庭(うーみやー)の東にある一段高くなった郭(くるわ)を主郭(俗称本丸)と呼んでいます。
主郭には多くの礎石(そせき)が現存し、桜の植樹のためか、一部移動させられている石もあります。
かつての建築物の形がいくらか想像できます。

1982年から4年間、発掘調査が行われました。
発掘調査の結果13世紀終り頃から17世紀初め頃まで機能していたことが分かりました。
監守引き上げ以降は火神の祠(ひのかんのほこら)が設置され、さらに来歴碑が建立され祭祀(さいし)を行う場として利用されています。

「火の神(ひぬかん)」拝所
右手奥には火の神を祭った祠(ほこら)があり、その傍らに石碑があります。
これは『山北今帰仁監守来歴碑記』で、北山滅亡以来、中山(後の琉球王国)から派遣された歴代の監守の名前が記されています。

監守引き上げ以降は火神の祠(ひのかんのほこら)が設置され、祭祀(さいし)を行う場として利用されていたと考えられています。

古宇利(こうり)殿内火神
小さな祠(ほこら)に香炉(こうろ)が置かれている簡単な作りで、東北の方向を拝み、古宇利島(こうりじま)の人々が旧8月に参拝します。

北殿跡の北側、一段高いところを御内原と呼んでいます。
ここは、かつて「女官部屋」があったといわれているところです。
城内でも崇高な場所とされ男子禁制の御嶽テンチジアマチジがあります。

北端からの眺望は城内で最もよいところで、大隅一帯の石垣をはじめ今帰仁村全域、伊平屋・伊是名の島々、国頭の山並麓、晴れた日には遠く与論島が眺められ、海を眼下に見ることができます。

クバの御嶽
今帰仁城跡の西にある古期石灰岩ならなる植物に覆われた丘陵。
地元ではウガミーと呼び神域とされる。

今帰仁城へのアクセス、行き方歩き方

今帰仁城公式サイト

住所:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874
電話:0980-56-4400

高速バスor20番系統(名護西線)で名護バスターミナルまで。
バスターミナルで66番系統(本部半島循環線今帰仁廻)で今帰仁へ。
下車徒歩約15分。

日本最古のアーチ門が美しい 座喜味城址

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は座喜味城跡)。

城内で演劇が行われるなど、広く利用されている。
城跡の高台から西側を望むと残波岬や、晴れた日には慶良間諸島も眺めることができる。

正門手前に広がるリュウキュウマツの林。

城は主郭と二の郭からなり、外周365m、総面積7,385平方メートルで、沖縄の城としては中規模のものです。

城壁は琉球石灰岩によるあいかた積みを基調とし、アーチ門とその両脇は整然とした布積みとなっています。

1416年-1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。
城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。

沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されたが、城壁の復元が行われた。

座喜味城は200以上あったといわれる沖縄の城の中でも珍しく柔らかな赤土の土壌に築城されており、(北山滅亡後、護佐丸が守備よりも、良港などを含めた地の利を優先したためともいわれる。)

独特の曲線を描いて積まれた城壁は、地盤の弱い赤土の台地にあるため城壁のカーブを大きくし、台地を掘り込んで石垣をぶ厚く積み強固に築かれました。
なぜ、そこまでしてこの場所にグスクを築いたのか。

座喜味城は、1422年頃に護佐丸によって築かれています。
1416年に滅ぼした北山(ほくざん)軍の残党を監視するためです。
さらに、交易をするのに便利な港も近くにありました。

一の郭への階段と石門
さすが名築城家と言われるだけあって規模は小さいですが、石垣のアーチ門や曲線が見事です。

城からの景色は絶景で、残波岬、恩納村の海岸、遠くは那覇市や慶良間まで見ることができます。

殿舎跡(砂岩で出来た礎石が見える)

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座喜味城址へのアクセス、行き方歩き方

住所:沖縄県中頭郡読谷村字座喜味2975番地
電話:098-958-3141 読谷村立歴史民俗資料館

路線バス : 座喜味バス停から 徒歩で約 20分
停車バス : 29番読谷線、62番中部線

那覇空港から車で
高速利用時:那覇IC→沖縄南IC→国道58号線を経由して約50分
一般道のみ:国道58号線を利用して約50分
最寄の沖縄南ICから国道58号線を利用し約20分

標高98mの丘の上に立つ世界遺産 勝連城

城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。
13世紀-14世紀に茂知附(もちづき)按司(あじ)により築城されたという。

この城の最後の城主が阿麻和利(あまわり)である。
阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。

勝連城の模型。
南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。
北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約98mの丘陵上にある。

駐車場から見た城跡への道。
2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。
登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。

西原御門のあたりからの城跡。ここは重要な虎口だったろう。
この城跡は山を利用して造られており、城跡入口から急勾配がつづくので、軽装でも良いが注意が必要。

ウタミシガー、沖縄方言で川や湧き水、泉のことを「カー」とか「ガー」と呼びます。
川や池の少ない沖縄では湧き水は大変貴重なもので、大きな城の周辺には必ず「カー」が存在します。

階段を登ってゆくと、標高が上がるにつれて展望が開けてきます。
左手に中城湾の青い海が見えてきました。

三の郭は広々としていて芝生が敷かれています。
ここで目を引くのは一段高くなっている二の郭に上るための階段です。
幅の広い階段が3箇所あります。

15世紀前半、最後の城主阿麻和利は、その人望から民衆に推されてクーデターを起こし、勝連城10代目の城主になったと伝えられている。
そして、1458年に策略を使って首里王府を動かし、忠臣の誉れ高い中城城の護佐丸を滅ぼした後、首里城を攻める計画を立てていたところを首里王府に知られて攻め滅ばされた。

とされているが、実際は「統一間もない首里王府の権力は完全ではなく、各地に有力な按司(豪族)がそれぞれ勢力を持っており、護佐丸や阿麻和利はその中でも最も力のある勢力だった。
そして首里王府の策略によってその2大勢力が滅ぼされた」というのが真相らしい。
あるいは、「護佐丸と阿麻和利は、奄美地方における影響力を競っていたのではないか」とも考えられている。

二の郭には、建物の柱を支える礎石が整然と並んでいます。大柱を支えた大きな礎石と、小柱の礎石が多数見られます。

舎殿跡のうしろ、二の郭の一番奥左側に「ウシヌジガマ」があります。
勝連城の守護神がまつられている御嶽(うたき)です。

まるで船の舳先のような美しい形状をした城壁。
道は石畳になっているがゴツコヅして歩きにくい。

大勢の敵が攻めて来た時の事を想定して、石段を登るほどに先が細くなっている。

一の郭の中央付近には、「玉ノミウジ御嶽」と呼ばれる拝所があります。
写真でははっきりと見えませんがここにある石は、勝連城を守る霊石とされているそうだ。

断崖絶壁の上にそびえる南側の城壁に立つと、まさに自分が宙に浮いているような錯覚を覚えます。

頂上からは半島から太平洋に突き出した海中道路とその先の島々が見える。

一の郭から南を見渡すと眼下に中城湾が広がり、その先の知念岬までが一望できます。
まさに最高の眺めです。

北に目をやると金武湾、その向こうに北部の山々、右手には勝連半島に連なる平安座島・宮城島・伊計島が見えます。

二の郭から一の郭に登る途中の坂道から見下ろすと、二の郭の全景を眺めることができます。
大柱の礎石から見ても、かなり立派な建物があったことがうかがえます。

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勝連城へのアクセス、行き方歩き方

勝連城公式サイト

住所:沖縄県うるま市勝連南風原

お問合せ先:うるま市教育委員会文化課 098-978-7245

交通アクセス:沖縄バス・琉球バス、屋慶名線(系統番号27・227・180・61・52番)西原バス停(那覇より約1時間30分)下車、徒歩10分。

那覇空港から車で
高速利用時:那覇IC→沖縄北IC経由で約45分

一般道のみ:国道330号線→国道329号線を利用して約1時間
最寄の沖縄北ICから約15分

赤レンガが美しい豪農屋敷 中村家住宅

中城城跡からすぐのところにある豪農屋敷。
18世紀中ごろに建てられたものでほぼ当時のまま残っている。

中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物です。
沖縄本島内でこのように屋敷が前がそっくり残っている例はきわめて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも、貴重な遺構であるということで、昭和三一年に琉球政府から、昭和四七年に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。

現在より500年前・・・中村家の祖である賀氏は、この地の城中城城主護佐丸と共に、この地に師匠として読谷より移ってきたと伝えられている。
しかし、護佐丸が勝連城城主であった阿麻和利氏に滅ぼされてしまい、中村家の先祖も一家離散となってしまう。
戦乱の世の悲哀を感じざるを得ないが、1720年頃この辺りの地頭として、再びその家運を盛り返したらしい。

そして、現在の住居が建築されていくのである。
鎌倉・室町時代の日本建築の流れを汲んでいると、現代の専門家は考えているようであるが、琉球石灰岩を用いた石垣で、屋敷全体を囲み、この地特有の・・・オレンジ色に近い赤い屋根、至るところに設置されたシーサーを見ると、日本の文化はあまり感じられない。

石垣で厳重に守られた外観。
ご覧のように真っ直ぐ入ることは出来ません。

なおかつ、門を入ったところにはヒンブン(顔隠し塀)が配されており、門の内外とを仕切り、外から直接母屋が見通せないようにした目隠しの役割をしている。
中国の「屏風門」が沖縄化したもの。

その昔、沖縄ではヒンブンを挟んで男性は右側から出入りし、女性は台所へ直通するためその左側を使用したいたといいます。

母屋(ウフヤ)のシーサー。
口の開いたシーサーが雌で、右側に置き、福を招き入れ、口を閉じたシーサーが雄で、左側に置き、あらゆる災難を家に入れないとされている。

各戸の屋根の上に置かれるようになったのは、庶民に瓦葺きが許されるようになった明治以降である。それまでは、寺社や城の門、御獄(うたき)、貴族の墓陵、村落の出入り口等に設置されるのみだった。

高倉(籾倉)の内部の様子。

メーヌヤー(家畜小屋兼納屋)

フール(豚小屋兼便所)

アシャギと呼ばれる二間続きの離れは、当時の役人が地方巡視に訪れた際、その宿泊所として利用していたらしい。

屋敷内の部屋の数は全部で、11室+台所、各部屋とも六畳以上のものはないが、これは当時の農民にはそれ以上の部屋を持つ事を、禁じられていたからに他ならない。

台所(トゥングワ)は土間であり、居間( 本来は板間 )と繋がっている。
煮炊きや、食物の保存が出来るよう様々な工夫が見受けられる。

住宅の構成は主屋(ウフヤ=母屋)、トゥングワ(台所)、アサギ(離れ座敷)、高倉(籾倉)、フール(豚小屋兼便所)、メーヌヤー(家畜小屋兼納屋)、ヒンプン(目隠し塀)、カー(井戸)であり、周囲をフクギと石垣で囲んでいます。

庭の隅に小さなシーサーが佇んでいた、かわいいのでパチリ。
ところで、この屋敷には玄関が無いのである。

外門から屋敷に入ると、各部屋が廊下を挟んで全て開放されている。
どこからでも、屋敷内に入れるのである。
外門の手前にある受付では、無料でお茶と黒糖を楽しませてくれました。

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中村家住宅へのアクセス、行き方歩き方

住所:沖縄県中頭郡北中城村字大城106
Tel/Fax:中村家おみやげ品店 098-935-3500

ゆいレール旭橋駅から徒歩3分の那覇バスターミナル→21・23・27・90番系統などの路線バスで55分、バス停:普天間下車、車8分
沖縄道北中城ICから県道46号経由3km5分

悲劇のヒーロー護佐丸 中城城最後の城主

日本100名城の一つ。
中城(なかぐすく)城を築いたのは護佐丸である。
護佐丸というのは、首里の中山王が、琉球を統一するのに非常に貢献した武将であり、築城の名手とも呼ばれていたが、その統一後に、勝連城主であった阿麻和利という、陰謀好きの男の讒言にかかって、殺されてしまったという悲劇の人物であり、沖縄の人にとってはおなじみの人物である。

ただし近年の評価では、護佐丸=善玉、阿麻和利=悪玉といった図式は、多分に後世の演劇などの影響を受けており、必ずしも阿麻和利が悪辣な人物であったとは限らないといった解釈もなされている

創始は明らかではないが、14世紀後半ごろ先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた尚巴志の家臣、護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。

増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。

中城城の模型。
中城城は、北中城村から中城村にわたる標高167メートルの高台に、東北から南西にほぼ一直線につらなる6つの城郭からなる城で、琉球王国時代に築城家として知られる護佐丸が、勝連半島で勢力を伸ばしていた阿麻和利に対する備えとして、読谷の座喜味城から移されて築いた城だといわれている。

自然の地形を巧みに利用した美しい曲線の城壁に囲まれ、一の郭と二の郭は「布積」、三の郭と西北側の郭は「あいかた積」と呼ばれる手法で築かれており、その築城技術は高く評価されている。

三の郭、後に増築されたため「新城(ミーグスク)」とも呼ばれ、石積み技法の最も進んだ相方積み(亀甲乱積み)によって築かれている。

グスクの石積みには大きく分けて、野面積み、切石積み(布積み、相方積み)があり、中城城跡では、この3種類の石積みを一度に見る事ができる。

幕末に日本を訪れて江戸幕府を震撼させたペリーは、実は本州に来る前に琉球に立ち寄っている。
その際に中城城も訪れており、ペリーの滞在記を見ると「この石垣のラインが非常に見事である」と、中城城の石垣に感動している様子が伺える。

北東に向かって建てられた裏門。
ペリー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチ門がひときわ美しい。

護佐丸が井戸を取り込み増築したとされる北の郭。
井戸を取り込む事により、長期の籠城にも耐えられるようにしたとされる。

北の郭にある大井戸(ウフガー)へ降りてみる。
井戸は10m以上降った内部にある。

また、西の郭には「夫婦井戸(ミートゥガー)」と呼ばれる2つの井戸がある。
城郭内に水を確保していることが、この城の特徴である。

二の郭への階段。

中城城跡を含め沖縄のグスクは本土より古い時代から石積技術が発達していました。
その石積の種類は、大きく分けて野面積み、布積み(豆腐積み)、あいかた積み(亀甲乱れ積み)があります。

右奥に見えているのが中城高原ホテル跡の廃墟。
博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産し、また、沖縄本土復帰に伴い、アクセス道路が文化財保護区域に指定されたことから、建設途中のまま工事が中断し30年以上放置されたままになり、廃墟と化している。

一の郭と二の郭の石積み技法は布積みである。

二の郭の曲線の美しさは一際人目を引く。
石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。

城内には首里城を遥拝したり、雨ごいのための御獄など、いたるところに拝所(うがんじゅ)がある。

中城城で最も広い一の郭。
正殿があった。
後に間切番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した。

正殿跡の発掘現場、個々の石に番号が付けられ管理されている。
世界遺産ともなると大変なようだ。

アーチも再現されようとしている。

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中城城へのアクセス、行き方歩き方

中城城公式サイト

住所:〒901-2314 沖縄県中頭郡北中城村字大城503

旭橋の那覇バスターミナルから30系「泡瀬東線」で約60分「久場」
で下車後、徒歩約15分で着きます。