アジサイには早すぎた 久安寺


OB会の撮影会で久安寺を訪れたがアジサイには少し早すぎでした。
画像は御影堂、宗祖弘法大師空海を祀る。

撮り足りなさを覚え二日続けて参拝。

本堂

久安寺本尊千手観音のおわします観音堂。

摂津国三十三所霊場第 19番札所。

開運の鐘。

まず、鐘を4回ついてから、お経を唱えます。

それからお願い事をする。

先駆けにカシワバアジサイが境内のあちこちに咲いています。

薬師堂の脇の池でカエルを見つけた。

水面は光を受けてきれいです、多くのカエルを見かけたのだが人の姿を見て驚いて水に潜ってしまいます。

静かな環境でないと観察できない。


バン字池にはたくさんの鯉がいます、人が近づくとえさを求めて寄ってきます。



葉っぱが年中赤いモミジの品種で最も有名なものは「ノムラモミジ」。

ノムラは漢字で「濃紫(のうむら)」と表記するので、ノムラモミジは濃い赤紫色のモミジという意味になります。

ヤマボウシが咲いていました。

ヤマボウシは上向きに咲くので咲いていても気付かない事が多い。

「山法師」の名前は、中央の丸い花穂を坊主頭に、4枚の白い花びらを白い頭巾に見立て、比叡山延暦寺の「山法師」になぞらえた。

弥勒山森林浴巡拝コース

四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場です。

境内山内一周1080メートル(約1時間)の山歩きが楽しめます。

御影堂右側わたりろうか下をくぐってお進む。


三十三所堂

西国観音霊場を祀る。
33メートルの須弥壇に、自宅仏壇をもたない人の先祖霊、遺骨をお預かりお参りできる慰霊壇を設けています。

朱雀池に咲く「ハス」

逆さまに映るリフレクションがきれいです。

日傘の女性のリフレクションを撮ろうと待ち構えるのだが、なかなかまともな画像が撮れません。

涅槃仏の壁面にさす光

裏側に光源があります。


一面に咲くアジサイが美しいのですが、時期が早すぎます、頃合いを見てもう一度訪れようと思っています。

紅葉がまた素晴らしい。

超穴場!久安寺の紅葉
楼門 14世紀、室町時代の建立。 奈良時代の開基、優雅第一と賞される楼門は「軒反 … 続きを読む →

玉津島神社界隈


玉津島神社

稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊、明光浦霊をお祀りしています。

古来より風光明媚な和歌の浦、玉津島神社は山部赤人が歌に詠んで以来、万葉集をはじめとして、多くの歌に登場します。

1917年(大正6年)、鹽竈神社は玉津島神社(玉津嶋神社)の祓所から神社になった。

海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

近くには家庭円満の守り神として多くの人の信仰を集めてきた樹齢数百年の大木「和合の松」があったが、2012年(平成24年)6月に倒壊した。

和歌の浦のシンボルでもあった姿を復活させようと、通常難しいとされる挿し木によるクローン苗を使って、2018年4月に元の場所に植樹された。

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したもの。

橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。
勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。

近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物があったが、解体され、現在は和歌の浦アート・キューブになっている。

妹背山は玉津島神社のすぐ横にある、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島。

その西側には県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡ることができます。

妹背山・三断橋

玉津島神社から妹背山に繋がる県内最古の石橋。中国の杭州西湖の六橋を模したとされ、小アーチ型橋を3カ所繋げている。
徳川頼宜により架橋される。

雑賀城(さいかじょう)は、戦国時代に現在の和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目付近に存在した日本の城(丘城)。
妙見山城とも呼ばれた。

いつの頃まで存在したのかは不明であるが、遅くとも秀吉が紀州征伐をする1585年(天正13年)には廃城となっていたであろうと推察される(この年から和歌山城築城が開始される)。

対岸には紀三井寺が見えている。

和歌山市の一部に当たる雑賀地方は、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷の5ヶ郷からなる。

鈴木氏、土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏らが族党をつくり雑賀衆となった。
鈴木重秀(雑賀孫市)は、雑賀衆を代表する者であった。

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西国三番札所 粉河寺


粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある粉河観音宗の総本山の寺院。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。

伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

中門(重要文化財) – 入母屋造、本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。

棟札によれば明和年間(1764年 – 1772年)から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成。
扁額「風猛山」は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

紀州青石

和歌山城築城当初の石垣には、紀州特産の「青石」が多く使われている。

緑色を呈するため緑泥片岩とも呼ばれ、古来から紀州では石垣、門柱、庭石、石碑、石畳など広く用いられている。

青石の産地は中央構造線の南、西南日本外帯に分布し、東は三重県から西は愛媛県に至り、伊勢青石、紀州青石、阿波青石、伊予青石がブランド石となっている。

粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。

盥漱盤とはいわゆる「手水(ちょうず)鉢」のことで、寺社に立ち入る前に手や口を清めるためのものである。

「盥」は「たらい」、「漱」は「うがい」を表します。

かつて粉河の地域の鋳物産業は活発で、粉河鋳物と呼ばれるほどであった。

この盥漱盤は安永4年(1775)粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作品で、粉河鋳物の代表的作品であると言われている。

太子堂

鎌倉時代には天台宗の寺院として550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。

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ぶらり退蔵院


玄関に網代笠(あじろがさ)があった。

そして中に入ると「旅」と題するぶんが掲げてある。

土に帰るたびか・・考えさせるね。

方丈への入口の門は「袴腰(はかまごし)造り」と呼ばれ、唐破風造りの破風の曲線が直線になってる非常に珍しい様式。

当時は、法要儀式や高貴な方々の出入り以外は使用されなかったそうです。(重要文化財)

なにか意味あり気な置物だ。

涼しそうな座布団。

見上げるときれいな青空、先ほどまでとうってかわって・・・

紅い紅葉が印象的。

余香苑へ。

陰陽の庭(陰)は、黒砂

黒砂が敷き詰めれれた枯山水庭園で、陰陽道における「陰の数=偶数」の象徴である8つの石が配されています。


瓢箪型が可愛いお茶席の小窓。

2016年春「妙心寺退蔵院のさくら特別拝観」
退蔵院ではこの時期、お食事つき特別拝観プランが行われている。 退蔵院の目玉で国宝 … 続きを読む →


お茶席のお部屋は、庭園全体を見渡せるように障子の下半分にガラスをはめ込んだいわゆる「雪見障子(ゆきみしょうじ)」になっており、座りながら庭園の風景を楽しめるように工夫されていました。

前の庭の景色がリフレクションになっている。

この景色が写り込んでいる。

昭和の名作庭家・中根金作(なかねきんさく)によりデザインされた、池泉回遊式の余香苑(よこうえん)が眼前に広がります!

この方は「昭和の小堀遠州(こぼりえんしゅう)」とも呼ばれており、日本庭園ランキングで16年連続で1位を取得している足立美術館(あだちびじゅつかん)の庭園を手掛けたことで有名です。

退蔵院は、応永11年(1404)に無因宗因禅師を開山として建立されたお寺。

「退蔵」という言葉には、「価値あるものをしまっておく」という意味があるそう。

これは、陰徳(人に知られないようにして善行をする)を積み重ね、それを前面に打ち出すことなく、心に秘めながら布教することを表しているらしい。

先ほど方丈でお参りしていた人達がお庭見物にやってきた、そろそろ場所を開けるか。

空が抜けるように青い。


門前に佇む僧侶、鯰について聞いてみた・・・・

退蔵院の目玉で国宝に指定されている『瓢鮎図(ひょうねんず)』。

「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」この矛盾をどう解決するか、将軍義持は当時の京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせました。

高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は正に壮観です。

宮本武蔵は妙心寺の住持になられた愚堂東寔禅師のもとへ参禅に足を運びました。

愚堂東寔は妙心寺で三度住職をお勤めになられましたが、武蔵が教えを求めに上洛したときに、退蔵院所蔵の瓢鮎図を目にしたのではないかと伝わっています。

武蔵自作とされる刀剣の鍔が岡山県美作の「宮本武蔵資料館」に現存しておりますが、それには「瓢箪と鯰」がくっきりとデザインされています。

武蔵の里
長躯、岡山まで遠征、武蔵の里到着。 武蔵の里は岡山県美作市宮本の宮本武蔵生誕伝承 … 続きを読む →

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梅雨期の龍安寺 緑がきれいです


京福電鉄 龍安寺駅から徒歩で訪問、石畳がとてもきれいです。

最近は石畳に熱を上げています。
微妙にカーブしたところなど心憎いばかリ。

本来は帰路に使う鏡容池から逆回りに辿る。

緑が映り込みとてもきれいです。

池には一面にハスの花が咲いています、そして古い小屋にはもやい舟も見えます。

5月から6月の限られた期間中に、鏡容池で見頃を迎えるのが睡蓮の花。

池一面に咲き誇り、雨が降る中でも思わず足を止めてカメラのシャッターを切りたくなるほどの美しさです。

参道は緑の森。

綺麗な石畳の階段から参拝します。

インバウンドに修学旅行生、境内は大混雑です。

寺務所の白い壁面に緑が映える。


隣は勅使門、エリザベス女王訪問時にはこちらの勅使門から入場されました。

イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。

女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。

方丈の座席は多くの人で埋め尽くされています。

方丈広間の襖絵。

石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。

しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。

龍安寺は宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。

平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。

後に宰相となった「張商英(ちょうしょうえい)」の参禅を指導した「従悦禅師(じゅうえつぜんじ)」が、中国北宋の龍安山兜率寺(とそつじ)の禅師だったことが龍安寺という名前の由来。

参禅とは、禅堂を学ぶことや坐禅を組むことを指します。

茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。

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鉄砲伝来と根来寺


根来寺は1130年に開祖の覚鑁(かくばん)が高野山に造営した小伝法院という一堂がはじまりとされ、1140年に現在の地へ移り、戦国時代には寺領72万石の大寺院となっています。

根来衆は豊臣秀吉と激しく敵対したことは有名だが、大塔と大師堂は秀吉による焼き討ちを免れたことが知られている。

大塔(大毘廬遮那法界体性塔、国宝) – 本尊・胎蔵大日如来。
高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。

基部には羽柴秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。

1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。

また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。

それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

新義真言宗の総本山。
長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。

鎌倉時代に現在の場所へ移転したといわれる。

南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大教団となった。

現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。

天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。

「根来衆」と「雑賀衆」の兵力規模

鉄砲で武装した根来寺の僧兵集団は「根来衆」と呼ばれ、兵力は1万人にも達していたといいます。

さらに当時の和歌山には、「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲を主力とする一団もいました。
もともとは雑賀庄内(さいかしょうない)(現・和歌山市)の土着集団で、鉄砲を8000丁も保有する傭兵団でもあったといいます。

また、熊野水軍の流れもくんでいたため、海運と交易が盛んだったばかりか、有事には水軍としても活動しました。

この根来寺と雑賀衆の関係は良好で、雑賀側の住民が根来寺に塔頭を建てることもありました。
また使用した鉄砲も、根来衆が伝えたとする説があります。

根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。

聖天堂(重要文化財)

聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。

鐘楼門

根来寺の僧兵、津田監物(つだけんもつ)が種子島から鉄砲と火薬の技術を持ち帰り、門前町の鍛冶屋につくらせました。
このとき製造されたのが、国産最初の1丁であるといいます。

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。

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霊鑑寺のツバキ


哲学の道は多くのインバウンドに埋め尽くされている。

桜はほぼ満開に近い。

満開の桜をにらみながら霊鑑寺へむかう。

「椿の寺」として知られる霊鑑寺は、承応3年(1654)、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・多利宮(たりのみや)を開基として創建され、歴代皇女が住職を務めた尼門跡寺院。

現在、椿の特別公開が行われている。

霊鑑寺で参拝客を真っ先に迎えてくれるのは、門をくぐってすぐ左正面目に姿を表す梅の古木と散椿の古木。

散りツバキで埋め尽くされた地面は真っ赤です。

庭園入口に設置された椿の花手水は、ピンクや白などのカラーで統一されており、思わずシャッターを切りたくなる可愛さ。

庭園内の小さな手水鉢にも椿が浮かべられています。

その先の玄関は、竹に色とりどり様々な品種の椿の花を活けた花あしらいが飾られています。

かつてここには樹齢400年と言われた日光(じっこう)という椿(京都市天然記念物)がありました。

残念ながら2015年に枯死して今はその姿は見られません。
枯死した日光椿は後水尾天皇も愛でたと伝わる古木椿です。

実物を見ることが叶わず、大変残念に思っている椿の一つですが3メートルほど離れた場所に生えている日光椿は、元の椿と根がつながっていたたので、市の指定天然記念物はこの日光に引き継がれることになったそうです。

無作為に綺麗そうなのをドンドン撮っていきます。


今年はちょうど桜の時期と重なり、桜と椿のトンネルをくぐりながら歩きます。


別名「谷の御所」と呼ばれた格式と清楚な佇まいを今に伝えています。

本堂は江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が寄進したもので、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を安置しています。

後水尾天皇が椿を好まれたことから、広い庭内には100種以上の椿が植えられており、日光(じっこう)椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿などが、色とりどりに咲き誇ります。

当寺は、そもそもは後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所であった。

その後、寛永20年(1643年)に基子の希望により後水尾上皇によって寺院に改修されることが決められ、翌正保元年(1644年)には上皇の娘である宗澄女王が入り、寺院化が進められた。

承応3年(1654年)5月に霊鑑寺と寺名が付けられると、女王は得度して宗澄尼と号した。
以降尼門跡として5人の皇女が入室している。

御所人形が約200点ほど伝わっており、皇室ゆかりの寺宝も多い。

特別公開の時期、書院は内部へ上がっての拝観可能だが撮影禁止なのですが画像はありません。。

その後、法然院へと向かいます。

途中、安楽寺がありますが特別公開の日がずれているため拝観できません。

安楽寺は、別名松虫鈴虫寺と呼ばれる浄土宗のお寺です。

なぜ松虫鈴虫寺と呼ばれるのか、それはある姫たちに関する悲しいお話が由来となっています。

鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。

1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。

江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

白砂壇(びゃくさだん)

山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。
水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

当山には椿が多く、特に本堂北側の中庭には、三銘椿(五色散り椿・貴椿・花笠椿)が整然と植えられている。

花期は3月下旬から4月中旬。

三銘椿、春期特別公開 法然院
正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。 … 続きを読む →


さて、両姫のその後ですが、二人は瀬戸内海の小さな島「生口島」の光明坊で念仏三昧の日々を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生しました。

経緯は不明だが住吉にも松虫鈴虫を祀った塚がある。
松虫塚
昔、このあたりは見渡す限りの原野で、秋には虫の声が満ち、特に松虫 (今の鈴虫)の … 続きを読む →

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長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 – 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 – 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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竹渕神社由来


大阪府八尾市の、西に向かって出っ張り、大阪市平野区に囲まれてほぼ飛び地のようになっている地域は、旧渋川郡竹渕(竹淵)村にあたる。

竹渕は正式な住所としては現在「たけふち」と訓ませるが、地元では古来「たこち」と称している。

竹渕の由来
なんと神武東征に遡る。

のちに神武天皇となる「磐余彦」、日向国を出発してから何年もの歳月を費やして、大和国に入るべく河内国に上陸。

まずは生駒山地と金剛山地の境目「龍田越え」を敢行するが道険しく断念。

次に「暗峠越え」もしくは「磐船街道越え」を目論んで、生駒山地沿いを北上した。

現在の東大阪市日下あたりで、待ち構えていた長髄彦軍と遭遇し戦となる。磐余彦軍は完敗し退却を余儀なくされた。

長脛彦は執拗に追いかけてくる。おそらくは古大和川沿い、平野川沿いを逃げただろう。

ちょうど、この地に来た時、大きな竹藪を発見。磐余彦軍は竹藪に隠れ込む。

長髄彦も竹藪に入り、磐余彦を探す。

竹藪の中には大きく深い淵があった。
さてはこの中に潜んでいるのだろうと、長髄彦はその淵に部下を潜らせて探させた。
しかし、磐余彦はどこにもいない。

長髄彦は、これは神の仕業かと恐れおののいて退却していった。

竹渕神社由来書 より

磐余彦はこの地にしばらく逗留した後、熊野から大和に入るべく東征を続けたという。

前述のように、古代の竹渕には水運に従事する氏族が住んでいたといわれる。

彼らが水の神を祀ったのが竹渕神社の始まりかもしれない。
龍神の伝承はその名残りではないだろうか。

道路一つ隔ててこちら側は大阪市平野区、竹渕神社は大阪府八尾市。

『和名抄』では「多加不知たかふち」と訓ずる。
 
その南端に、竹渕神社は広い社域を横たえている。

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河内小阪


栗林書房

昭和7年創業、初代社長は栗林秋治郎さん。
元は長瀬の古本屋から始まり、後に現在の小阪本店に移りました。
そして、本店だけでは手狭になってきたため、文庫の店とレッド小阪店を順に展開。

東大阪の著名人である司馬遼太郎さんもこのサービスを利用していました。

司馬さんのエッセイ本「以下、無用のことながら」では、栗林書房が「駅前の書店」という見出しで登場します。

そのためか、司馬遼太郎記念館に訪れた人が寄ることもあるのだとか。
「わざわざ鹿児島からやってくる方もいらっしゃいましたよ。

司馬遼太郎記念館へのルート、八戸ノ里駅からのルートもある。

ウラ小坂、何ともレトロな名前。

河内小阪駅から南のアーケードに入り、少し東に入ったあたり。
若干分かりづらい路地。

高田川部屋所属「須磨の海」が「おでんとホルモン煮 須磨」を開店したのもこの路地。

理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。

まもなく司馬遼太郎の命日「菜の花忌」がやってきます。
住民こぞって司馬さんの好きだった菜の花を植えて記念しています。

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →

また、今年で生誕100年に当たります。

念財団」は、ファンを対象に最も好きな司馬作品についてインターネットでアンケート調査を行い、1567人から回答がありました。

調査の結果、最も人気を集めた作品は、『坂の上の雲』でした。

近代国家として歩み始めた、明治維新から日露戦争までの日本を松山出身の秋山好古・真之の兄弟と正岡子規の3人を軸に描いています。

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」という書き出しも有名で、中高年や男性を中心に、全体の20%余りの支持を集めました。

次いで人気だったのは、幕末の志士、坂本竜馬の短くも劇的な生涯を描いた『竜馬がゆく』で、およそ15%の支持を集め、男女を問わずすべての世代で幅広い人気でした。

3番目は同じく幕末を舞台にした『燃えよ剣』。
新選組副長として剣に生き、剣に死んだ土方歳三が主人公です

小坂神社は、東大阪市下小阪に鎮座されています。

御祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)。

小坂神社略記によりますと、天正二十年(1592)、十八軒の家がこの原野開拓に当たり、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、小坂神社を奉祀したのが小坂神社の起こりとされています。

弥栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)

創建年代は不明で元は牛頭天王と呼ばれていた。
 
その名からもわかるように御祭神は、須佐之男命です。
 
石山合戦で焼失し、1600年に再建。
 
1872年、現社名となっております。

木村重成、大坂城炎上の無念

重成が決死の覚悟をした場所か!

大坂夏の陣で木村重成は、大坂城の救援に向かう途中、この地で城の炎上を見、馬の上に立って城に別れを告げ、戦地へ引き返し戦死したことから、この地が馬立と呼ばれるようになったという。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い
八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大 … 続きを読む →


この辺りは大阪空港への着陸コースに当たっており東からの航空機はすべて通過する。

今日は午前中は風もなく陽が射して暖かい日でしたが夕方になるにつれ曇りがちとなり風も出て寒い夕暮れとなった。

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