民博 イスラム


その数約20億人と、いまや世界人口の4人にひとりを占めるまでになったイスラーム教徒。

イスラーム教について知ることは世界情勢を理解する上でも欠かせない。
しかし、彼らの存在は日本にいるとどうしても遠く感じられるのも事実。

マッサマンカレー 民博レストラン

民博ではとりあえず腹ごしらえから。 ここのレストランはエスニック料理で有名だ。 … 続きを読む →

『みんぱく』で世界を覘く インドネシア編
インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家。 首都はジャワ島に位置するジ … 続きを読む →


イスラム教(イスラーム)は、現在のサウジアラビアを発祥地とし、唯一神アッラーへの絶対的な服従を説く一神教の宗教。

7世紀の初頭、神から啓示を受けた最後の預言者とされるムハンマドによって創始された。

ムハンマドが受けた神の啓示をまとめた啓典コーランと、彼の言行を示した記録ハディースに基づき信仰が営まれています。

世界中に広がるイスラム教ですが、長い歴史の中でいくつかの宗派に分かれて存在している。
世界で約20億人もの方が信仰しているとも言われ、とくに西アジア、北アフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジアなどに多くのムスリムが住んでいます。

調査によると、日本で暮らすムスリムは、2020年末で約23万人いた。

このうち日本人や、結婚などで永住資格を持つ人は約4万7千人で、10年前の1万~2万人から倍増している。

「目立つのは婚姻に伴うもの

モスクの建設も進み、20年余りで7倍以上になった。

大阪市西成区では昨年、新しいモスク「マスジド・イスティクラル・大阪」が開設された。

元は工場だったビルを改装し、費用は主にインドネシア人の寄付で賄った。
日本人が礼拝に来る姿も目立つという。

イスラム教の聖典クルアーンによれば女性は顔と手以外を隠し、近親者以外には目立たないようにしなければならないことから、保守的なイスラム社会では女性は頭をふくめた体を隠す服装をすることが多い。

現在、イスラム世界で使用されている女性の服装には以下のものがある。

アバヤ(アバーヤ、文語アラビア語ではアバーア)はアラビア半島などに見られる伝統的なガウンタイプの長い民族衣装。
ヒジャーブを着用しない女性がおしゃれとして身につけることもしばしばあるが、通常はヒジャーブやニカーブなどと組み合わせる。
色はアラビア半島だと黒が多いがファッションや好みに合わせ色々な色や刺繍の物が存在する。

ヒジャブ(ヒジャーブ)はスカーフやストールのような大きい布で頭髪を隠すタイプ。
イスラーム世界の女性でポピュラーなタイプ。

ヒマールはヒジャブより、隠す範囲が広がり、背中まで隠す。

ブルカはアフガニスタンで用いられている民族衣装で目の部分も網状になっていて完全に隠れている。

ニカーブ(アラビア語版)は目だけ見せるものである。色は黒が多い。

チャドルはイランに多い服装である。
顔だけ出して体全体を隠す。

ブルキニは近代になってから登場したムスリマ向けの水着である。
イスラム教の戒律に合うように全身を覆うタイプの水着になっている。

アジアの西の端、”戦乱の十字路”と呼ばれてきた国があります。
アフガニスタン。

「長年、私の国は戦争によって多大な犠牲を払ってきました。
毎朝、家を出るときに考えるのは『生きて帰れるだろうか』ということでした。
私はアメナ・ハキミ。
ジャーナリストです。
戦争が終わった今、本当は穏やかに暮らしたい。
でも、私は数少ない女性記者として、取材を続けることにしました。
どんな状況だろうと、この国の現実を伝えるためです」

半世紀近い戦乱の陰で、この国の女性たちは厳しく抑圧されてきました。

かつてタリバンが強制したのが、全身を覆う「ブルカ」。
タリバンが復権した今、再びブルカに身を隠す女性が増えています。

ベリーダンスは古代エジプト発祥であり、中東およびその他のアラブ文化圏でイスラム教が普及する前に発展したダンス・スタイルであり、これらを総称するために造語された呼称。

エジプト、トルコ等、アラブ全域で踊られる。
腹部や腰をくねらせて踊る為、欧米ではBelly(腹部)Danceと呼ばれているが、本場のアラビア語ではRaqs Sharqi(東方の踊り)と呼ぶ。

13世紀末に建国された当時のイスラム教宗主国であったオスマン帝国(現:トルコ)でも、スルタンのために世界中から集められた女性がハレムにおける教育の一環としてダンスも学んでいたとされており、スルタンのために踊る姿が描かれた絵画も多く残されている。

比較的世俗的なエジプトやトルコでは伝統になっているが、音楽や踊り、(女性の)肌の露出を禁忌と考えるイスラーム主義過激派(原理主義者)には懲罰・攻撃対象となっている。

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民博 アイヌ


藤戸竹喜(ふじと たけき/1934-)は、旭川を拠点に「熊彫り」を生業としていた父のもとで、12歳から木彫を始めた。
藤戸竹喜
藤戸竹喜(ふじと たけき/1934-)は、旭川を拠点に「熊彫り」を生業としていた … 続きを読む →


民博 アイヌ
東西に長い長方形の一間づくりで、入口の土間に農具や薪が置かれる。 東壁にひとつ、 … 続きを読む →

父方の祖母で幼少時に藤戸を育ててくれた「藤戸タケ像」
神の座
いよいよ年も押し迫った、たまには遠い昔のことを思い出してみるのもいいだろう。 都 … 続きを読む →

アイヌのヌササン(祭壇)、二風谷では家の南東にあるのが上座の窓でその窓の外にヌササンを設ける。

古民家を訪ねて 信濃秋山の民家(旧山田家住宅)
長野と新潟の県境付近に位置する秋山地方は日本でも有数の豪雪地帯です。 この地方か … 続きを読む →


長野と新潟の県境付近に位置する秋山郷は日本でも有数の豪雪地帯です。
この地域から秋田県にかけて、中門造の民家が多く分布しています。

その中でも昭和36年(1961年)に移築されたこの民家は特に珍しいもので、18世紀中頃の姿をとどめています。
この民家は村の一番高い場所に位置していて、恐らく持ち主は、庄屋か組頭をしていたものと思われます。

民博は夏の酷暑の最中の撮影場所としてとても良い場所です。
しかし撮影環境は最悪です、照明は暗く、展示物が密集しているため狙いの絵が撮りにくいのです。

撮影会の仲間と何度も通って鍛えられました。
しかし、まだまだ満足のいく画像がなかなか得られません。
永遠の鍛錬の場であり、暑い時期を過ごす最適の場なのです。
暑い時期、撮りためた絵をレタッチしながら過ごします。

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山城 善峰寺 アジサイ紀行


アクセスJR向日町~阪急東向日~向日市役所前~右京の里~灰方~小塩~善峯寺 (JR阪急各駅より所要 約30分 片道370円)

ここから山岳登山開始。

観音堂へ着くとアジサイの生け花がお迎え。

ここからは比叡山が一望。

寺号の由来
「善峯寺(善峰寺)」という寺院は全国でも1つしかないと言われています。
寺号の由来はいくつか伝えられています。

後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されました。

干ばつの時、源算上人の祈りで、龍王が雨を西山の峰より降らした奇瑞によって、後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。

後鳥羽天皇より、慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。

「本名は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる諸善奉行の教を流布せんためなり」とあります。

※尚、寺号「峯」の字は歴史上「峰」「峯」ともに使われており、

現在当山では便宜上「峯」に統一しています。

山城善峰寺

南北朝の争乱や応仁・文明の乱でもこの地に戦が行われているように、軍事的な要衝の地にあった山岳寺院は城郭として利用されたと考えられる。

江戸時代の再興であるが、山門から本堂への石段と石垣や釈迦堂付近は、お城好きにはお寺がお城に見えて仕方がない光景がそこにあった。

善峰寺は、長元3年に源算によって創建されたとされている。

建久3年には官寺に列せられ、後に後嵯峨天皇の勅願所となった。

承久の乱の際には後鳥羽天皇の皇子道覚法親王が善峰寺へ避難しており、その後も法親王が住持を歴任している。

南北朝時代の文和2年、南朝方の山名時氏と北朝方の高師詮が善峰寺で戦い寺は焼失した。

その後、室町時代は足利幕府の庇護を受けたが、応仁・文明の乱で焼失して衰退し、江戸時代の元禄4年に徳川綱吉の生母桂昌院によって再興された。

桂昌院(1627~1705)は徳川家光の側室で、名は光子。
五代将軍綱吉の生母。

諸書によれば「京都堀川通西藪屋町」の八百屋仁左右衛門の子で、父の没後、母鍋田氏は二条家家司本庄太郎兵衛に嫁した。

寛永16年(1639年)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる[2]。

長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。

慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。

4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。

貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。

宝永2年(1705年)6月に79歳で没。

『薬師如来献詠』桂昌院筆
元禄11年(1698)に薬師如来に歌を献じます。

たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏

「たらちを」とは実父のことで、将軍の生母となってからも父の薬師信仰を忘れずにお過ごしになりました。

山城を思わせる遺構が随所に見られます。

途中には打たせ滝である青蓮の滝がありましたが水が流れていません。

本殿を中心に、ぐるりと山を登って参拝を楽しめる善峯寺。

階段が多いにも関わらず、ご年配の方が沢山元気に参拝しておられました。

善峯寺参拝は今回で3回目です。

京都 西山 善峯寺
山号は西山。西国三十三所第20番札所。善峰観音宗(天台宗系単立)。 桜や紅葉の名 … 続きを読む →

秋の紅葉めぐり 西山 善峰寺
善峯寺(よしみねでら)は、京都府京都市西京区にある寺院。山号は西山。 西国三十三 … 続きを読む →

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玉津島神社界隈


玉津島神社

稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊、明光浦霊をお祀りしています。

古来より風光明媚な和歌の浦、玉津島神社は山部赤人が歌に詠んで以来、万葉集をはじめとして、多くの歌に登場します。

1917年(大正6年)、鹽竈神社は玉津島神社(玉津嶋神社)の祓所から神社になった。

海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

近くには家庭円満の守り神として多くの人の信仰を集めてきた樹齢数百年の大木「和合の松」があったが、2012年(平成24年)6月に倒壊した。

和歌の浦のシンボルでもあった姿を復活させようと、通常難しいとされる挿し木によるクローン苗を使って、2018年4月に元の場所に植樹された。

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したもの。

橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。
勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。

近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物があったが、解体され、現在は和歌の浦アート・キューブになっている。

妹背山は玉津島神社のすぐ横にある、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島。

その西側には県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡ることができます。

妹背山・三断橋

玉津島神社から妹背山に繋がる県内最古の石橋。中国の杭州西湖の六橋を模したとされ、小アーチ型橋を3カ所繋げている。
徳川頼宜により架橋される。

雑賀城(さいかじょう)は、戦国時代に現在の和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目付近に存在した日本の城(丘城)。
妙見山城とも呼ばれた。

いつの頃まで存在したのかは不明であるが、遅くとも秀吉が紀州征伐をする1585年(天正13年)には廃城となっていたであろうと推察される(この年から和歌山城築城が開始される)。

対岸には紀三井寺が見えている。

和歌山市の一部に当たる雑賀地方は、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷の5ヶ郷からなる。

鈴木氏、土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏らが族党をつくり雑賀衆となった。
鈴木重秀(雑賀孫市)は、雑賀衆を代表する者であった。

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「滝見小路」に昭和レトロを見る


新梅田シティにある、昭和のノスタルジックな香り漂うレトロ食堂街「滝見小路」。

ノスタルジックを表現すべくレタッチはそれなりに努力したが難しい。

「滝見小路」と名前がつくこの食堂街は、和食を中心に、お好み焼き、串カツやかつ丼など、およそ20軒の飲食店が並ぶ。

昔はどの店にもハイトリ紙がぶら下がっていたものだ。

大阪の街が明るく、活気にあふれていた、昭和初期の街並みが再現されています。

石畳の路地に、暖簾や格子戸があって、お稲荷さんなどを眺めながら歩いていると、当時にタイムスリップしたような感覚に浸ることができます。

戦後日本が急速に発展した高度成長期。

毎日が目新しくなっている激動の「昭和」。

人情の街・大阪は万博に沸きました。

決して裕福ではなかったけど、みなパワーに満ち溢れた時代があざやかによみがえる。

そんな時代を彩った、昭和の街並みを再現したのが「滝見小路」。

新しいのに懐かしい、心の片隅にあるあなたの原風景に迷い込んでください

ニッパーの最初の飼い主は、イギリスの風景画家マーク・ヘンリー・バロウドであった。

1884年、イギリスのブリストルに生まれる。
いつも客の脚を噛もうとすることから、“Nipper”(nip=噛む、はさむ:同名の工具の語源)と名づけられる。

1887年にマークが病死したため、弟の画家フランシス・バロウド(英語版)がニッパーを引き取った。

彼は亡き飼い主・マークの声が聴こえる蓄音機を不思議そうに覗き込むニッパーの姿を描いた。

懐かしい広告が並ぶ。

路地には若い人たちが溢れている、彼らは何を感じているだろうか。

『社長シリーズ』第24作。東洋一の紳士服メーカー「栗原サンライズ」を舞台に、東京~名古屋、そして三重県を舞台を移しながら繰り広げる。

秘書役は、当時の東宝の新人の1人・原恵子が演じる。

昭和時代から「レトロブーム」というのは何度かあり、2010年代現在、「昭和レトロ」と呼ばれるのは、特に昭和30年代~40年代にかけての時代の雰囲気を想定しているようです。

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竹渕神社由来


大阪府八尾市の、西に向かって出っ張り、大阪市平野区に囲まれてほぼ飛び地のようになっている地域は、旧渋川郡竹渕(竹淵)村にあたる。

竹渕は正式な住所としては現在「たけふち」と訓ませるが、地元では古来「たこち」と称している。

竹渕の由来
なんと神武東征に遡る。

のちに神武天皇となる「磐余彦」、日向国を出発してから何年もの歳月を費やして、大和国に入るべく河内国に上陸。

まずは生駒山地と金剛山地の境目「龍田越え」を敢行するが道険しく断念。

次に「暗峠越え」もしくは「磐船街道越え」を目論んで、生駒山地沿いを北上した。

現在の東大阪市日下あたりで、待ち構えていた長髄彦軍と遭遇し戦となる。磐余彦軍は完敗し退却を余儀なくされた。

長脛彦は執拗に追いかけてくる。おそらくは古大和川沿い、平野川沿いを逃げただろう。

ちょうど、この地に来た時、大きな竹藪を発見。磐余彦軍は竹藪に隠れ込む。

長髄彦も竹藪に入り、磐余彦を探す。

竹藪の中には大きく深い淵があった。
さてはこの中に潜んでいるのだろうと、長髄彦はその淵に部下を潜らせて探させた。
しかし、磐余彦はどこにもいない。

長髄彦は、これは神の仕業かと恐れおののいて退却していった。

竹渕神社由来書 より

磐余彦はこの地にしばらく逗留した後、熊野から大和に入るべく東征を続けたという。

前述のように、古代の竹渕には水運に従事する氏族が住んでいたといわれる。

彼らが水の神を祀ったのが竹渕神社の始まりかもしれない。
龍神の伝承はその名残りではないだろうか。

道路一つ隔ててこちら側は大阪市平野区、竹渕神社は大阪府八尾市。

『和名抄』では「多加不知たかふち」と訓ずる。
 
その南端に、竹渕神社は広い社域を横たえている。

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慶沢園~住友家本邸庭園跡


福岡藩(黒田家)蔵屋敷の表門

当時 大阪には124の大名蔵屋敷があったが 現存するのは この門だけ。
黒田家の蔵屋敷は現在の中之島三井ビル付近にあった。

昭和8年同ビル建設に際し 三井から大阪市に寄贈された。
現在は天王寺公園内 大阪市立美術館南側に保存されている。

長屋門には別称で「後藤又兵衛あかずの門」や「後藤又兵衛不閉門」という呼び名もあるそうですが、由来について記された資料ははっきりとしていません。

ただ、大坂の陣で豊臣方についていた、真田幸村らと共に戦って討死した、黒田藩の武将が又兵衛が帰ってくるのを門を閉めずに待っていたという話が伝わっていると言います。
そんな「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」を潜り抜けた後、右手側に進路を取ると慶沢園があります。

慶沢園 南門(出入口)

大阪市美術館の南側にひっそりと佇んでいます。

美しい庭園の出入口にしては小さく簡易的な門で、慶沢園を知らない人が見たら大きな庭園の正門だとは想像できないかもしれません。
慶沢園の額が掲げられていて、銅板葺の切妻屋根の中央部分のみに瓦が乗った、ユニークな屋根が特徴です。

入園する前に頂いたパンフレットを見ながら、庭園の見どころとなる部分を順に歩き進めて行くのですが、ひとつ目は池の前に曲線を描いて州が出入りしている「州浜(すはま)」があり「船着石(ふなつきいし)」が見どころとなります。

「州浜」より左回りで「石切橋」歩き進めて行くのですが、日本一の高層複合ビル「あべのハルカス」を正面に見ることができます。

池の対岸に雪見灯篭が微かに見え、さりげなく奥行きのある世界を示しています。

つくばい 

手前に石があって、一段下がったところに石臼が置かれています。
正客は石のところまで来ます。
それでは水に手が届きません。
そこで付き人が石臼まで降りてきてひしゃくで水を汲み、正客はそれで手を清めていた様子が見えてきます。

「慶沢園」は、茶人の木津聿斎の設計をはじめ、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家「小川治兵衛(おがわじへえ)」通称「植治」により、明治41年に造園が開始されて以来、完成が大正7年という、実に10年を費やして造られた住友財閥の茶臼山本邸の庭園となります。

四阿(あづまや)

園内の南にあり、椅子に座って美しい庭園を眺めながら休憩することができます。

窓枠が額縁の役割をすることで明るい庭園の美しさが引き立てられ、写真スポットとして人気があります。

窓ガラスには現代ではあまり見る機会が無くなってしまった波打ちガラスが使われています。

床には那智黒石(なちぐろいし)が敷かれています。

趣のある「四阿」の天井は矢羽根の網代で、廻縁は小丸太、庭園の観賞がしやすいように、左右および前面には窓ガラスがはめ込まれています。

「慶沢園」の名前の由来は「伏見宮貞愛親王」から賜ったもので、はじめは「恵沢」の名を用い「照代之恩恵、先祖の余沢」の意より出たもので「恵沢園」としていましたが、大正7年の5月に、今の「慶沢園」の字に改められています。

美術館の建て替えをはじめ、戦後の昭和33年~昭和35年頃に行われた本格的な整備により、敷地の東端部が大きく削られる改造を受けましたが、池をはじめとした中心部に関しては竣工時の状態を保っていると言います。


沢渡

大きな石を目指して人は渡り、そこで歩を休めます。
そこから見る景色がよい。
ここにもデザインとして石臼が使われています。

2本の短い石橋が互い違いになるように掛けられており、小川治兵衛の遊び心が感じられます。


程なくすると、先程よりも少し大きな「州浜」があり、前方には、住友家の旧本邸敷地に建てられている大阪市立美術館が見えているのですが、それを背景に庭園を観賞できます。

「慶沢園」は、大名庭園を基礎に造営していて、大小3つの中島を浮かべた大池を中心に、その三方に全国から名木や名石を集めて築山を築いた造りになっています。

龍頭石(りゅうずいし)と龍尾石(りゅうびいし)

天然石でできており、サツキの刈り込みを胴体に見立てて、手前の龍頭石から左奥の龍尾石にかけて龍が横たわっているように見せています。

絶景広がる「州浜」の横に「龍頭石と龍尾石」があるのですが、配置されている位置的にも遊歩道からではその全貌を見ることができません!

「州浜」には入ることが出来れば見えるのですが、立ち入る事ができず、生い茂る木々が邪魔していて見えません!

角度的には「四阿」辺りから見るのが良いかと思い、一旦戻って望遠レンズで写真を撮って見ました。


舟形石

後述の舟着石と対になる自然石です。

大海をイメージした大池に舟が漕ぎ出す前の様子が見事に表現されています。

最初にあった「船着石」と「船形石」の二対の石によって、大海となる大池を巡る船の旅を想像できるように設計されています。

そんな「船形石」ですが、これまた生い茂る木々で少し見えにくい場所に配置されていますので、お気を付け下さい!

最後の見どころは、庭園の北東の築山の麓に配置されている「滝」ですが、飛石の右手側の奥にあります。

水が落ちる滝壺に滝を登ろうとする鯉に見立てた水受石があり、このような滝の様式では、滝を登りきった鯉が龍になると言い「龍門瀑(りゅうもんばく)」と呼ばれています。

まずまずの水量がある滝ですが、そんな滝より流れ落ちる水が、大海に流れ出す様子を現しています。


庭園内には随所に飛石があり、こちらにも小川治兵衛の遊び心が感じられます。

足元に流れる水は、後述の滝から落ちた水が大池に流れ出す様子を表しています。

この日も若い人がパラパラと散策に見えています。

なお、飛石を渡らずに、滝の後ろ側を通る園路もあります。

ほぼ一周しました、振り返ると、ハルカス、四阿が見えています。

そんな見ごたえのある滝を横目に見ながら飛石を渡ると「四阿」の対岸の位置にあたる「休憩所」があります。

長生庵(ちょうせいあん)は、明治・大正時代の茶道武者小路千家(むしゃこうじせんけ)の宗匠(そうしょう)である三代木津宗詮(きづそうせん)が設計しました。

三代木津宗詮は多くの茶室の設計に携わっており、例えば四天王寺本坊庭園とその茶室や、大宮御所の茶室である秋泉亭(しゅうせんてい)などを手掛けた人物です。

八畳の広間と二畳台目(にじょうだいめ:丸畳二畳と台目畳一畳の茶室)の小間で構成されている茶室で、予約をすれば誰でも借りることができるので、茶会や句会のほか、結婚式の記念撮影などで使う方もいるそうです。

やかん、かま、風炉(ふろ)などの備品も無料で借りることができます。

1958年(昭和33年)に、住友家の分家である都島の旧藤田家から移築されたもので、こちらは出口専用となっています。

立派な瓦葺の切妻屋根を持ち、入り口である南門よりも存在感漂う門です。

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河内小阪


栗林書房

昭和7年創業、初代社長は栗林秋治郎さん。
元は長瀬の古本屋から始まり、後に現在の小阪本店に移りました。
そして、本店だけでは手狭になってきたため、文庫の店とレッド小阪店を順に展開。

東大阪の著名人である司馬遼太郎さんもこのサービスを利用していました。

司馬さんのエッセイ本「以下、無用のことながら」では、栗林書房が「駅前の書店」という見出しで登場します。

そのためか、司馬遼太郎記念館に訪れた人が寄ることもあるのだとか。
「わざわざ鹿児島からやってくる方もいらっしゃいましたよ。

司馬遼太郎記念館へのルート、八戸ノ里駅からのルートもある。

ウラ小坂、何ともレトロな名前。

河内小阪駅から南のアーケードに入り、少し東に入ったあたり。
若干分かりづらい路地。

高田川部屋所属「須磨の海」が「おでんとホルモン煮 須磨」を開店したのもこの路地。

理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。

まもなく司馬遼太郎の命日「菜の花忌」がやってきます。
住民こぞって司馬さんの好きだった菜の花を植えて記念しています。

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →

また、今年で生誕100年に当たります。

念財団」は、ファンを対象に最も好きな司馬作品についてインターネットでアンケート調査を行い、1567人から回答がありました。

調査の結果、最も人気を集めた作品は、『坂の上の雲』でした。

近代国家として歩み始めた、明治維新から日露戦争までの日本を松山出身の秋山好古・真之の兄弟と正岡子規の3人を軸に描いています。

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」という書き出しも有名で、中高年や男性を中心に、全体の20%余りの支持を集めました。

次いで人気だったのは、幕末の志士、坂本竜馬の短くも劇的な生涯を描いた『竜馬がゆく』で、およそ15%の支持を集め、男女を問わずすべての世代で幅広い人気でした。

3番目は同じく幕末を舞台にした『燃えよ剣』。
新選組副長として剣に生き、剣に死んだ土方歳三が主人公です

小坂神社は、東大阪市下小阪に鎮座されています。

御祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)。

小坂神社略記によりますと、天正二十年(1592)、十八軒の家がこの原野開拓に当たり、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、小坂神社を奉祀したのが小坂神社の起こりとされています。

弥栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)

創建年代は不明で元は牛頭天王と呼ばれていた。
 
その名からもわかるように御祭神は、須佐之男命です。
 
石山合戦で焼失し、1600年に再建。
 
1872年、現社名となっております。

木村重成、大坂城炎上の無念

重成が決死の覚悟をした場所か!

大坂夏の陣で木村重成は、大坂城の救援に向かう途中、この地で城の炎上を見、馬の上に立って城に別れを告げ、戦地へ引き返し戦死したことから、この地が馬立と呼ばれるようになったという。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い
八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大 … 続きを読む →


この辺りは大阪空港への着陸コースに当たっており東からの航空機はすべて通過する。

今日は午前中は風もなく陽が射して暖かい日でしたが夕方になるにつれ曇りがちとなり風も出て寒い夕暮れとなった。

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秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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中近世の自治都市平野郷を訪ねる


全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。

全興寺を後にして平野郷散策へ出る。

戦国時代平野郷は、自衛のため周囲に堀をめぐらし、環濠集落を形つくっていた。

そして、出入口にはそれぞれ門と門番屋敷や地蔵堂を設け警備に当った。
濠の間には、大小十三の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていました。

ここは流口地蔵

流口は平野環濠の最南端の出入口で、流口木戸門から南下する道は中高野街道です。

中高野街道は喜連・瓜破を通り、嘗て平野川の水源だった狭山池で堺から来る西高野街道と合流する信仰の道です。

蘇民将来と疫病よけ

『釈日本紀』巻7に引用されている『備後国風土記』逸文に、疫隅社(えのくましゃ)の縁起として、次の説話が記されています。

昔、北の海に住んでいた武塔神(むたのかみ)が、南の海神の娘のもとに出かける途中、二人の兄弟に宿を乞いました。

兄の蘇民将来(そみんしょうらい)はとても貧しく、弟は裕福で大きな家に住んでいました。

弟は惜しんで家を貸そうとはしませんでした。

一方、兄は粟の茎で編んだ座布団をすすめ、粟飯と粟酒などを出してもてなしました。

数年が経ち、武塔神は八人の子神を連れてその地を再び訪れました。

そこで、「私は、以前受けた恩に報いようと思う。

あなたの子孫は家にいるか」と尋ねました。

蘇民将来は「私の娘と妻とが家におります」と答えました。

すると武塔神は、「茅の輪をその娘の腰に着けさせよ」と言います。

そのとおり娘の腰に茅の輪を着けさせたところ、その夜に娘一人を除いて、その土地の人々はことごとく殺され滅ぼされてしまいました。

武塔神は、さらに「私の正体は速須佐能雄能神(はやすさのをのかみ)である。

今後、疫病が流行することがあれば、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を着けていれば、死を免れるであろう」と言いました。

この説話は、疫病消除の「茅の輪」の由来譚となっていますが、「蘇民将来の子孫」が呪文となり、疫病除けの護符に使用されます。

また、武塔神はスサノオノミコトと名乗っていますが、後には祇園社(八坂神社)の牛頭天王と習合し、その信仰は複雑に展開していきます。

おもろ庵

昭和博物館みたいな古民家カフェ

折角だが本日は定休日。

小林新聞

新聞屋さん博物館

朝日新聞誕生の地、大阪市内で一番古い朝日新聞販売店”小林新聞舗”。 
創業は明治22年。
 
館内には、明治時代の大阪朝日新聞・大阪毎日新聞、日清戦争から現在までの号外、読者サービスでであった明治時代からの双六・画報・優待券などの付録の他に、珍しい新聞販売資料・写真など数千点の所蔵の中から約二百点が展示されている。 

建物はモダンなアーチ型の窓があるノスタルジックな大正風。

店名は「アート」だが雑然としていてアートの感じがしない。

何処の商店街も同じだがやってるのかどうかよくわからない。

樋尻口は竜田越奈良街道や八尾街道に通じる道です。

樋尻門筋の名前は東に平野川から環濠の水を引く樋があったことに由来します。

樋尻口の守護神だった樋尻口地蔵は地雷で首を吹き飛ばされたという伝説があります。

真田幸村が家康を狙い地蔵付近に地雷を仕掛けましたが、家康の身替りになった地蔵の首が全興寺まで飛びました。

平野公園は環濠の一部であつた松山池の跡地につくられました。

公園内には環濠の痕跡がわずかに往時の名残をとどめております。

公園の周囲に環濠に沿って築かれた土塁が残っています。

観光の目印のようですが、説明がなく使い方不明です。

転用石

石垣をつくるため、墓石や民家の礎石だけでなく石仏までかき集めたというのは、領主にとって名誉な話ではない。

敵から没収したものなら自慢にもなるが、ほとんどは領民から取り上げたものである。

すなわち、石材を揃えられなかった事実は資金に窮していたことの証である。

やむを得ないことであるなら、見えない部分である地面や水面の下になる箇所に使用すればよい。

ところが、転用石の多くはわざわざ正面中央部や角の部分など、人目につく部分に使用されている。

城には物理的な強さだけでなく、多くの人の力を結集したという事実にもとづく呪術的な強さが必要というのが戦国時代の考え方であり、領民から集めた石を石垣にしたのはその現れだったとも考えられている。

墓石や石仏には人々の先祖代々の思念や信仰の力が籠もっているため、石垣の素材としては最適という考えが成り立つ。

転用石をよく見える場所に置くのは、領主と領民が一体となったことを誇示するものであり、石を提供した領民へのサービスであったという見方もなされている。

赤留姫神社

「赤留比賣命」は日本神話に登場する神で、新羅から祖国であるとする本邦へ渡来したとされています。

本社社殿の左側(北側)には「住吉社」(写真右側)と「金刀比羅社」(写真左側)が西向きに鎮座。

住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』にも「子神」として「赤留比賣命神」が記され、古くから住吉大社と関係が深かったことが窺えます。

境内入口。西向きに鳥居が建っています。

社地は横(南北方向)に広く縦(東西方向)に狭いため、鳥居をくぐってすぐのところに社殿が建っています。

拝殿後方に建つ本殿は銅板葺・一間社流造で朱塗りが施されたもの。

やや小高いところに建っています。

拝殿前の狛犬。砂岩製で、がっしりとした体格のもの。

神社の前に猫好きのおばちゃんがいてしばらく猫談義。

生活感は感じられないですが、風情のある建物です。

『鍾馗さん』は京都や奈良の町屋によく据えられている飾り瓦です。

中国で鬼を退治したという伝説の英雄で、疫病神を祓い、魔を取り除くと信じられてきました。

昔、ある薬屋が大きな家を建てた際、屋根に大きな鬼面瓦を据えたそうです。

その鬼瓦を見た、向かいの家の娘が、その鬼に常に睨まれているような気がして夜ごとうなされ、ついには病気になって寝込んでしまったのです。

家族は病気を直すために、様々な手をつくしたけれど、一向に良くならないので娘が言う、その鬼瓦を取り外してくれないかと、薬屋に頼んだのですが、薬屋には大金を払って取り付けた鬼瓦なので外す事はできない!と言われてしまうのです。

そこで家族は鬼に勝つものは何か?と考え、中国の伝説にならい鐘馗さんの瓦を特別につくってもらい屋根に置いたそうです。

すると、娘の病はすっかり回復したといいます。
これが屋根のうえに飾るようになった由縁とされているそうです。

立派な板塀のお家。

長寶寺 王舎山長生院

坂上田村麻呂の娘で桓武天皇の妃の春子姫が、延暦二十五年(806)桓武天皇崩御により、弘法大師に帰依し剃髪し慈心大姉となられ、長寶寺を開基されました。

「王舎山」の山号は、後醍醐天皇が、皇居を吉野に移される時に、長寶寺を仮の皇居とされ、その時に賜ったものです。

境内の手水鉢には 水神に祈願するため 瓢箪(ひょうたん)を模した石に柄杓(ひしゃく)で水を掛けるようになっている。

銅鐘は建久三年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘の一つに数えられています。 

ともに国の重要文化財に指定され、市立美術館に寄託されています。

広大な寺域に多くの堂宇があったが、元弘の乱(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰した。

「平野郷町誌」によれば、現在の本堂・庫裡は、当寺第三十三代・慈源大姉の時、天保年間(1830-1844年)に再建されたと言う。なお、当寺の住職は代々坂上家の女子が補されることになっている。

防火水槽 58 ■ 平野区平野本町3-1-19

平野区ではじめて見つけた防火水槽は、ご覧の通りの本格派。

さすがは戦火に巻き込まれることなく今も風情ある旧平野郷にとてもマッチした物件です。
 
この第58号、昔ながらな格子ある町家の中に、まさに“鎮座”しています。

その材質は重厚感のある石。その上には木のフタ、そして大きな重石。

“イザっ”と言う時にヤワな人では消火作業できんのやないかとは思いますが、構成美としてはじつに落ち着きがあってかっこよくまとまっています。
 
よく見ると、どうやらこの物件の正面には文字が彫り込まれています。
 風情ある平野郷にあまりにぴったりすぎて“出来すぎ”な感もありますが、ほとんどオブジェとして残っているというのもちょっとテーマパークっぽくてええかもしれませんね。ま、“戦争遺産としての防火水槽を探す”というニュアンスからすると…ややはずれているとも思いますけれども。

古風な街並みに場違いなBar。

テントの破れと壁に絡まる蔦、面白い取り合わせ。

蔦だけでもおもしろてオブジェ。

平野郷十三口  田辺道西脇口地蔵

この地蔵堂は田辺道西脇口門の傍らにあったもので、田辺方面へ通じる木戸口であった。

環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなった。   説明板より

南口地蔵とも子安地蔵とも呼ばれ、南下すると堺口から延びる住吉・堺に通じる八尾街道に合流します。

西脇口には昭和55年まで南海平野線が通り平野駅がありました。

現在は線路沿いに細長い公園になっています。

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