旧柳生街道「滝坂の道」 


11年ぶりに滝坂を訪れた、破石町バス停までバスを利用。
バス停すぐのところに頭塔があるのだが整備中ということで入れず。

前回の訪問記を載せておく。
不思議な奈良のピラミッド 頭塔
頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。 1辺30m、高さ10m、7段の階 … 続きを読む →


今朝までの雨が止んだところ、盛んに上昇気流が見られる。

団体が追い抜いていく。

春日山と高円山の間の谷川に沿って登る、能登川の渓流に沿って登る山道が滝坂の道です。


滝坂妙見宮の入口付近、進入禁止に何っている。

滝坂妙見宮は日蓮宗春日山教会ともいい、創立は明治42年。
昭和の初めには近畿一円に教線を広げ、参道は昼夜を問わず参詣者で賑わった。

だが、第二次世界大戦の影響で信徒は四散し、昭和36年の台風被害で建物は壊滅的な被害を受けたという。

旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の街をつなぐ唯一の道として、米・薪木・日用品を馬の背に積んだ人々が往来し、また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもあります。

今朝までの雨で石畳がとったりと濡れて風情がある。

古くから武芸者や様々な物資を運ぶ人などが利用した重要なルートだった滝坂の道は、江戸時代に奈良奉行によってかなりの部分が「石畳」が敷かれた道に整備されている。

現在もその石畳がそのまま残されているために、歴史的な風情をしみじみと味わいつつ、あふれんばかりの「自然」を体感できる場所として、奈良市内では最も人気のあるハイキングコースとなっています。

お先に、と言って若い女性の3人組が追い抜いていく。

能登川は今朝までの雨で水量豊か。

寝仏は、胸の前で、左手は拳(こぶし)を握り、人さし指だけ立て、その人さし指を右手で握る智拳印を結び、下側に宇宙を構成する「空・風・火・水・地」の五元素を意味する「キャ・カ・ラ・バ・ア」が刻まれています。

と、ネットには書いてあるのだがよく見えない。

山肌の巨岩には三体地蔵が彫られているが午前中にここを訪れたのでまるで逆光、鮮明に見えない。

その上方に鎌倉時代の作といわれ、夕日を受ける方向に向かって彫られていることがその名の由来という夕日観音が見える。

もう少し登って見たかったのですが、石畳に足を取られ転倒、通行中の団体さんに助けてもらう。

そろそろ潮時かなと、昼食をとり下山する。

円成寺までの旅程。
ハイキングコース<約9.5km>

経過地 区間距離
破石町バス停
寝仏 2000m
夕日観音 300m
朝日観音 200m
首切り地蔵 700m
春日山石窟仏 500m
地獄谷石窟仏 300m
峠の茶屋 500m
八坂神社 3000m
円成寺 2000m

前回の訪問記を載せておく。
石畳の旧柳生街道「滝坂ノ道」を歩く
奈良から春日山を越えて、忍辱山(にんにくせん)円成寺を通り西から柳生へ至る、通常 … 続きを読む →

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梅雨期の龍安寺 緑がきれいです


京福電鉄 龍安寺駅から徒歩で訪問、石畳がとてもきれいです。

最近は石畳に熱を上げています。
微妙にカーブしたところなど心憎いばかリ。

本来は帰路に使う鏡容池から逆回りに辿る。

緑が映り込みとてもきれいです。

池には一面にハスの花が咲いています、そして古い小屋にはもやい舟も見えます。

5月から6月の限られた期間中に、鏡容池で見頃を迎えるのが睡蓮の花。

池一面に咲き誇り、雨が降る中でも思わず足を止めてカメラのシャッターを切りたくなるほどの美しさです。

参道は緑の森。

綺麗な石畳の階段から参拝します。

インバウンドに修学旅行生、境内は大混雑です。

寺務所の白い壁面に緑が映える。


隣は勅使門、エリザベス女王訪問時にはこちらの勅使門から入場されました。

イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。

女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。

方丈の座席は多くの人で埋め尽くされています。

方丈広間の襖絵。

石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。

しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。

龍安寺は宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。

平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。

後に宰相となった「張商英(ちょうしょうえい)」の参禅を指導した「従悦禅師(じゅうえつぜんじ)」が、中国北宋の龍安山兜率寺(とそつじ)の禅師だったことが龍安寺という名前の由来。

参禅とは、禅堂を学ぶことや坐禅を組むことを指します。

茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。

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空堀散策


路地歩きが好きなのだ、路地を見つけては散策するのを楽しみにしている。

路地から何やら趣のある建物が見えている。

この辺りは再開発されたのかな、おいしそうな食べ物屋さんが並ぶ。
突き当りを右に回ってみる。

そこは坂になっていて自転車が勢いよく落ちてくる。

車の行き来も多い。

空堀商店街

松屋町筋~谷町筋~上町筋まで東西約800mつづく商店街。
周辺の長屋や路地の散策も楽しい。

空堀の超有名カレー店「旧ヤム邸」
ここのカレーは何と、小麦粉を一切使用していない薬膳カレーです。

しかも、メニューは毎日変わるので、何回行っても違う味が楽しめます。

周辺には昭和時代初期の長屋などの建物や路地が残り、緩い坂道を行きつ戻りつの街散策も楽しい。

かつて、大坂城の三の丸の外堀である南惣構堀があった場所に現在の「空堀」が位置しています。

この南惣構堀は強力な堀で、大坂冬の陣で徳川軍が突破できなかったことで知られています。

空堀は、石畳の路地があって長屋が建ち並んでいる、昔ながらの街並みです。

道路幅員は約2.5~2.7m。
祇園や神楽坂はお茶屋や料亭が並ぶまちですが、空堀は人々が暮らす長屋が並ぶまちです。

大阪は平坦なまちですが、唯一上町台地が横たわっています。

空堀は、その上町台地の端に位置します。

だから、大阪市内では珍しくアップダウンがあるまちです。
石畳の階段や坂も空堀の特徴です。

空堀界隈
大阪市内でレトロな街並みが残るエリアと言えば「中崎町」が有名。 しかし、実はもう … 続きを読む →

以前にも行っているのだまた新しい視点で眺められる。

住まいの大阪六景 空堀通
大阪住まいの今昔館8F、ここにはもうひとつ「住まい劇場 ある家族の住み替え物語」 … 続きを読む →

大阪住まいの今昔館8Fなはミニチュアの空堀が展示されていて興味深く見学できる。


一歩商店街から外に足を向けると、レトロな町屋がずらっと並んでいて、大正時代にタイムスリップしたような感覚に陥ります。。

商店街の外側には、地元のデザイナーや建築家がプロデュースした、町屋を生かしたおしゃれなお店がたくさん

路地から商店街を見たところ。ちょうど空堀通りが一番高くなっています。


内側から通りを見ると…なかなか趣があります。
後で調べると「路地」と呼ぶのは、正式にはこのトンネル型の通路で、幅は6尺(約1.8m)、出口は二か所と決められていたそうです。


ただしこの「路地」も1909年の建築取締規制の改正以降は禁じられたようで、つまりこの潜り抜けタイプの路地があるということは、明治以前から建物(長屋)があったというしるしなのです。

東西に100mほど続く石垣なのですがこの石垣は豊臣時代の空堀の名残だと聞いたことがあります。

こうして古い商店や民家などが残った空堀商店街が、結果としてレトロスポットとして人気を集めることになったのは面白いですね♪


海老江の下町情緒を残す石畳路地と光と影
また阪神本線の高架下には、機械工具や金属材料、配管、建築金物などの企業四十数社が … 続きを読む →

坂越浦 レトロ散歩
播州赤穂から一駅、「坂越」 日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前 … 続きを読む →

八坂界隈
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佐野町場 迷宮都市
江戸時代は、特に廻船業や漁業の発展が著しく、中でも豪商「食野(めしの)家」「唐金 … 続きを読む →

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伝統文化から韓流情報まで 料理に踊りに音楽などのカルチャースクールもあり韓国の文 … 続きを読む →

レトロな杖立温泉 背戸屋巡り
その歴史の始まりは、1800年以上も遡るとも伝わる。 昭和初期には“九州の奥座敷 … 続きを読む →

古い街並みが残る「今井町」散策
近世以前の町並みがこれだけまとまって残っている場所は日本では他に無いといわれ、重 … 続きを読む →

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海老江の下町情緒を残す石畳路地と光と影


また阪神本線の高架下には、機械工具や金属材料、配管、建築金物などの企業四十数社が並ぶ「野田阪神機械工具街」があります。

空襲を免れた古い住宅街で、レトロムードたっぷりの商店街が賑わいをみせています。

周辺の商店街も賑わいをみせています。

そして光と影が絶妙なコントラストを見せる。

松下幸之助が「松下電気器具製作所」を創業したのは、大阪府大阪市大開と呼ばれる一角にある。

当初の従業員が5名ほどだったのが従業員50名を超える規模の会社にまで成長したのだそうだ。
なお、松下幸之助はこの地に思い入れが強く、死ぬまで本籍地をこの地から移さなかったとのこと。感慨深い話だ。

今回はこの海老江にある石畳保存地区を訪ねてみる。

工場とオフィスビル、商店や住宅の雑然と混在する中に古い町並と呼べる風景があちこちに残っているのもこの地区の特徴だ。

ただ気になるのは石畳が壊れ荒れ地と化している区画があること。

石畳のT字路もある。

ここは第二次大戦時に戦災を逃れた地域と一致している。

特に海老江7丁目では石畳の敷かれた路地が巡り、近くに幹線国道が走るところとは到底思えない風景が展開している。

生活路として防火バケツや自転車その他が置かれている路地風景は絵になる。

この石畳路地は独自の自治組織により、車の通行禁止など保存活動が行われているようだ。

路地から射す光が・・・
手前のカートは今回試しに使ってみた、慣れないので使いこご値はイマイチだったが肩にかかる重量は軽減される。

手作りっぽい木の蓋が新調されていましたが、この下はどうなってるんだろう。
上下水管はこの石畳の下を通ってるのかな。

路地に落ちる影が面白い。

少し下がってみる。

石畳が整然と残っている有様は素晴らしい。

そして路地に落ちる影・・・

この先はもう幹線道路だ。

電柱が影を落とす風景など絵になる。

レトロなアパートもある。

銅板長屋も大阪の特徴。

海老江八丁目から七丁目を経て大開へ至る通りがメインストリート。

そこに大阪名物の銅板長屋が見事に並んでいる。

見事な板塀の建物を見つけた。

板塀に光りと影、絵になる風景だ

街歩きでは光と影を求めて歩くことが多い。

ここも光と影が面白い造形を見せる、そして整然と並んだプラスチック容器、絵になります。

しかし、素晴らしい石畳の一家にぽかりと空いた空間は気になる。

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「滝見小路」に昭和レトロを見る


新梅田シティにある、昭和のノスタルジックな香り漂うレトロ食堂街「滝見小路」。

ノスタルジックを表現すべくレタッチはそれなりに努力したが難しい。

「滝見小路」と名前がつくこの食堂街は、和食を中心に、お好み焼き、串カツやかつ丼など、およそ20軒の飲食店が並ぶ。

昔はどの店にもハイトリ紙がぶら下がっていたものだ。

大阪の街が明るく、活気にあふれていた、昭和初期の街並みが再現されています。

石畳の路地に、暖簾や格子戸があって、お稲荷さんなどを眺めながら歩いていると、当時にタイムスリップしたような感覚に浸ることができます。

戦後日本が急速に発展した高度成長期。

毎日が目新しくなっている激動の「昭和」。

人情の街・大阪は万博に沸きました。

決して裕福ではなかったけど、みなパワーに満ち溢れた時代があざやかによみがえる。

そんな時代を彩った、昭和の街並みを再現したのが「滝見小路」。

新しいのに懐かしい、心の片隅にあるあなたの原風景に迷い込んでください

ニッパーの最初の飼い主は、イギリスの風景画家マーク・ヘンリー・バロウドであった。

1884年、イギリスのブリストルに生まれる。
いつも客の脚を噛もうとすることから、“Nipper”(nip=噛む、はさむ:同名の工具の語源)と名づけられる。

1887年にマークが病死したため、弟の画家フランシス・バロウド(英語版)がニッパーを引き取った。

彼は亡き飼い主・マークの声が聴こえる蓄音機を不思議そうに覗き込むニッパーの姿を描いた。

懐かしい広告が並ぶ。

路地には若い人たちが溢れている、彼らは何を感じているだろうか。

『社長シリーズ』第24作。東洋一の紳士服メーカー「栗原サンライズ」を舞台に、東京~名古屋、そして三重県を舞台を移しながら繰り広げる。

秘書役は、当時の東宝の新人の1人・原恵子が演じる。

昭和時代から「レトロブーム」というのは何度かあり、2010年代現在、「昭和レトロ」と呼ばれるのは、特に昭和30年代~40年代にかけての時代の雰囲気を想定しているようです。

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超広角で道頓堀を撮る


今日もお供はシグマ 8-16mm F4.5-5.6。

OCATムービングウォーク、写真をやる人なら知らない人はいないくらい有名。

OCATの外部階段。

奥にはライフがあり、その奥にはJR難波駅がある>

知る人ぞ知る、JR難波駅前のポンテ広場。

ここはストリートダンスのメッカ、 いつ行っても若者が集まっています。

ここも、写真をやる人なら知らない人はいない、配置換えをしたようです。

道頓堀ホテル、世界の4大民族の顔をモデルにしているそうです

大阪道頓堀のパワースポット「出世地蔵尊」。

インバウンド復活で賑わっています。

松竹座、テラコッタを使用したネオルネッサンス様式の正面大玄関の特徴あるアーチを持つ劇場建築は1923年(大正12年)に竣工する。

ミナミで最もにぎやかな場所。

ネオンが灯る頃、最もきれいになる。

1972年(昭和47年)には、この街の名を取り入れた歌謡曲「宗右衛門町ブルース」(歌:平和勝次とダークホース)が発売され、200万枚の大ヒットを記録した。

それ以前にも1967年発売の「大阪ブルース」(歌:奈美悦子)や1970年(昭和45年)発売の「大阪流し」(歌:フランク永井)などの歌詞に宗右衛門町が登場しているが、曲名に用いられた例は珍しかった。

宗右衛門町の幽霊ビル、半分は駐車場になったがあと半分残る。

なんばに向かう途中で、織田作之助・女三部作で名の知れた「太左衛門橋」。

橋の東南角で歌舞伎小屋を開いた興行師・大坂太左衛門に因んで「太左衛門橋」と名付けられた橋で、架橋年数は不明なれど橋の架かる道頓堀川の北が遊郭、南が芝居小屋と有ってそれを結ぶ橋と有っては恐らく興行師の太左衛門たちが掛けた橋なんでしょうね。

インバウンドの集中する場所、この東側の堺筋がバスの待機場所になっている。

大正から終戦まで楽器屋さんを営んでいたそうです。
それが戦後に「食べもの」を扱う商いがしたいと考えて始めたのがそもそもの始まりだそうです。
お店の目印となっている「宵待ち柳」は、恋人同士の待ち合わせスポットとして先々代が命名し、今では4代目!

「今井」の歴史は古い。200年前の江戸時代から、「稲竹」という名で芝居茶屋を営んできたが、大正期に楽器店に転業。第二次大戦時に店は全焼し、昭和21年にまた転業した。これが現在に続く「道頓堀今井」で、今井社長はうどん店としての三代目にあたる。

今井の脇の狭い路地を入ればかの有名な道頓堀の隠れスポット 浮世小路。

うどんの「今井」の前身「今井楽器店」があり、昭和初期・大大阪時代のモガ、モボが粋を気取ったカフェの店内風景も見え、吉本興業の昔の劇場「花月亭」の前を通ると出囃子が聞こえます。

「一寸法師大明神」のおみくじはよく当たると大人気、広い境内に本堂や不動さんがある昔々の法善寺・・・・・・、大正ロマンがあふれ、懐かしい昭和の匂いがにじむ「観光路地」、道頓堀に来られたらぜひ立ち寄ってください。

法善寺横丁の看板、西側:藤山寛美東側:桂春団治の筆。

月の法善寺横丁の石碑の向かい、正弁丹吾亭の入り口の隣には織田作之助の文学碑が残っています。

時代は流れ、「法善寺横丁」という名を全国に知らしめたのは、大正時代を生きた文豪たちがきっかけだそうです。

織田作之助の代表作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」や長谷川幸延(こうえん)の代表作「法善寺横町(当時は横町と呼んでいた)」。

また、芝居や映画・歌謡曲などに次々と紹介され「法善寺」「法善寺横丁」の名前は広く日本中に知られることになりました。

南海電鉄の協力のもと、阪堺(はんかい)電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。

こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。

つい先日、コケが剥がされた水かけ不動。

屋台が軒を並べ、雑然としていた場所もきれいに整理されていました。

日本橋の橋の下、観光船はここでUターン。

いよいよ街に明かりが灯りました。

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八坂界隈


建仁寺から人通りの少ない道をトコトコ、八坂の塔、寺の正式名は法観寺です。

八坂神社と清水寺の中間に位置しており、「八坂の塔」という呼称で余りにも有名なので、正式名はあまり知られていないようです。

八坂通りの【奇妙な】画廊

この不思議な人間の体のパーツをモチーフにした作品の数々

危ないからどうぞ近寄らないでおくれやす。

そして写真撮る時は100円と書かれてます。

三本の和傘が象徴的な二寧坂入口。

西暦807年より坂が整備されて約1200年の歴史がある坂。

大正時代に現在のように整備され、近年、電線が地中化。
大正の香りを遺す風情ある道として、フォトスポットとしても人気のスポットです。

画家・詩人の竹久夢二がこの近くに住まいしたことでも知られています。

yahooで「竜馬葬送の道」で検索してみてください。

わがブログが2編検索にかかります。

明治維新の舞台!創業143年の老舗料亭「京大和」

故司馬遼太郎さんはこの料亭をよく使われていたそうです。

前方に大雲院祇園閣。

別名銅閣寺とも呼ばれる中々異色な建築。

1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。

屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。

祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
元からこの地にあるもので、1972年の大雲院の移転により伽藍の一部となった。

寺内は通常は非公開であるが数年おきに期間を限って公開され、公開の際は祇園閣に登ることや、墓地の石川五右衛門墓所や織田信長らの慰霊碑の参拝もできる。
書院の内部公開は行われない。

大雲院特別公開
天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん) … 続きを読む →


狭い路地に入ると、路面には石畳が敷き詰められ、両側には町屋が並び、京都らしい風情を楽しむことができます。

路に敷き詰められた石畳の一部は、廃止された京都市電の敷石を移設したそうです。

町屋の石垣がまるで石塀のように見えることから「石塀小路」と呼ばれるようになりました。

石塀小路といえば山村美紗を思い出す。

国内におけるミステリー界の女王やトリックの女王と呼ばれ、日本のアガサ・クリスティとも讃えられた。

今は故人の彼女の住まいはこの近くにある。

石塀小路の歴史は浅く、明治末期から大正初期にかけてお茶屋の貸家が軒を連ねていました。

現在は、旅館や料亭、庭園が美しい喫茶店などが立ち並び、祇園の奥座敷の位置づけにあります。

路は曲がりくねって、袋小路のように思えますが、高台寺通り(ねねの道)へと通り抜けることが出来ます。(逆方向の散策もOK) 

なお、「石塀小路」には2箇所ほど行き止まりがありますが、基本的には高台寺道と下河原通をショートカットする小路。

こういった小路のことを京都では辻子または図子(両者とも「ずし」と読む)といい、行き止まりの小路を路地(ろうじ)と呼びます。

京都ならではの呼び名を少し学んでから「石塀小路」を訪問すると、またひとつ違ったものが見えてくるかもしれません。

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京の町屋歩き


差し込む斜光が美しい。

彫刻「明澄」

この像は、昭和35年5月 七条警察署庁舎落成を記念し、明るい社会の建設を念願して建立されたもので、希望と平和を念願して、「明澄」と命名された。

従来は、左側には近鉄京都百貨店があったが、2007年2月に閉店になり、解体されました。

今はヨドバシカメラの中にある。

えらいところに大国さんが・・・・・

正式名称は真宗本廟。

東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)の東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。

この辺りは仏具関係の店が多い。


渉成園(しょうせいえん)は、京都府京都市下京区にある真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。

名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。

また、周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。

「源氏物語ゆかりの地・枳殻邸(渉成園)」
渉成園は東本願寺の飛地境内地(別邸)です。 1602(慶長7)年教如上人が徳川家 … 続きを読む →


高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河。

開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。

名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。

薫風に吹かれ木屋町を高瀬川に沿って歩く
木屋町は京都の歴史や風情を感じる街た。 多くの歴史遺産を残しながら現代が息づくそ … 続きを読む →


源融 河原院跡

源融は、塩焼きが好きだったようで、陸奥の塩竃の風景を模した池を邸宅内に造り、毎月、難波の海から海水を運ばせて塩焼きを楽しんだと言われています。

河原町の由来は、源融の河原院からと伝えられています。

幽霊屋敷 河原院跡
源氏物語「夕顔の巻」は圧巻である。 源氏は五条辺りに住む夕顔と恋におち、「某の院 … 続きを読む →


大田垣蓮月の歌碑

風化が激しく読み取れない部分は想像で・・・・

あすも来て見んと思へば家づとに手折るもをしき山さくら花

京都生まれの江戸時代後期の女流歌人です。

夫と子供の死をきっかけに、出家しました。
そして、「蓮月」と名乗ります。

悲運の歌人 屋越の蓮月こと 大田垣蓮月
時代祭の江戸女人行列で有名な大田垣蓮月だが、その悲劇的な人生は意外と知られていな … 続きを読む →


遠くの山には雪が残る。

みなとや幽霊子育飴本舗

女の幽霊が飴を買いに来たという伝説が残されている。

みなとや幽霊子育飴本舗、西福寺の逸話が紹介されている。
六道珍皇寺 冥途通いの井戸
京都における平家の最初の拠点。 清盛の祖父が寺領を借り受け、邸宅を建てたといわれ … 続きを読む →


鳥辺野の入り口、六堂の辻に建つ西福寺。

嵯峨天皇の皇后がしばしばご参詣され、皇子の正良親王病気の際、この地蔵尊に祈願したところ、無事平癒し、後に仁明天皇(在位833-850)として即位された。

以来、地蔵尊は「子育て地蔵」と呼ばれ、世の多くの人々に信仰されるようになった。

六波羅蜜寺

創建年は定かではないが、平安時代の歴史書である『扶桑略記』によれば、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した[1]という。

十一面観音立像

当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。

本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。

疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。

空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。

空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。

宮川筋二丁目から六丁目までが花街。

出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。

その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。

明治、大正、昭和33年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。

京都で「ろーじ」と呼ばれる「路地」は、行き止まりの細い道のこと。

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洛東散策


頂法寺は、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にある天台宗系単立の寺院。

山号は紫雲山。本尊の如意輪観世音菩薩(如意輪観音)は秘仏。
西国三十三所第18番札所。

「恋の寺」六角堂と京のヘソ石
頂法寺は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。 本 … 続きを読む →

早咲き六角堂の御幸桜
頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。 西 … 続きを読む →


寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから一般には六角堂の通称で知られている。
華道、池坊の発祥の地としても知られている。

中京郵便局旧庁舎

1871年(明治4年)の郵便制度発足時に、東京、大阪と共に設けられた郵便役所を前身としており、日本で最も歴史のある郵便局の一つ。

1902年(明治35年)に建設されたネオルネサンス様式、赤レンガ造りの美しい外観が特徴。

当局の面している三条通のこの一帯は、京都文化博物館別館や日本生命京都三条ビルなど、明治期以来の近代建築が多く残っていることで知られ、京都市から「歴史的界隈景観地区」に指定されている。

また本局舎は京都市登録有形文化財であり「景観重要建築物」として指定もされている。

京都文化博物館

前身は平安博物館と称し財団法人古代学協会の施設として1968年(昭和43年)に作られた私立博物館であった。

平安博物館の建物は旧日本銀行京都支店(重要文化財)であったが、京都文化博物館を創設するにあたり財団法人古代学協会から京都府に寄贈された。

旧日本銀行京都支店の建物は現在は京都文化博物館の別館として使用されている。

中京の街並み

「TIME’S」、二階(地上階)にはTシャツ屋「Design Tshirts Store graniph(グラニフ)」が入っていましたが、そこが撤退してテナントゼロになったようです。

2020年夏時点でこのTシャツ屋だけという状態だったようなのですが、いつの間にかそのお店も撤退してゴーストタウン化しています。

安藤忠雄の世界 TIME’S
建物は京阪・地下鉄三条駅より三条大橋を渡り、少し歩いた先にかかる三条小橋西詰に建 … 続きを読む →


瑞泉寺

文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。

7月15日(8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。

山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。

秀吉は伏見で首実検し、8月2日(9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。

遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。

この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。

豊臣秀次菩提寺 瑞泉寺
悲劇の人豊臣秀次の墓所「瑞泉寺」は鴨川の西、三条小橋東詰南、高瀬川沿いに建つ。 … 続きを読む →


竜馬通り界隈。

先斗町歌舞練場

あちこちの店先に鴨川ちどりが描かれた提灯が掲げられ、情緒豊かな雰囲気を醸し出している。

京都には現在「五花街」と呼ばれ、賑わっている祇園甲部、上七軒、先斗町、祇園東、宮川町の五つの花街がある。

これらの花街にはそれぞれ紋章がある。
先斗町の紋章は「鴨川ちどり」。

明治5年(1872年)に鴨川をどりが初めて開催されたときに創案されたものである。

かつては鴨川に数多くいたという鳥類も今ではあまり見かけなくなったが、先斗町通を歩いていると、千鳥の画が描かれた提灯があちらこちらの店先に掲げてあり、街の雰囲気を和やかに盛り上げている。

新春花街舞初め特別講演2013
先斗町歌舞練場で行われた新春花街舞初め特別講演2013の様子を報告します。 先ず … 続きを読む →


先斗町(ぽんとちょう)は京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街及び歓楽街。

「町」と付くが地名としての先斗町はない。

先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている

また、鴨川寄りに面したお茶屋・料亭・レストラン・バー等は納涼床を設ける店舗も多数存在している。

黄昏時 先斗町
先斗町では住民が5年ほど前から景観に合わない大型看板、ネオンなど広告物を自主的に … 続きを読む →


東華菜館

四条大橋と鴨川の風景になじむ「スパニッシュ・バロックの洋館」で伝統的な北京料理を提供。

現存する日本で一番古いエレベーターを体験出来、異国情緒がある落ち着いた空間でゆっくり食事を楽しめます。

鴨川、納涼床、川床(ゆか)ともいう。

二条大橋から五条大橋にかけての鴨川西岸の料理店では、5月から9月にかけて河原に張り出した木組みの床が設けられる。

北エリア(二条通から先斗町公園の上木屋町、先斗町北)と南エリア(先斗町公園から五条通の先斗町南、西石垣、下木屋町)に位置し、観光客を魅了している。

切り通し(きりとおし)は京都市東山区内の南北の通りの一つ。

北は新橋通から南は四条通までの僅か約180mの通りのように見えるが、実際には北は古門前通まで続く。

東の花見小路通、西の縄手通と共に、祇園の中心となる通り。

新橋通、白川南通から末吉町通の間は狭い路地のような通りであるが、新橋通などと同様、石畳が敷かれており、飲食店も点在し風情ある景観を見ることが出来る。

昔は舞子の追っかけのようなことをしたこともあるなあ・・・・・
祇園の八朔2012
今年も八朔へ出かけた。 今までと違ったシーンを撮りたいなと思いつつ足はついついい … 続きを読む →

祇園放生会 [祇園白川・巽橋] 
祇園放生会は、遥か中国陳代(557~589)、今より約1400年以前の天台宗の高 … 続きを読む →


木屋町から白川通りへ夜桜の路を彷徨
吉井勇が「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」と詠ったのもこの辺りにあった料亭でのこと。 … 続きを読む →

この白川沿いの石畳の道は昭和20年頃まではなく、お茶屋が立ち並んでいたそうです。

祇園白川に「大友」あり「大友」に「お多佳さん」ありというぐらい有名なお茶屋がその中にありました。

「大友」には、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れたそうです。

「大友」のあった場所には「かにかくに」の歌碑がある。

谷崎潤一郎ら数名が吉井の古希の祝いに建立したそうです。

毎年十一月八日には「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。

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昭和レトロ


地下1階に広がるのは、昔懐かしいレトロな街並みを再現したレストラン街「滝見小路」。

梅田スカイビルのスタイリッシュさ・ダイナミックさからは想像つかない空間です。

ビクターのロゴマークになったニッパー君にも注目したいところ。

ニッパー君は1884年にイギリスで生まれたフォックス・テリア系の雑種。

やんちゃでよく人の足を噛もうとするのでニッパー(挟む)と言う名前がつけられました。

ダイハツ『ミゼットMP5型』も展示されています。

石畳の路地に暖簾や格子戸、お稲荷さんを眺めながら歩くと、当時にタイムスリップしたような感覚に浸れる。

大阪グルメを代表する串かつやお好み焼きに加え、洋食屋居酒屋など様々なお店が22件も軒を連ねる人気の飲食街。

法善寺に本店を構えるカツ丼専門店「喝鈍」。

超有名店の味を、昭和レトロな独特の街並みの情緒漂う空間の中で食すことができます。

瀧見小路で昭和レトロを満喫した後はそのまま外に出て「中自然の森」を散策。

人工ですが瀧もあり、逆流する様子を見ることができます。

都心とは思えないほど自然に囲まれており、リフレッシュにはもってこい!

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