鉄砲伝来と根来寺


根来寺は1130年に開祖の覚鑁(かくばん)が高野山に造営した小伝法院という一堂がはじまりとされ、1140年に現在の地へ移り、戦国時代には寺領72万石の大寺院となっています。

根来衆は豊臣秀吉と激しく敵対したことは有名だが、大塔と大師堂は秀吉による焼き討ちを免れたことが知られている。

大塔(大毘廬遮那法界体性塔、国宝) – 本尊・胎蔵大日如来。
高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。

基部には羽柴秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。

1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。

また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。

それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

新義真言宗の総本山。
長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。

鎌倉時代に現在の場所へ移転したといわれる。

南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大教団となった。

現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。

天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。

「根来衆」と「雑賀衆」の兵力規模

鉄砲で武装した根来寺の僧兵集団は「根来衆」と呼ばれ、兵力は1万人にも達していたといいます。

さらに当時の和歌山には、「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲を主力とする一団もいました。
もともとは雑賀庄内(さいかしょうない)(現・和歌山市)の土着集団で、鉄砲を8000丁も保有する傭兵団でもあったといいます。

また、熊野水軍の流れもくんでいたため、海運と交易が盛んだったばかりか、有事には水軍としても活動しました。

この根来寺と雑賀衆の関係は良好で、雑賀側の住民が根来寺に塔頭を建てることもありました。
また使用した鉄砲も、根来衆が伝えたとする説があります。

根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。

聖天堂(重要文化財)

聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。

鐘楼門

根来寺の僧兵、津田監物(つだけんもつ)が種子島から鉄砲と火薬の技術を持ち帰り、門前町の鍛冶屋につくらせました。
このとき製造されたのが、国産最初の1丁であるといいます。

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。

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長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 – 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 – 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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長浜 米川に沿って


今日は倶楽部の撮影会で長浜に行く。

近江と美濃の国境に聳える伊吹山、彦根城からは遙か彼方という距離感でしたが、長浜辺りからは間近に望むことができます。

北國に来たという実感。

琵琶湖の北東岸を北上し、余呉湖の北の柳ヶ瀬、県境の栃ノ木峠をへて越前・加賀に通じる北国街道は多くの商人、旅人、武将らが頻繁に利用、長浜はその宿駅として、また湖上交通の要として栄えた町です。

港町の風情を残す舟板塀や紅殻格子(べんがらごうし)、虫籠(むしこ)窓の家々や白い土蔵を持つ老舗の商家、道中安全を願った常夜燈などが建ち並び、昔の面影を色濃くとどめています。

作品作りを頭に描きながら散策。

街を歩いていて気になる存在が長浜まちなか地域を流れる米川(地元では「よねがわ」と呼ぶ)は、姉川水系とともに1級河川であり滋賀県の管理対象です。

米川も高度成長期にはご多分にもれず汚染を受けたが、地元NPOの尽力により清澄な流れを取り戻している。

長浜地区地域づくり連合会は、米川の”川そうじ”を流域自治会が総出して、毎年そうじを行う地域に密着している川で、滋賀県立大学環境科学部の学生が全国的に見ても、住居地域を流れる川として大変きれいな川で、地元の方がもっと自慢されてよい川であると評価。

川相は上流部は農地を流れる用水路状、中流は市街地を流れる都市河川、下流においては舟運にも利用された掘割と、変化を見せる。

川辺の石積みを見ると、あちこちに “かわど” と呼ばれる石段がある。

家庭では野菜や漬け物の洗い場として、商家では運搬や往来の手段として、ずっと昔から、この米川は長浜の町衆の暮らしと深く結びついてきた。

湧水を水源とする大変きれいな川で、夏はアユが遡上し、冬はカモなど渡り鳥が憩う川です。

流域の元浜町には往時を偲ばせる風景がよく残され、近年では観光スポットとなっている。

一級河川の起点は長浜市川崎町の羽織町。

源頭は長浜市北東部の東上坂町(ひがしこうざかちょう)の姉川扇状地。

南西流し、長浜市中心部を流れ、長浜城の南・港町と朝日町の境で琵琶湖北岸に注ぐ。

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慶沢園~住友家本邸庭園跡


福岡藩(黒田家)蔵屋敷の表門

当時 大阪には124の大名蔵屋敷があったが 現存するのは この門だけ。
黒田家の蔵屋敷は現在の中之島三井ビル付近にあった。

昭和8年同ビル建設に際し 三井から大阪市に寄贈された。
現在は天王寺公園内 大阪市立美術館南側に保存されている。

長屋門には別称で「後藤又兵衛あかずの門」や「後藤又兵衛不閉門」という呼び名もあるそうですが、由来について記された資料ははっきりとしていません。

ただ、大坂の陣で豊臣方についていた、真田幸村らと共に戦って討死した、黒田藩の武将が又兵衛が帰ってくるのを門を閉めずに待っていたという話が伝わっていると言います。
そんな「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」を潜り抜けた後、右手側に進路を取ると慶沢園があります。

慶沢園 南門(出入口)

大阪市美術館の南側にひっそりと佇んでいます。

美しい庭園の出入口にしては小さく簡易的な門で、慶沢園を知らない人が見たら大きな庭園の正門だとは想像できないかもしれません。
慶沢園の額が掲げられていて、銅板葺の切妻屋根の中央部分のみに瓦が乗った、ユニークな屋根が特徴です。

入園する前に頂いたパンフレットを見ながら、庭園の見どころとなる部分を順に歩き進めて行くのですが、ひとつ目は池の前に曲線を描いて州が出入りしている「州浜(すはま)」があり「船着石(ふなつきいし)」が見どころとなります。

「州浜」より左回りで「石切橋」歩き進めて行くのですが、日本一の高層複合ビル「あべのハルカス」を正面に見ることができます。

池の対岸に雪見灯篭が微かに見え、さりげなく奥行きのある世界を示しています。

つくばい 

手前に石があって、一段下がったところに石臼が置かれています。
正客は石のところまで来ます。
それでは水に手が届きません。
そこで付き人が石臼まで降りてきてひしゃくで水を汲み、正客はそれで手を清めていた様子が見えてきます。

「慶沢園」は、茶人の木津聿斎の設計をはじめ、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家「小川治兵衛(おがわじへえ)」通称「植治」により、明治41年に造園が開始されて以来、完成が大正7年という、実に10年を費やして造られた住友財閥の茶臼山本邸の庭園となります。

四阿(あづまや)

園内の南にあり、椅子に座って美しい庭園を眺めながら休憩することができます。

窓枠が額縁の役割をすることで明るい庭園の美しさが引き立てられ、写真スポットとして人気があります。

窓ガラスには現代ではあまり見る機会が無くなってしまった波打ちガラスが使われています。

床には那智黒石(なちぐろいし)が敷かれています。

趣のある「四阿」の天井は矢羽根の網代で、廻縁は小丸太、庭園の観賞がしやすいように、左右および前面には窓ガラスがはめ込まれています。

「慶沢園」の名前の由来は「伏見宮貞愛親王」から賜ったもので、はじめは「恵沢」の名を用い「照代之恩恵、先祖の余沢」の意より出たもので「恵沢園」としていましたが、大正7年の5月に、今の「慶沢園」の字に改められています。

美術館の建て替えをはじめ、戦後の昭和33年~昭和35年頃に行われた本格的な整備により、敷地の東端部が大きく削られる改造を受けましたが、池をはじめとした中心部に関しては竣工時の状態を保っていると言います。


沢渡

大きな石を目指して人は渡り、そこで歩を休めます。
そこから見る景色がよい。
ここにもデザインとして石臼が使われています。

2本の短い石橋が互い違いになるように掛けられており、小川治兵衛の遊び心が感じられます。


程なくすると、先程よりも少し大きな「州浜」があり、前方には、住友家の旧本邸敷地に建てられている大阪市立美術館が見えているのですが、それを背景に庭園を観賞できます。

「慶沢園」は、大名庭園を基礎に造営していて、大小3つの中島を浮かべた大池を中心に、その三方に全国から名木や名石を集めて築山を築いた造りになっています。

龍頭石(りゅうずいし)と龍尾石(りゅうびいし)

天然石でできており、サツキの刈り込みを胴体に見立てて、手前の龍頭石から左奥の龍尾石にかけて龍が横たわっているように見せています。

絶景広がる「州浜」の横に「龍頭石と龍尾石」があるのですが、配置されている位置的にも遊歩道からではその全貌を見ることができません!

「州浜」には入ることが出来れば見えるのですが、立ち入る事ができず、生い茂る木々が邪魔していて見えません!

角度的には「四阿」辺りから見るのが良いかと思い、一旦戻って望遠レンズで写真を撮って見ました。


舟形石

後述の舟着石と対になる自然石です。

大海をイメージした大池に舟が漕ぎ出す前の様子が見事に表現されています。

最初にあった「船着石」と「船形石」の二対の石によって、大海となる大池を巡る船の旅を想像できるように設計されています。

そんな「船形石」ですが、これまた生い茂る木々で少し見えにくい場所に配置されていますので、お気を付け下さい!

最後の見どころは、庭園の北東の築山の麓に配置されている「滝」ですが、飛石の右手側の奥にあります。

水が落ちる滝壺に滝を登ろうとする鯉に見立てた水受石があり、このような滝の様式では、滝を登りきった鯉が龍になると言い「龍門瀑(りゅうもんばく)」と呼ばれています。

まずまずの水量がある滝ですが、そんな滝より流れ落ちる水が、大海に流れ出す様子を現しています。


庭園内には随所に飛石があり、こちらにも小川治兵衛の遊び心が感じられます。

足元に流れる水は、後述の滝から落ちた水が大池に流れ出す様子を表しています。

この日も若い人がパラパラと散策に見えています。

なお、飛石を渡らずに、滝の後ろ側を通る園路もあります。

ほぼ一周しました、振り返ると、ハルカス、四阿が見えています。

そんな見ごたえのある滝を横目に見ながら飛石を渡ると「四阿」の対岸の位置にあたる「休憩所」があります。

長生庵(ちょうせいあん)は、明治・大正時代の茶道武者小路千家(むしゃこうじせんけ)の宗匠(そうしょう)である三代木津宗詮(きづそうせん)が設計しました。

三代木津宗詮は多くの茶室の設計に携わっており、例えば四天王寺本坊庭園とその茶室や、大宮御所の茶室である秋泉亭(しゅうせんてい)などを手掛けた人物です。

八畳の広間と二畳台目(にじょうだいめ:丸畳二畳と台目畳一畳の茶室)の小間で構成されている茶室で、予約をすれば誰でも借りることができるので、茶会や句会のほか、結婚式の記念撮影などで使う方もいるそうです。

やかん、かま、風炉(ふろ)などの備品も無料で借りることができます。

1958年(昭和33年)に、住友家の分家である都島の旧藤田家から移築されたもので、こちらは出口専用となっています。

立派な瓦葺の切妻屋根を持ち、入り口である南門よりも存在感漂う門です。

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秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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秋真っ盛り 四天王寺本坊庭園


「釈迦の滝」

昨年は6月に訪問、今日はクラブの人を連れての訪問。

四天王寺の喧騒とは打って変わって静かな本坊庭園。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたもの。

小奏楽堂というからには中で何かの演奏が行われたのでしょうか。
中には入ることができない。

大池には阿弥陀三尊石が組まれている。

阿弥陀如来を中尊とした三尊石は迫力あるものである。
江戸時代以降は丸みを帯びた石が使われることが多く、こちらの庭園が江戸初期に造園されたこととも一致する。

自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m2の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。

造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。


四天王寺 極楽浄土の庭の由来

四天王寺は日本書紀によれば、推古天皇(飛鳥時代)に創設。飛鳥寺(奈良県明日香村)と並び、本格的な仏教寺院としては日本最古である。

極楽浄土の庭は江戸初期とされ、現在の庭は明治初期に火災による焼失から復興されたものである。

極楽浄土の庭は、中国の説話「二河白道(にがびゃくどう)」に基づく。

二河白道とは浄土教における極楽往生を願う信心で、「二河」とは「火の河:怒り」と「水の河:欲の深さ」を表し、その間にある「白道」を進めば、極楽浄土に達し往生できるというもの。

紅葉がきれいです、超広角レンズでいたずらして見た。

ここで望遠ズームに取り換え、これが通常の画像です。

サキシマフヨウの実

和名は先島諸島に由来し、主に鹿児島県西部の島から琉球にかけて分布するとされてきた。
2014年の研究では台湾にも分布することが報告されている。

池に浮かぶ落ち葉

陽を透かしてハイキーで。

元和9(1623)年、徳川秀忠による再建

前には、補陀落の庭が広がる

方丈前庭にある「補陀落の庭(ふだらくのにわ)」。

三尊石の阿弥陀如来の左脇侍は観音菩薩であり、その観音菩薩が住む霊場の伝説上の山が「補陀落」である。

本坊、ガラスに移り込んだ庭園の紅葉がきれいです。






冠木門は通りれぬけできない。

その向こうには、先程とはちょうど反対側から見る唐門が見える。
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久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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ハイアット リージェンシー 大阪(エタニティ・凛-rin-)


生きた建築ミュージアム最後の訪問はハイアット リージェンシー 大阪の結婚式場エタニティ・と凛-rin-。

建築家・青木淳氏が手がけた「エタニティ」、デザイナー ・野井成正 氏が手がけた「凛-rin-」デザイナー チャペルツアー。

ホテル自慢の2つのチャペルをツアー形式で訪問します。

今回唯一抽選で当たった施設、参加者は15名、最後に手土産付きだった。

一つ手前の駅から歩く。

国際展示場の開場に併せて、当時はまだ珍しかった国際ブランドのホテルが上陸。

2006年に新設されたチャペルは建築家・青木淳氏の設計で、リングを立体的に組んだ構造体が、幻想的な内部空間をつくり出している。

1994年6月24日、大阪南港の再開発事業「テクノポート大阪」の中心である咲洲コスモスクエア地区に28階建ての高層ホテル「ハイアット リージェンシー オーサカ」として開業、2009年に名称を「ハイアット リージェンシー 大阪」に変更した。

施設は大林組が建設・所有し子会社「エイチ・アール・オーサカ」が運営していたが、2014年3月に香港の不動産・ホテル運営企業ガウ・キャピタル・パートナーズ子会社のGCP Hospitality Japanへホテル事業を譲渡。

ホテル物件は2016年11月に星野リゾート・リート投資法人が取得し、ホテル運営企業のGCP Hospitality Japanも星野リゾートの傘下に入り社名を「HRO」に改めた。



広々とした、居心地のよいロビーラウンジからは屋外庭園とウォーターガーデンの素晴らしい景観が。






白い教会は、「ハイアット・リージェンシー・大阪」の結婚式場として建設された80人収容の小さなチャペルである。

直径60cm、部材の太さが25mm角の鋼材リングが、立体的に組み合わさった構造を持つ。

リングの立体配置は、任意の立体を充填する切頂性四面体を仮想の1単位とし、その4つの正六角形に内接する円の配置に相当する。

鋼材リングは、互いに溶接により結合され、全体として、大部分を空隙が占める泡状の立体格子を形成している。

立体格子は、屋根を支えるだけでなく、外装のガラスを支持するMPG構法としても利用されている。

立体格子の内側には、二重に織りこまれた白いオーガンジーのスクリーンが吊るされている。


番傘にインスパイアされた芸術的なチャペル 凛-rin-

シンプルな外観からは想像できない、木組みの天井が美しいチャペル。

バージンロードを照らす天窓からの光が、ゲストとふたりの新たな歩の道標に。

グランドピアノ、コントラバス、チェロに加え、ヴォーカルの生歌が響きわたり、天窓からの光がバージンロードを美しく照らす、おふたりのためだけに用意されたステージ。

アクセス

大阪メトロ
中央線コスモスクエア駅経由、ニュートラム南港ポートタウン線 中ふ頭駅下車、徒歩約3分。

お車で
阪神高速湾岸線、南港北出口(南行き)から約5分・南港南出口(北行き)から約10分。
大阪港咲洲トンネル道路ご利用で、大阪港の築港交差点よりホテルまで約4km。
※330台収容の駐車場完備。

無料シャトルバス
JR大阪駅とホテルを結ぶ無料シャトルバス(所要時間約25分)をご用意。

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ミズノ大阪本社


生きた建築ミュージアム訪問6社目はミズノ大阪本社。

1906年に大阪で創業した世界的な総合スポーツ用品メーカー。

特に野球が国民スポーツになるのに果たした役割は絶大だ。

1992年竣工の大阪本社は南港エリア最初の超高層ビル。
隣に新研究開発拠点も完成した。

ミズノ大阪本社は、2022年4月に30周年を迎えました。

現在の場所に移るまでは、大阪は千里・淀屋橋・鷺洲に事業所がありましたが、それらを統合すべく現在の住之江区に建設されました。

当時はまだ現在の最寄り駅であるコスモスクエア駅は存在せず、5km以上離れた弁天町駅からチャーターバスで通勤していた。

朝の時間は特に混むので、出勤時間を9時、9時半、10時の3段階に分けて調整していました。

ミズノスポートロジーギャラリー

大阪南港、ミズノ本社ビルの1・3階に設置された、スポーツ商品を展示するギャラリー。

明治時代から現在までのオリンピックの公式ポスターや、過去100年間のミズノの歩みやスポーツ・オリンピックの歴史、大正後期の野球選手のユニフォームや昭和初期の牛革グラブなど、明治39年(1906)の創業以来、日本のスポーツ界を支えてきたトップメーカーのスポーツ用品がズラリと並ぶ。

また、2012年にリニューアルオープンし、プロ野球コーナーやアスリーツ・ロードコーナーを設置。

展示だけでなく、実際にミズノ契約選手が使用している用具に触れることができる。

その他、用具やウエアに秘められたミズノの最新技術を伝えるコーナーでは最新機能がわかりやすく体感できるキットも用意している。
入場は無料。

クリスタルオブジェ「炎」

ところで、ミズノ社員は大阪本社のことを「MC」と呼びます。
何の略でしょうか?
ミズノコーポレーション(Mizuno Corporation)?ミズノカンパニー(Mizuno Company)?いいえ、答えは「ミズノクリスタ」です。

実は、ミズノ大阪本社は「ミズノクリスタ」という名前がつけられているのです。

外観がクリスタルであり、規則正しい原子配列を持つ結晶のような構造のビルであることから、クリスタルとミズノを結び付けて命名されたそうです。

本社1階には、スポーツ文化新世紀への熱い心を込めて制作されたクリスタルオブジェ「炎」が展示されています。

アクセス
南港ポートタウン線「中ふ頭駅」より徒歩5分
営業時間10:00~18:00

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ブリーゼブリーゼ


サンケイビルの跡地に建つ超高層ビルは、国際コンペの名だたる建築家の中から、若手ドイツ人建築家がデザインアーキテクトに選ばれ話題に。

東京五輪のロゴをデザインした野老朝雄氏が関わるなど見どころも多い。
イケフェス大阪の評。

2008年(平成20年)10月3日にグランドオープンした地下1階から地上6階および33階の計8フロアから構成される商業施設。
総店舗面積は約10,000m2。

ブリーゼブリーゼのシンボルマークは、BREEZÉの「B」をモチーフに「風のなかで軽やかに踊る人」を表現している。

デザインは、「自分らしく生きる女性」のイメージとエンターテインメントを象徴している。

又1階の吹き抜け部分には施設のコンセプト「『驚き』こそ最高のおもてなし」を体現し、コンピューター制御で手を上げるなどの動作ができるキャラクター「ブリCH」(全長12メートル)が設置されている。

由来

建物名称「BREEZÉ」は、ダブルスキンファサードを採用し、外部の風速に影響されず室内に流れ込む風量を一定に制御する風量調節弁と各階の空調機と連動する換気扉によって、「そよ風=breeze」を感じる自然換気が行われることに由来する。

6階の壁画アートは、作家自身が大阪の街を歩き、道行く人に聞いて感じた「大阪の今」と「それを取り巻く世界」をドローイングしたもの。

ダイナミックかつ綿密な、まさに圧巻のアートワークです。

1~6階を貫く開放感溢れる吹き抜けには、光と色彩のアートが壁一面に施されています。

色とりどりの葉がそよぎ、舞を躍っているかのような、広大に広がる色鮮やかな森の空間のイメージです。

アクセス

西梅田駅から徒歩3分(180m)
北新地駅から徒歩3分(230m)
大阪梅田(阪神)駅から徒歩6分(400m)
バス停

ハービス大阪バス停から徒歩2分(140m)

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