中世地中海の港街 ポルトヨーロッパ


イタリアの路地裏に迷い込んだかのような小広場です。

400年の歴史をもつ地中海沿岸の漁村「イタリアのFINO(フィーノ)」がモチーフ


イタリアの路地裏に迷い込んだイメージ。





階段エリアの「ヴィエッタ カプリ」はイタリアの路地をイメージ

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梅雨期の龍安寺 緑がきれいです


京福電鉄 龍安寺駅から徒歩で訪問、石畳がとてもきれいです。

最近は石畳に熱を上げています。
微妙にカーブしたところなど心憎いばかリ。

本来は帰路に使う鏡容池から逆回りに辿る。

緑が映り込みとてもきれいです。

池には一面にハスの花が咲いています、そして古い小屋にはもやい舟も見えます。

5月から6月の限られた期間中に、鏡容池で見頃を迎えるのが睡蓮の花。

池一面に咲き誇り、雨が降る中でも思わず足を止めてカメラのシャッターを切りたくなるほどの美しさです。

参道は緑の森。

綺麗な石畳の階段から参拝します。

インバウンドに修学旅行生、境内は大混雑です。

寺務所の白い壁面に緑が映える。


隣は勅使門、エリザベス女王訪問時にはこちらの勅使門から入場されました。

イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。

女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。

方丈の座席は多くの人で埋め尽くされています。

方丈広間の襖絵。

石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。

しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。

龍安寺は宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。

平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。

後に宰相となった「張商英(ちょうしょうえい)」の参禅を指導した「従悦禅師(じゅうえつぜんじ)」が、中国北宋の龍安山兜率寺(とそつじ)の禅師だったことが龍安寺という名前の由来。

参禅とは、禅堂を学ぶことや坐禅を組むことを指します。

茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。

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鉄砲伝来と根来寺


根来寺は1130年に開祖の覚鑁(かくばん)が高野山に造営した小伝法院という一堂がはじまりとされ、1140年に現在の地へ移り、戦国時代には寺領72万石の大寺院となっています。

根来衆は豊臣秀吉と激しく敵対したことは有名だが、大塔と大師堂は秀吉による焼き討ちを免れたことが知られている。

大塔(大毘廬遮那法界体性塔、国宝) – 本尊・胎蔵大日如来。
高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。

基部には羽柴秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。

1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。

また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。

それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

新義真言宗の総本山。
長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。

鎌倉時代に現在の場所へ移転したといわれる。

南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大教団となった。

現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。

天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。

「根来衆」と「雑賀衆」の兵力規模

鉄砲で武装した根来寺の僧兵集団は「根来衆」と呼ばれ、兵力は1万人にも達していたといいます。

さらに当時の和歌山には、「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲を主力とする一団もいました。
もともとは雑賀庄内(さいかしょうない)(現・和歌山市)の土着集団で、鉄砲を8000丁も保有する傭兵団でもあったといいます。

また、熊野水軍の流れもくんでいたため、海運と交易が盛んだったばかりか、有事には水軍としても活動しました。

この根来寺と雑賀衆の関係は良好で、雑賀側の住民が根来寺に塔頭を建てることもありました。
また使用した鉄砲も、根来衆が伝えたとする説があります。

根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。

聖天堂(重要文化財)

聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。

鐘楼門

根来寺の僧兵、津田監物(つだけんもつ)が種子島から鉄砲と火薬の技術を持ち帰り、門前町の鍛冶屋につくらせました。
このとき製造されたのが、国産最初の1丁であるといいます。

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。

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空堀散策


路地歩きが好きなのだ、路地を見つけては散策するのを楽しみにしている。

路地から何やら趣のある建物が見えている。

この辺りは再開発されたのかな、おいしそうな食べ物屋さんが並ぶ。
突き当りを右に回ってみる。

そこは坂になっていて自転車が勢いよく落ちてくる。

車の行き来も多い。

空堀商店街

松屋町筋~谷町筋~上町筋まで東西約800mつづく商店街。
周辺の長屋や路地の散策も楽しい。

空堀の超有名カレー店「旧ヤム邸」
ここのカレーは何と、小麦粉を一切使用していない薬膳カレーです。

しかも、メニューは毎日変わるので、何回行っても違う味が楽しめます。

周辺には昭和時代初期の長屋などの建物や路地が残り、緩い坂道を行きつ戻りつの街散策も楽しい。

かつて、大坂城の三の丸の外堀である南惣構堀があった場所に現在の「空堀」が位置しています。

この南惣構堀は強力な堀で、大坂冬の陣で徳川軍が突破できなかったことで知られています。

空堀は、石畳の路地があって長屋が建ち並んでいる、昔ながらの街並みです。

道路幅員は約2.5~2.7m。
祇園や神楽坂はお茶屋や料亭が並ぶまちですが、空堀は人々が暮らす長屋が並ぶまちです。

大阪は平坦なまちですが、唯一上町台地が横たわっています。

空堀は、その上町台地の端に位置します。

だから、大阪市内では珍しくアップダウンがあるまちです。
石畳の階段や坂も空堀の特徴です。

空堀界隈
大阪市内でレトロな街並みが残るエリアと言えば「中崎町」が有名。 しかし、実はもう … 続きを読む →

以前にも行っているのだまた新しい視点で眺められる。

住まいの大阪六景 空堀通
大阪住まいの今昔館8F、ここにはもうひとつ「住まい劇場 ある家族の住み替え物語」 … 続きを読む →

大阪住まいの今昔館8Fなはミニチュアの空堀が展示されていて興味深く見学できる。


一歩商店街から外に足を向けると、レトロな町屋がずらっと並んでいて、大正時代にタイムスリップしたような感覚に陥ります。。

商店街の外側には、地元のデザイナーや建築家がプロデュースした、町屋を生かしたおしゃれなお店がたくさん

路地から商店街を見たところ。ちょうど空堀通りが一番高くなっています。


内側から通りを見ると…なかなか趣があります。
後で調べると「路地」と呼ぶのは、正式にはこのトンネル型の通路で、幅は6尺(約1.8m)、出口は二か所と決められていたそうです。


ただしこの「路地」も1909年の建築取締規制の改正以降は禁じられたようで、つまりこの潜り抜けタイプの路地があるということは、明治以前から建物(長屋)があったというしるしなのです。

東西に100mほど続く石垣なのですがこの石垣は豊臣時代の空堀の名残だと聞いたことがあります。

こうして古い商店や民家などが残った空堀商店街が、結果としてレトロスポットとして人気を集めることになったのは面白いですね♪


海老江の下町情緒を残す石畳路地と光と影
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住友銅吹所跡


東横堀川

土佐堀川の上流部で南へ分かれて、中央区の船場・島之内の東縁を流れる。
全長約3km。西へ向きを変えてから下流は道頓堀川となる。

1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された、大阪市で最古の堀川である。

なお、1594年(文禄3年)の開削とする説もある。

1615年(慶長20年)に大坂冬の陣で徳川方と豊臣方が和睦する際、大坂城の惣掘の一部であるので和睦の条件の通りに埋め立てられた。

しかし、大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返され、ほぼ同時に堀止から西へ道頓堀川が開削され、1622年(元和8年)には末吉橋の下流側から西へ長堀川が開削された。

九之助橋は江戸時代初期には既に架けられていた。

橋の西側は九之助町で、このあたりには銅吹所を始め、鋳物屋、鍛冶屋などが多く、工業の町という印象が強かった。
町名や橋名の九之助は関係者の人名につながるようだが、その由来は不明である。

町橋であったため、橋筋の町を中心に町々からの醵出金によって維持されてきた。

興業の街らしく、欄間には町工場の様子が仕込まれている。

九之助橋は大正15年、第1次都市計画事業で、鋼アーチ橋になった。

東横堀川にはアーチ橋が多いが、鋼製とコンクリート製がほぼ交互に並んでいる。
これは偶然ではなく、設計担当の意志が働いていたと考えられる。

住友銅吹所跡

泉屋は元和?年(1623)に大坂・内淡路町に銅吹所を開設。

元禄3年(1690)に本店・居宅を同地に移転し、明治まで続いた。

当時の幕府高官やオランダ人もよく視察に訪れたといいます。

マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーン
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東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平ゾーン
標高750mの山中にある東平(とうなる)は、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱 … 続きを読む →


銅吹所の炉

レプリカのミニチュア銅橋

明治初年、経営が極度に悪化していた住友を救った広瀬は明治12年(1879)、大阪鰻谷の住友本邸に別子産銅で製作した銅橋をかけ「事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし」と家長以下自らも戒めていた。

元住友家本邸内ビリヤード場(玉突場)

明治9年(1876)に銅吹所廃止後に敷地は住友家の邸宅となりました。
明治12年(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられました。

文明開化期に多くみられる「擬洋風様式」で、ビリヤード場玄関のアーチや円柱飾りは洋風ですが、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きで、洋風と和風とが混在しています。

明治25年(1892)以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものです

この地の銅吹所は明治9年(1876)に閉鎖されるが、銅吹所のあった東半分(冒頭写真の左側が銅吹所、右半分は西側の邸宅、手前の北側は長堀川)は日本庭園として整備しなおされ、後に天王寺茶臼山に移されるまでは住友家の本宅として機能していた。

茶臼山に本宅が移されてからは、昭和20年(1945)まで別邸として存在した。

その後、住友銀行社員寮跡地であったこの地に、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2年(1990)から平成5年(1993)にかけて発掘調査が行われた。

そこからは、100基を超える精錬炉、棹銅、住宅で使われていた高級陶磁器など、数多くが出土した。

このことにより、かつてここで大規模な銅の精錬が行われていたことが明白になったのである。

いずれにしても、この地は寛永13年(1636)に泉屋(住友)理兵衛(第2代友以)が銅吹所を開設して以来、泉屋にとって家業の基礎を築き、繁栄させた大切な場所である。

三井住友銀行事務センター

かつての銅吹所は、約10階建ての事務センターになっている。
右端が史跡公園。

ジオラマで摂河泉の中世都市を見る
大坂の商業の中心船場は、人々の暮らしの場でもありました。 このジオラマは、安政年 … 続きを読む →


今日のお昼は「いなり家こんこん」

小ぶりの創作いなり寿司が四種四個

「ちりめん」・「ひじき」・「タコ」・「えび」でしょうか?

メニュー表にのっていなかった「おでん」
「小鉢」

最後にコーヒー、これで800円、やすいね。

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海老江の下町情緒を残す石畳路地と光と影


また阪神本線の高架下には、機械工具や金属材料、配管、建築金物などの企業四十数社が並ぶ「野田阪神機械工具街」があります。

空襲を免れた古い住宅街で、レトロムードたっぷりの商店街が賑わいをみせています。

周辺の商店街も賑わいをみせています。

そして光と影が絶妙なコントラストを見せる。

松下幸之助が「松下電気器具製作所」を創業したのは、大阪府大阪市大開と呼ばれる一角にある。

当初の従業員が5名ほどだったのが従業員50名を超える規模の会社にまで成長したのだそうだ。
なお、松下幸之助はこの地に思い入れが強く、死ぬまで本籍地をこの地から移さなかったとのこと。感慨深い話だ。

今回はこの海老江にある石畳保存地区を訪ねてみる。

工場とオフィスビル、商店や住宅の雑然と混在する中に古い町並と呼べる風景があちこちに残っているのもこの地区の特徴だ。

ただ気になるのは石畳が壊れ荒れ地と化している区画があること。

石畳のT字路もある。

ここは第二次大戦時に戦災を逃れた地域と一致している。

特に海老江7丁目では石畳の敷かれた路地が巡り、近くに幹線国道が走るところとは到底思えない風景が展開している。

生活路として防火バケツや自転車その他が置かれている路地風景は絵になる。

この石畳路地は独自の自治組織により、車の通行禁止など保存活動が行われているようだ。

路地から射す光が・・・
手前のカートは今回試しに使ってみた、慣れないので使いこご値はイマイチだったが肩にかかる重量は軽減される。

手作りっぽい木の蓋が新調されていましたが、この下はどうなってるんだろう。
上下水管はこの石畳の下を通ってるのかな。

路地に落ちる影が面白い。

少し下がってみる。

石畳が整然と残っている有様は素晴らしい。

そして路地に落ちる影・・・

この先はもう幹線道路だ。

電柱が影を落とす風景など絵になる。

レトロなアパートもある。

銅板長屋も大阪の特徴。

海老江八丁目から七丁目を経て大開へ至る通りがメインストリート。

そこに大阪名物の銅板長屋が見事に並んでいる。

見事な板塀の建物を見つけた。

板塀に光りと影、絵になる風景だ

街歩きでは光と影を求めて歩くことが多い。

ここも光と影が面白い造形を見せる、そして整然と並んだプラスチック容器、絵になります。

しかし、素晴らしい石畳の一家にぽかりと空いた空間は気になる。

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「滝見小路」に昭和レトロを見る


新梅田シティにある、昭和のノスタルジックな香り漂うレトロ食堂街「滝見小路」。

ノスタルジックを表現すべくレタッチはそれなりに努力したが難しい。

「滝見小路」と名前がつくこの食堂街は、和食を中心に、お好み焼き、串カツやかつ丼など、およそ20軒の飲食店が並ぶ。

昔はどの店にもハイトリ紙がぶら下がっていたものだ。

大阪の街が明るく、活気にあふれていた、昭和初期の街並みが再現されています。

石畳の路地に、暖簾や格子戸があって、お稲荷さんなどを眺めながら歩いていると、当時にタイムスリップしたような感覚に浸ることができます。

戦後日本が急速に発展した高度成長期。

毎日が目新しくなっている激動の「昭和」。

人情の街・大阪は万博に沸きました。

決して裕福ではなかったけど、みなパワーに満ち溢れた時代があざやかによみがえる。

そんな時代を彩った、昭和の街並みを再現したのが「滝見小路」。

新しいのに懐かしい、心の片隅にあるあなたの原風景に迷い込んでください

ニッパーの最初の飼い主は、イギリスの風景画家マーク・ヘンリー・バロウドであった。

1884年、イギリスのブリストルに生まれる。
いつも客の脚を噛もうとすることから、“Nipper”(nip=噛む、はさむ:同名の工具の語源)と名づけられる。

1887年にマークが病死したため、弟の画家フランシス・バロウド(英語版)がニッパーを引き取った。

彼は亡き飼い主・マークの声が聴こえる蓄音機を不思議そうに覗き込むニッパーの姿を描いた。

懐かしい広告が並ぶ。

路地には若い人たちが溢れている、彼らは何を感じているだろうか。

『社長シリーズ』第24作。東洋一の紳士服メーカー「栗原サンライズ」を舞台に、東京~名古屋、そして三重県を舞台を移しながら繰り広げる。

秘書役は、当時の東宝の新人の1人・原恵子が演じる。

昭和時代から「レトロブーム」というのは何度かあり、2010年代現在、「昭和レトロ」と呼ばれるのは、特に昭和30年代~40年代にかけての時代の雰囲気を想定しているようです。

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長浜散策 路地


撮影会の散策には必然的に路地と遭遇する機会が多い。

尋ね歩く先にテーマとなる被写体を見つけることが多い。

今までは漫然と歩いていたと思うが、坂越浦に行ったとき坂越まち並み館のおばちゃんから通りを歩くだけではつまらん、路地路地に入り、路地から大通りをのぞくといいと教えられる。

坂越浦 レトロ散歩
播州赤穂から一駅、「坂越」 日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前 … 続きを読む →


それからというもの路地の散策が一段と楽しくなった。

湯浅を訪れた際も坂越浦のおばちゃんの言葉を思い出しながら歩いた。
熊野古道と醤油の街ノスタルジック散策
湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る … 続きを読む →


すると地元の同好の士と出くわす、定例会が近づいたがテーマがまとまってないという、最後はここしかないねん・・・と

小生も定例会が来週に迫っている、ろそろそ纏めに入らないと・・・

米川を散策した当時が思い出される。

考えていたら、路地の整理をしていないことを思い出し今更のように辿っている。

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長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 – 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 – 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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長浜 米川に沿って


今日は倶楽部の撮影会で長浜に行く。

近江と美濃の国境に聳える伊吹山、彦根城からは遙か彼方という距離感でしたが、長浜辺りからは間近に望むことができます。

北國に来たという実感。

琵琶湖の北東岸を北上し、余呉湖の北の柳ヶ瀬、県境の栃ノ木峠をへて越前・加賀に通じる北国街道は多くの商人、旅人、武将らが頻繁に利用、長浜はその宿駅として、また湖上交通の要として栄えた町です。

港町の風情を残す舟板塀や紅殻格子(べんがらごうし)、虫籠(むしこ)窓の家々や白い土蔵を持つ老舗の商家、道中安全を願った常夜燈などが建ち並び、昔の面影を色濃くとどめています。

作品作りを頭に描きながら散策。

街を歩いていて気になる存在が長浜まちなか地域を流れる米川(地元では「よねがわ」と呼ぶ)は、姉川水系とともに1級河川であり滋賀県の管理対象です。

米川も高度成長期にはご多分にもれず汚染を受けたが、地元NPOの尽力により清澄な流れを取り戻している。

長浜地区地域づくり連合会は、米川の”川そうじ”を流域自治会が総出して、毎年そうじを行う地域に密着している川で、滋賀県立大学環境科学部の学生が全国的に見ても、住居地域を流れる川として大変きれいな川で、地元の方がもっと自慢されてよい川であると評価。

川相は上流部は農地を流れる用水路状、中流は市街地を流れる都市河川、下流においては舟運にも利用された掘割と、変化を見せる。

川辺の石積みを見ると、あちこちに “かわど” と呼ばれる石段がある。

家庭では野菜や漬け物の洗い場として、商家では運搬や往来の手段として、ずっと昔から、この米川は長浜の町衆の暮らしと深く結びついてきた。

湧水を水源とする大変きれいな川で、夏はアユが遡上し、冬はカモなど渡り鳥が憩う川です。

流域の元浜町には往時を偲ばせる風景がよく残され、近年では観光スポットとなっている。

一級河川の起点は長浜市川崎町の羽織町。

源頭は長浜市北東部の東上坂町(ひがしこうざかちょう)の姉川扇状地。

南西流し、長浜市中心部を流れ、長浜城の南・港町と朝日町の境で琵琶湖北岸に注ぐ。

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