吹雪の梓川沿いを河童橋まで

吹雪の中を河童橋まで歩くことにする。

中千丈沢の辺りも雪に埋もれる。

焼岳から穂高にかけての稜線は雪雲に隠れてしまい相変わらず見ることはできませんが、対岸の自然林だけはかろうじて見ることができます。

いつもなら穂高、明神が見えるはずだが・・・・・

原生林に中には変わった形の木も見られる。

林の中を歩くときは吹雪もなく楽だ。

降り注ぐ雪が画像で確認できると思います。
懐にカメラを隠し、撮影のときだけサッと取り出して撮影するのです。

林を抜けるとまた吹雪です。
カラマツの幹には吹き付けられた雪が張り付く。

小さな沢、風水画の世界に水生植物が見られる、ホッとする瞬間。
画面には雪が降り注いでいます。

木橋に出てきました、この辺りは田代池の湿原です。

原生林のなかに、ぽっかりあいた草原に広がる湿原の浅い池。
池のなかには幾つかの島々があり、まるで水田のように明るく穏やかな風景があります。「田代」とは水田のこと、水田のような湿原という意味でしょうか。

1914(大正3)年、W・ウェストンは上高地と別れる日、最後に田代池を訪れています。
著書にはこんな言葉が記されています。

「早朝、すがすがしく澄み切ったなかを、私たちはしょんぼりと梓川谷をくだっていき、人影のない田代の池を通りすぎた。鏡のような沼面は穂高の灰色の断崖と輝く雪を静かに映していた」。

田代池は穂高岳と焼岳を眺めるには、もっとも適した場所であると言う人もいるほど。W・ウェストンもそう感じていたのでしょうか。
これが、W・ウェストンが穂高を見た最後でした。

氷点下になる季節も田代池は全面結氷しません。
水温の方が高い季節の早朝は、周辺の木々は霧氷に包まれて幻想的な風景をかもしだしています。

吹雪は中々止みそうにありません、波状攻撃のごとく襲ってきます。

かと思うとつかの間の青空、ホテルのフロントの人が言っていた冬日というのはこういうことを言うのだなと感心。

一瞬のうちに雪雲に覆われてしまいます。

水底の赤味がかった色が印象的、いたるところで水生植物が観測される。

梓がの川べりに出てみる、下流を眺めるが何も見えない。

梓川の上流を眺める。

飛騨山脈(北アルプス)の槍ヶ岳(標高3180メートル)の南斜面付近を源流域にして流れる梓川は、上高地の堆積平野の中を蛇行しながら流れていきます。

上高地を出ると「梓川渓谷」と呼ばれるV字谷を形成しながら東へ流れ、松本盆地で奈良井川(木曽山脈から流れてくる)と合流し、高瀬川(信濃大町・白馬から流れてくる)との合流点で「犀川」と名前を変えます。

あの有名な古戦場の川中島で千曲川となり、そして信濃から越後へ流れ信濃川と名を変えます.

小さな沢は降り積もった雪が氷となり見た目には寒そうに感じる。

落ち葉と水生植物のコラボレーション、水墨画の世界に彩りを添える。

自然研究路の中を歩いています、田代湿原の真っ只中。

外気温に比べて水温は温かいのだろう、水生植物は生き生きとしている。

小川の水は扇状地形の緩やかな傾斜のついた原生林の中を蛇行しながら流れ、梓川に合流していきます。

向こうに田代橋が見えています、よく見ると小さな小鳥です、スズメより大きいのですがなんという鳥かわかりません。

田代橋の奥が穂高橋、1998年(平成10年)11月に竣工した両橋は、長野県産のカラマツとヒノキだけを使い、景観を損なわない配慮して造られた木道です。

田代橋と穂高橋の間は、梓川の中州。 
本来なら焼岳、穂高岳の眺めが素晴らしい場所です。

梓川の川向こうに 六百山、三本槍、霞沢岳が見えます。
穂高の山々の前にあって影が薄いですが…

やっとマガモを見つけました。
いつもは大正池の湖畔にはマガモたちが遊んでいるのですが、吹雪とあっては一匹もいません。

「日本アルプスと登山の探検」の紀行文を発表し、中部山岳を世界に紹介した、英国人牧師ウォルター・ウエストンをたたえる碑。

ウエストン碑は、昭和12年に日本山岳会がウエストンの77歳を祝って作ったもので、昭和40年にかけなおされている。

雪のこの時期、自然探究路は歩きにくく車道を歩くことが多い。

本来ならこのような木道を歩くのですが。

明日から上高地は閉山です、この時期工事用の車の通行が多く注意が必要

既にあちこちで工事が始まっています。
夏場は人が多く工事ができないので閉山の時期を目指して集中的に工事が行われます。

流域は古来より梓の産地であり、梓弓(あずさゆみ)の材料として朝廷にも献上されていて、このことが梓川の名前の由来になったとも言われている。

カバノキ科の植物で、落葉高木だそうです。
材質は堅く、器具・家具材とし、古くは弓や板木に利用されたそうな。
なるほど、それで「梓」は朝廷に献上されたんですね。

山荘かホテルか、林の奥にそっと息をひそめているよう。

雪の中に白樺が美しい。
木肌が白粉を塗ったように白いのがシラカンバ、ダケカンバはやや赤味を帯びる。

この付近で見られるのはほとんどシラカンバでダケカンバは主に山腹の針葉樹林の中やさらに高いところに生育する。

六百山に一瞬青空。

その直後にこのような猛烈な吹雪。

河童橋までやって来ました。

上高地を代表する観光スポットである河童橋。
河童橋は1891年に初めて橋がかけられ、その後何度か架け替えがあり、現在は5代目となっている。

河童橋と穂高連峰を背景にした写真は、絶景であり多くの観光客の撮影ポイントとなっている。

どうですかこの吹雪、目を開けていられません。

この壁面、地吹雪が吹き付けられたものです、凄まじいばかりです。

梓川の上流も吹雪いています、穂高連峰も見えません。

北アルプスに生を受け大正池を後にした清流梓川はこの後数百Km の旅をして日本海にそそぎます。
その川の長さは日本最長です。

上高地のことを、まるごと理解できちゃう場所がここ、ビジターセンター。
上高地のシンボル・河童橋を過ぎた小梨平の入り口にある情報基地です。

この時期人影はまばらです。
見えているはずの穂高連峰は雲で見えません。

上部を雪雲で隠されてしまった明神岳。

穂高連峰も雲が隠す。

河童橋の向こうに穂高連峰と明神岳が少しだけ見える。

標高2931メートルの明神岳は、かつて「穂高大明神が鎮座する山々」という意味で、穂高連峰全体をさす言葉として使われていたといいます。

かつて上高地へは徳本(とくごう)峠を越えて入山するのが常であり、穂高神社奥宮の祭られた明神は峠を越えた到着点として、この地を見た人々は神々しく見つめて崇拝したにちがいありません。

「上高地」とは現在の明神を指しての言葉とも言われています。
現在の明神岳は、前穂高岳から張り出した尾根の一つを称しますが、ふもとの明神には穂高神社奥宮が祭られ現在も多くの人々に信仰されています。

やっと頂上まで見えた。

バスターミナルまで戻ってきました。
平湯温泉や乗鞍山頂(畳平)、新島々バスターミナル、沢渡駐車場など各方面に行くバスが発車を待っています。

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地吹雪舞う晩秋の大正池界隈

今回は上高地で霧氷を撮影すべく訪れたが・・・・・
明日から閉山というギリギリの上高地、春まで眠りにつく上高地の様子を2回に分けてお伝えします。

宿泊している大正池ホテル。

大正池ホテル脇の湖畔には土砂によってできた押し出しが広がっています。
これは大正池左岸側の沢の一つである「下千丈沢」から流出してきた土砂によって造られた岩屑地帯です。

比較的小さな小石で構成されていて歩きやすいのと、傾斜が少なく、その上大正池の絶景を眺めることができるので、多くの観光客が集まっている場所ですが、この日は無人でした。

早速、大正池ホテル脇の湖畔の土砂によってできた押し出しで撮影を始める。
狙いは夕焼けの焼岳。

大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然あらわれた池です。
焼岳が大噴火をおこし、その際に噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできました。

水没した林は幻想的な立ち枯れとなり、神秘の景観をもたらしています。
大正池はできた当時、梓湖と呼ばれたこともありますが、大正年間にできたことから今の名称が定着しました。

穂高連峰はガスに包まれて姿を見せず。

現在の大正池は、標高1490メートル、深さ3.9メートル、周囲2.4キロメートル余。
焼岳の噴火でできた当初の湖面積は3.9平方キロメートルもあったといいます。

これは現在の2倍以上の大きさで、水面上の立ち枯れの木々は、昭和初期には2000数百本を数えたと伝わります。

焼岳も雲に覆われて太陽の姿は見えず。

池にある立ち枯れの木々の景観は、1928年に「上高地」が史蹟名勝天然紀念物保存法による「名勝及ビ天然紀念物」に指定される際の理由の一つとなったそうです。
しかし、少しづつ倒れて、今は数がめっきり少なくなった。

暮れゆく大正池、木々の間から焼岳を。

中千丈沢の押し出しから大正池を望む。

もう一度大正ホテル脇に戻り穂高連峰方面を狙う、静かな湖面、マガモの姿も見えず。

上高地では、どこにいても風景の中心にあるのが、穂高連峰です。
北アルプスの数ある高峰の中でもとりわけ岳人の人気を集めている山で、山頂部には難易度の様々な多くの登山道が通っています。

最高峰・奥穂高岳は、標高3190メートルあり日本第3位。(ちなみに2位は北岳)上高地とは1700メートルもの高度差があります。

山頂周辺には、氷河の存在したことを示す、すり鉢上の地形(カール。圏谷)が見られます。                                    
梓川縁の道標説明文より

焼岳も紅く燃える様子もない。

穂高連峰に架かった雲も宵の濃さを増してゆく。

翌朝は吹雪です。
ホテルのロビーで日の出時刻まで待機して湖岸に出たが撮影どころでない。

カメラのレンズに雪が積もり、ご覧のありさまで霧氷撮影どころの話ではなくなった。

すっかり雪化粧して吹雪の舞う湖岸でカメラを懐に隠しながら撮影を始める。

時折りこのような地吹雪が襲う、風に背中を向け、吹雪がおさまるのを待つ。

吹雪の合間に撮影です。
この状態でも画像には映っていないが、結構吹雪いています。

右上のホテルの屋根を見てください、このくらい吹雪いています。

対岸の自然林まで約100メートル。
地表は雪で覆われています。

穂高連峰の姿は見えません。
まるで水墨画の世界を見ているようです。

振返って大正池ホテルの方を見やる、木々には吹雪で吹き付けられた雪が着いているのがわかる。

遊歩道を少し歩いてみます。

昨日ここから暮れゆく焼岳の姿を見ましたが、今朝は様変わりして雪化粧です。

木道もすっかり雪に覆われています、しかし、雪の深さがそこそこあり、ほとんど滑りません。

倒木の姿が寒さを誘う。

中千丈沢の押し出しから大正池を望む。
ゆうべはここから焼岳が見えたのに。

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美ヶ原散策

美ヶ原で過ごした三日間、何度も山本小屋周辺を歩き回った。

美ヶ原高原のシンボル「美しの塔」。
美ヶ原は濃霧になることが多く、遭難が多発しました。

その対策の一つとして霧鐘を備えた避難塔が「美しの塔」です。
1954年(昭和29年)の秋に高原の中央部に設置され、1983年(昭和58年)に改築されました。

鉄平石でつくられた塔で、高さは約6m、日本で一番大きな文学碑でもあります。

塔の南面には美ヶ原を愛した自然詩人・尾崎喜八氏の「美ガ原溶岩台地」が、北側には山本俊一翁の顔のレリーフが埋め込まれており、松本の彫塑家、上條俊介氏の作です。

鉄平石(てっぺいせき)は、長野県の諏訪地方・佐久地方に広く分布する輝石安山岩の板状節理がよく発達したもの。

およそ2,500万年前の火山活動によって形成されていると推測されている。
板状に剥がれやすい性質を持ち、2~3cm内外の厚さに剥離(はくり)された鉄平石は、建築用の内装外装用石材として広く利用されている。

美ヶ原一帯は360度の眺望で有名、ただ、霧や雲で視界が遮られることも多く、残念な思いをする。
この日は富士山がよく見えていた。

広大な牧場に陽が沈む。

残念ながら牛の姿は見えない。
先日の台風、気象庁が史上最強の台風などというものだから、牛はすべて麓へ移されてしまっている。

美しい高原にススキがよく似合う。

ススキの向こうに電波塔群が見える。

美しさを満喫するには、やはり大草原に200種類以上の亜高山植物が咲き乱れる夏場が一番なのだが、観光客の少なくなった初秋もいい。

夕食に気をとられていて、日の入りを撮り損ねた。
ただ美しい日没だ。

電波塔群にも灯りが灯る。

ここは標高2000mの高地、雲の流れも速い、つかの間、光芒が現れた。

僅かに紅葉のなごりか、この前の台風で紅葉はすべて吹き飛ばさてしまったと聞いた。

現在の美ヶ原牧場は明治42年、東筑摩郡里山辺村の小岩井品三郎が入山辺・里山辺両村の共有林30町歩を借り、松本市内の牛乳屋の乳牛89頭を放牧したのが始まりである。

牧場経営は順調で明治44年には安曇平から馬も預かり、放牧頭数は200頭を超えた。この年7月には小県郡和田村字沢入の内芝100町歩を借りて牧場を拡大した。

美ケ原牧場の一角に、上部が皿のようにくぼんだ岩が集まっているところがあります。
昔から牛や馬たちに、病気にならないよう、塩分を与えるために利用された場所です。

岩の上に置かれた塩を、牛たちが毎日なめ続けたことで、岩の上部がすり減ってしまったという。

これは牧場の畜魂碑。
ここ美ヶ原高原の開拓者は山本俊一氏。

「登りついてはふいに開けた眼前の風景にしばらくは世界の天井が抜けたかと思う…」と、これは詩人・尾崎喜八郎氏が美ヶ原の風景を唄った詩です。

三日目、美ヶ原を離れる前に再度、美しの塔の辺りを散策。
初秋の高原に別れを告げる。

王ヶ頭(2,034m)山頂に長野県内を放送範囲とする放送局の送信所が設置されている。
標高が2,000m超と非常に高いところにあるため他県まで電波が届きやすい特徴があり、愛知県や三重県、そして関東地方の一部地域、富士山五合目でも受信できるという報告もある。

ただ、眺望の妨げになり、批判も多いようだ、キー局の看板から長野地区の地方局の名前に変更する動きがあるそうだ。
あの東京電力も早々に看板を外したそうだ。

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
TEL 0268-86-2011

山本小屋へ送迎の確認をしよう。

お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
ペット同伴は予約時にご相談を。

野外彫刻 – 美ヶ原高原美術館

美ヶ原高原美術館はその高原の東側、牛伏山の東側斜面に、およそ4万坪の広大な敷地に、約350点もの具象、抽象の現代彫刻作品が点在するスケールの大きな美術館です。

とても一日では見切れない内容です、良くわからないものがありますが、その一部を紹介します。

作品名「のぞみ」 清水多嘉示

両手をひざに置いて腰をおとして座り遠くを見つめる女性像。

安定した下半身、豊かな上半身からは、清らかで健康的な女性の美しさと内からにじみ出る生命の躍動が瑞々しく爽やかに表現されています。

作品名 表象-<中間距離>

壁の影が本体と違って見える、もしかしてペイントかと疑ったが、やはり影だった。

作品名 「花束」
この像は真駒内競技場で見かけた。
前回の記事真駒内公園早朝爽やかウォーキングを参照ください。

作品名「護られる女」
なんとも奇妙な像だ。

人情としてこちら側からも見てみたくなる。

作品名「雲海に立ちて」
まさにこの場の雰囲気にぴったり。

作品名「ドン・キホーテ」(1985年)
 マリオ・アゴスティネッリ(ブラジル 1924~)

作品名「ストレット-ギッティング・ケルジー」
可憐な踊り子の像。

作家自身の右手親指の型を取り、何段階もの過程を経て正確に拡大された308㌢もの巨大な親指。
大理石のもつ赤や青の模様が血管を思わせる絶妙な効果をもたらしています。

作品名「見牛・得牛」(1984年)
 新関八鉱(にいぜき・やつひろ 日本 1943~)

目をむいてにらみ合った迫真の像。

作品名「Wind Dancer」 関正司
自然の風を気持ちよさそうに全身に受け、髪をなびかせている少女。
そのスカートは風により向きをかえます。

作品名「曲面における位相空間」 榎本康三
ステンレスの鏡がカーブを描いている作品。

外面には周囲の風景がゆがめられた虚の空間が映し出されています。
内部に足を踏み入れると、四方に映る自分の意外な姿が見られる体験型の彫刻です。

作品名「鉄その空間その鉄」

先日の台風で紅葉は吹き飛んでしまいましたが、吊橋の両側に微かに紅葉が残る。

作品名「アイアン・レディー」 関正司
広大な草原に立ちはだかる、まさに、鉄の女。

作品名「風のスイング」 河崎良行
磨かれたステンレスを使い、風のイメージの形体化を試みています。

回転や上昇運動を複合させた優美なフォルムは、内在する力が大空に向かって一気に放たれるような爽快感と強い風のエネルギーが感じられます。

作品名「メタモルフォーゼ」
草原にフランケンシュタインが立ってるようで不気味。

作品名「神の化身」
ガンジーをほうふつとさせる。

作品名「家を創る人々」

作品名「両性をそなえたトルソ」 フォティス
作者は人体のトルソを主題に数多くの作品を制作しています。

ここでは、上下で女性と男性を組み合わせて、誇張や省略を大胆に用いる手法で、新しい人間像の表現を試みています。

作品名「螺旋斜円筒」
読んで字の如し。

作品名「脱衣(蕾から花へ)」

作品名「点」
簡潔でよろしい。

作品名「美しい尻のヴィーナス」

プレート記載:
「カプアのヴィーナス」と並んでナポリ国立考古学美術館の至宝とされているこのヴィーナス像は、ローマ皇帝ネロの別荘の噴水を飾っていたものという。
美しい腰部を見せながら、水に映った自らの姿に見入っている。

ヘレニスティック期には、この主題を扱ったものが多かったという。

この作品、作品名に気づき、後ろへ回って見なかったことを後悔している。
気になる向きはネットで検索してご覧ください。

ヴィーナスの城の屋上から展示場を見る。

作品名「生態学的存在」-セザール頌
思わずむずがゆくなりそうだ。

作品名「愛のモニュメント」「翔る女」

作品名「愛のモニュメント」「愛の手」

作品名「愛のモニュメント」

作品名「愛のモニュメント」「愛の手」

作品名「愛のモニュメント」「うずくまる女」

作品名「陰と陽の空間」

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
TEL 0268-86-2011

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お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
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牛伏山から美ケ原高原美術館へ


山本小屋からふる里館を経て牛伏山へ登る。
付近はダケカンバの林だ。

麓には美ヶ原高原の開発者で山本小屋創設者、山本俊一翁の碑が建つ。

牛伏山のモニュメント、残念ながら牛の姿は見えない。
先日の台風、気象庁が史上最強の台風などというものだから、牛はすべて麓へ移されてしまっている。

台風のおかげでカラマツの紅葉も草花もすべて吹き飛んでしまったという、岩陰にマツムシソウがひっそりと残っている。

牛伏山から見た山本小屋(左端)~美ヶ原高原ホテル(山本小屋の向こう側)~王ヶ頭(右)

最高峰は、王ヶ頭(2,034m)。
他に、王ヶ鼻(2,008m)、茶臼山(2,006m)、牛伏山(1,990m)、鹿伏山(1,977m)、武石峰(1,973m)といったピークがある。

頂上にはいたるところにケルンが見られる。

南は富士山から御嶽山、乗鞍岳、穂高連峰や槍ヶ岳の北アルプス主峰から後立山連峰、北は志賀高原と天気の良い日は雲上の大絶景が待っております。

山上には板状の鉄平石の破片が広がる。

空は澄み渡り、吹き抜ける風は少し肌寒い。

美ケ原高原美術館を目指す。

通路には板が敷いてあり歩きやすい。

右手が美術館。

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標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻

山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。

朝食前の朝の清々しい時間に、王ヶ鼻までマイクロバスで散策。
王ヶ鼻近くにバスを止め、徒歩で散策(約30分)します。

富士山・八ヶ岳をはじめ、美ケ原から見える北アルプスの名峰や、夏季は高山植物のお花畑がみられます。

運がよければ素晴らしい雲海も見ることができます。

江戸時代には、御嶽山が展望できることから、御嶽教の山岳信仰の山ともなった。
王ヶ鼻に並ぶ神像群はいずれも御嶽山の方角を向いており、御嶽教の信仰の対象である。

ここの岩石は板状節理をなす。

板状節理(ばんじょうせつり、英: platy joint)は、岩体が板状になった節理。
安山岩質の岩石によく見られ、マグマの冷却面と平行に発達する。

標高2008メートルの崖っぷちに立って、標高3000メートル級の山並みを見渡します。
真ん中が乗鞍岳、右側の冠雪している山が穂高岳と槍ヶ岳です。

小屋への帰り道では素晴らしい雲海も見れました。

この先の辺りが御岳山、美ヶ原の人々もボランティアで出向いていて6人の方が犠牲になられたと聞く。

三日目の朝も王ヶ鼻を訪れました。

昨日とは打って変わってよく晴れています。

しかし、霧が多く、松本平も霞んでいます。

先日の台風でカラマツの紅葉も草花もすべてなくなってしまっていますが、岩陰に辛うじて「エーデルワイス」が残っていました。

カラマツの陰から陽が登る。

天空には三日月。

僅かに残ったカラマツの紅葉。

王ヶ頭(2,034m)は長野県のほぼ中央に位置し、県内の広範囲を見渡す事ができる。
この事から、長野県の放送局(NHK、SBC、NBS、TSB、abn、FM長野)の送信所のほか、NTT、国土交通省、長野県防災行政無線、などの中継所、中部電力のマイクロ波反射板などが建てられており、放送・通信の要衝となっている。

この下の辺りが三城牧場。

向こうが御岳山、今年の捜索が打ち切られたと聞く、残念。

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

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絶景を望む雲上の一軒宿 山本小屋に泊まる

台風の直撃で出発を後らせ実現した美ヶ原高原行き、雨の不安の残る中、松本へ向かう。
美ヶ原(うつくしがはら)は、八ヶ岳中信高原国定公園北西部にあり、長野県松本市、上田市、小県郡長和町にまたがる高原。
日本百名山の一つ。

新幹線、「ワイドビューしなの」を乗り継ぎ、松本到着。
現地は曇り空で時折りパラパラの天候です。

岳都松本の駅頭に建つのは、播隆(ばんりゅう)上人の像。

播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山。
「日本近代登山の父」 と呼ばれている英人ウェストンが日本アルプスを世に知らしめるより65年も前 のことである。

播隆が頂上に祠を建立し、後に来る者のために危険な個所に鎖さえ準備した物 語は、「大いなる初期アルピニスト」の尊称を授けられてよいのだが、彼の功績 を知る人は余りにも少ない。

笠ヶ岳の東面の平坦地は播隆に因み播隆平と呼ばれている

「深志(ふかし)の湧水」

松本駅お城口の広場改修に合わせ掘られた井戸。
駅前通りの先に見える山が、美ヶ原高原。

美ヶ原西麓の扇状地・松本は、豊富な伏流水が湧き出す水の町。

松本は、女鳥羽川と薄川の複合扇状地によって、豊富な地下水が湧出する湧水地帯です。
市街地中心部には今なお多くの自噴井戸や湧水が点在し、市民の手により手厚く保全されています。

松本の湧水については以前の記事「中町通 縄手通り商店街散策」にも触れています、ご覧ください。

山本小屋からは松本駅前までお迎えがあります。
一気に標高2000mの美ヶ原高原へ。

出迎えてくれたのは野生のタヌキ君、1年ほど前から餌をもらいに来るようになったとか、左足をけがしていますが、丸々と肥えています。

そしてもう一人?の人気者、捨て猫の「タロウ」君。
拾われてもう10年以上になるそうだ、民家の無いところに捨て猫がいるわけないので観光客が捨てて行ったんだろうということだったが、ひどいことする人もいるもんや。

現在美ヶ原には主人を含めて20種類の生き物が生息しているそうだ。

外は深い霧で、肌寒く、観光どころではなさそうだ。

夏の間でも薪ストーブをたく、風のそよぐ別天地の気候。

今日は特別メニューを張りこみました。

山本小屋名物「松茸尽くし」

毎年9月中旬から10月中旬にかけていただける。

地元(長和町・上田市武石地区)産の松茸をメインに使用。
松茸ご飯など、一部の料理については、収穫量によってはごく一部地物ではない場合があるとのこと。

1. 食前酒(グラスワイン)  
2. 松茸と鴨のすき焼き  
3. 松茸土瓶蒸し  
4. 刺身(馬刺し)
5. きのこ蕎麦
6. 岩魚の塩焼き
7. 酢の物
8. 小鉢(雑きのこのおろしあえ)
9. 松茸茶碗蒸し
10.煮物(雑きのこ添え)
11.松茸ときのこの天ぷら
12.季節の果物

そしてご飯は松茸ご飯の釜めし。

が、当日のメニューでしたがさすがに食べきれず、マツタケご飯はおにぎりにして翌日のお弁当に。

翌朝6時7分、御来光です。
気温は零℃、凛として気持ちのいい朝です。

庭先には除雪用のブルもあります。

山本小屋から東を眺める、牛伏山が見えています。

標高2000m美ヶ原高原で唯一の天然温泉。!
朝5時から夜11時まで入浴できます。

高原の散策等は別途報告します。

三日目の夜明けです。

画像をクリックして拡大して見ていただければ、太陽がわずかに覗いているのが確認できます。

昨日とは違って空を紅く染めて陽が登ります。

今日はグッと冷え込んで氷点下です、車も霜で真っ白です。

小屋の前はササが生えていて、陽を受けて輝いています。
結構着込んでいますが寒い。

王が鼻までの早朝散歩を終え、おなかを空かして帰ると、あたたかい朝食が待っています。

卓上で焼く目玉焼きは、こんもりとした見るからに新鮮な玉子。
牛乳、コーンスープ、パンはおかわり自由。

接客は、日本人に交じって研修に来ているネパール人もいます。

王が鼻までの早朝散歩は山本小屋の御主人の車で行きます、別途報告です。

窓の外には雄大な草原が広がる。

休憩室にはネパールの民芸品なども展示されている。

喫茶室から外を眺める。

窓の外には雄大な景色が広がる、この向こうの牛伏山を越えていくと、素晴らしい美術館がありますが別途報告します。

山小屋にランプって似合いですね。

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
TEL 0268-86-2011

山本小屋へ送迎の確認をしよう。

お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
ペット同伴は予約時にご相談を。

神秘の秘境・油木美林遊歩道

油木(あぶらき)美林は御嶽山の据野に広がる太古の森。
ヒノキなどの木曽五木をはじめとした、樹齢300年の木々が茂る原生林です。

学術参考林にも指定されるほど神秘的で美しい森は、遊歩道が整備されているのでハイキングに最適!
周辺にある滝と合わせて、森林浴やバードウォッチングが楽しめる。

森の入り口近辺は御岳信仰の霊場の真っ只中。
御岳山は日本で14番目の標高 3,067mを誇る、日本百名山の一峰です。

「油木美林遊歩道」駐車場より遊歩道を歩くと、最初に現れるのがこもれび滝です。
階段のように水が流れ落ちるその様は、すぐ近くの「不易の滝」ともまた違った涼しげな雰囲気です。

あずま屋もあるので、油木美林や付近の滝を見ながらのんびりとハイキングが楽しめます。

二段目と滝壺のアップ。

少し近づいて上段の滝を。

木立が多く薄日がさしていますが薄暗い道です。

油木美林というとヒノキのイメージが強いのですが、この辺りはカツラやトチの大木、というか巨樹があります。

谷を何度か渡り不易の滝を目指す。

このカツラは相当デカイ。

苔むした岩肌が人を寄せ付けない太古の森を感じさせる。

橋を渡り急な階段を上る。

巨大な倒木が見られます。

不易の滝です。
昔からその容姿を変えぬとの謂れでその名がついています。

地下水が岩からしみ出してくるような繊細な姿は、まるで水墨画を思わせるような美しさです。

付近には小さな滝も散見されます。

多くの流木が横たわる渓を横目に元来た径を引き返す。

百閒滝、ロープウエイへの分岐、本来、往きはバスとロープウェイを乗り継ぎ7合目まで上がります。
そこから油木美林道を辿り、標高1000m近く降るのです。

800段の階段です。
高さ100m以上の崖にへばりついて付けられています。

これだけの距離があり、時間がかかります。

ウッドチップで舗装さ.れた遊歩道を駐車場へ急ぐ。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

油木美林へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県木曽郡木曽町
電話:0264-22-4000木曽町観光協会

JR中央本線木曽福島駅下車 →バス(※季節運行) 32分 →徒歩 60分

南北朝以来の名城 白河小峰城

撮影時(2014.04.15)には福島地方は桜満開でした。
しかし、白河小峰城は2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊したため、三重櫓も含め本丸は立入禁止となっている。

トイレ休憩で立ち寄った安達太良SAからは安達太良山がよく見えていました。
日本百名山およびうつくしま百名山に選定されている。

高村光太郎の智恵子抄で有名ですね。

SA内の桜も満開です。

白河小峰城は東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城とともに「東北三名城」のひとつにも数えられている。
クリックして拡大して見ていただくと崩壊した石垣が見えると思います。

崩落前の本丸石垣。

二の丸広場から眺める石垣と満開の桜。

白河小峰城は、南北朝時代の1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)に、結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。

1590年(天正18年) 城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、その後、この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏が支配した。

1627年(寛永4年) 丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、幕命により、寛永6年より城郭の大改築に着手、4年の歳月を費やして1632年(寛永9年)に完成した。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが1867年(慶応3年)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。

1868年(慶応4年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した。

城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみだったが、1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が当時の史料に基づいて復元された。

三重櫓(天守に相当)付近はクレー車が入り、工事が行われており立ち入り禁止です。
生活関連施設でないため復旧は後回しになりまだこれから2~3年かかるという。

このお城こそ、列藩同盟側の瓦解の前触れとなる戦いの舞台となったのである。そもそも列藩同盟構想の火付け役は会津藩であるが、会津藩が、他の東北諸藩に範を見せなければならぬところに、この白河城の落城という決定的な事件が起きたのである。

会津藩は大勢の藩士を城に送り込んだ。
そして総督に、あの西郷頼母が起用されたことに、周囲の人々は首をかしげた。

頼母は、会津藩の京都進駐に大反対したことで容保の怒りにふれ、事実上引退の身、それ以前に実戦経験がない。

頼母の起用は、容保の配慮があったとも言われているが、そこがまた古めかしい考えだった。
案の定、白河城はたった一日で落城してしまう。

1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が当時の史料に基づいて復元された。
崩落前の姿です。

工事用の塀越しに背伸びして撮った三重櫓と前御門。

おとめ桜の伝説
寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。

すると、最初に来たのは作事奉行の娘「おとめ」だった。
父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは人柱にされてしまった。

その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。

現在三重櫓のすぐ横に植えられているおとめ桜は二代目で、初代は戊辰戦争の時に焼失している。

「白河集古苑」は南東北の有力武家「白河結城家」に伝わる古文書を展示する「結城家古文書館」と、江戸時代末、最後の白河藩主「阿部家」に伝わる美術工芸品を展示する「阿部家名品館」からなる博物館です。

苑内には芭蕉の「むら尾花句碑」がある。
ほととぎすまねくか麦のむら尾花」は貞享4年(1687年)に詠まれた句で、「むら尾花句碑」は、安部家に代々伝えられている。

白河城(小峰城)大手門跡の礎石
大手門は、白河城の表玄関にあたる門で、平成5年に実施した白河駅前区画整理事業に伴う発掘調査により所在が確認されました。

絵図面との照合から、調査において発見されたのは、門の北側の部分であることも合わせて確認できました。
ここに展示している礎石は、発掘調査により発見されたものを、発見時の寸法のまま移設したものです。

礎石は、上面を平坦に加工し柱を据える中央部分には「ほぞ穴」が設けられ、周囲には柱材のヤニの痕跡が残されています。

このヤニの痕跡から柱の太さは門柱が62×46cm、控柱は33cm角であったことがわかりました。
=== 案内板より ===

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白河小峰城へのアクセス、行き方歩き方

住所:福島県白河市郭内
電話:0248-22-1111(白河市都市計画課)

JR東北本線 白河駅から徒歩約10分。

雲上の楽園「伊吹山」

滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。
滋賀県最高峰の山であり、日本百名山、新・花の百名山、及び関西百名山に選定されている。

一等三角点が置かれている頂上は滋賀県米原市に属し、周辺は琵琶湖国定公園に指定されている。

今登ってきた伊吹山ドライブウェイを振り返ってみる。

これから登る山頂。
一般に9合目から山頂までは30-40分かかるとされる。

西遊歩道は坂が緩やかで最も上りに適している。
中央遊歩道は山頂へ直登するもので、最も急坂の最短コース。
東遊歩道は最も距離が長い、下り専用(案内看板より)である。

そのままよ 月もたのまじ 伊吹山
【歌意】
月が見える見えないで一喜一憂している心の中では、すでに煌々と照る月が宿っているではないか。
芭蕉はついに、仏頂の月を手に入れたのである。

芭蕉は約5カ月の「奥の細道」を大垣で終えた、その大垣から伊吹山を見て詠んだ句である。

無難な西遊歩道を登る。
山頂まで約40分。

アカショウマ(赤升麻)  ユキノシタ科

純白の花穂は、とても涼やかです。
地下茎の色が、赤黄色であることから名付けられました。
高さ40~80cmの多年草。

シシウド(セリ科シシウド属の多年草)

和名は、強剛な草なので、冬場に猪が掘り返して食うのに適していることからついたとの事。

根は薬として独活(ドッカツ)と呼ばれ、掘り起こした根を洗浄して陰干しし、煎じて頭痛薬や、薬酒、風呂に入れて用いるとの事。

シシウドが青空に映える。

ヤマホタルブクロ キキョウ科  ホタルブクロ属

茎の高さ40-80cmで、葉は互生し卵形で鈍い鋸葉がある。

ルリトラノオ  オオバコ科ルリトラノオ属の多年草。

瑠璃色をした虎の尾に似た花であることが和名の由来である。
葉が輪生するクガイソウに似ているが、葉が対生する。

コオニユリ
図鑑で見ると、オニユリにそっくり。

見分けは、葉の付け根にムカゴがつかないことと、茎の色が緑色なこと。

中国から渡ってきたと言われている渡来種。
球根は食用にもなるし、漢方薬としても利用される優等生。

クサタチバナ(草橘)   ガガイモ科

ミカンに似た白い花を咲かせることから、クサタチバナ。
高さ30~60cmの多年草。

メタカラコウ

漢字では、「雌宝香」と書く。 
宝香というのは、竜脳香のことだそうだ。

よく防虫剤や香料として使われているあの竜脳香である。
この花の根っこが、この匂いに似ているというのが、名前の由来。

キンバイソウ(金梅草)、キンポウゲ科キンバイソウ属に属する多年草の一種。

鮮やかな黄色から山吹色で、直径3-4 cmの花をつけるが、花弁のように見えるものは蕚で、真ん中の芯のうち外側の太いものが花弁であり、細いものがおしべである。

花がウメのように咲き、黄色であることが金梅草と名付けられた。

キバナノカワラマツバ (黄花河原松葉)

アカネ科ヤエムグラ属の多年草。
伊吹山には白花のカワラマツバ、淡黄色のウスギカワラマツバも自生しているそうです。

アキノキリンソウ 秋の麒麟草 キク科 アキノキリンソウ属

高さ30~80cm。
葉は互生し、下部の葉は卵形、上部の葉は披針形で長さ4~9cm、幅1.5~5cm。
基部で細くなり葉柄の翼につながる。
葉の縁は波打つようにくねり、浅い鋸歯がある。

ヤマアジサイ(山紫陽花)サワアジサイ(沢紫陽花)  ユキノシタ科

アジサイの花色は、地質や肥料、日照などの気象条件で変化すると言われますが、
隣り合って色とりどりの花を咲かせている伊吹山のヤマアジサイは、変異と考えられ、
花まつりにいただくアマチャも、ヤマアジサイの変種と考えら、伊吹山でも見られるそうです。

目指す山頂の小屋が見えてきました。

伊吹山は、古より人々の生活と密着してきた歴史と伝説に彩られた山で、『古事記』や『日本書紀』にもたびたび登場します。

【伝説】日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き、その荒神を征伐するために伊吹山に登られました。

山頂近くに達すると大きな白いイノシシが現れたため、尊は弓矢で威嚇してさらに進まれました。

しかし、なぜか急に毒気にあたって熱を出し気を失われました。
実は、このイノシシは山の神の化身で、その怒りにふれたからです。

家来は、尊を背負って退散し、麓の清水が湧くところで尊に冷水を含ませると、たちまちに目が醒められました。
以来、この地は醒ケ井と呼ばれています。

また、一説には、日本百名水の一つ、山麓の大清水の泉神社湧水とも伝わります。
その後、尊は伊勢の「能ぼ野」に行かれ、ここでで亡くなったとされています。

裏手に石が積み上げられた小屋。

山頂一帯の蓮上には、経塚・阿弥陀磯・全崩・弥勒等があり、周辺には三ッ頭・黒竜・白竜・百間廊下・泉水(風呂)七高山・獅子頭と続く。

更に下れば仏ケ谷・占治原・平等岩・手掛岩・蔵ノ内・不動滝など数多くの地名、伝承、遺構があり、修験とのかかわりを深く感じさせる。

帰りは最短コースの中央遊歩道を降りる。

高山植物と青空、そして何よりも風が爽やかだ。

そよ風の中駐車場を目指す登山者の列。

西日を浴びて光る琵琶湖、幻想的だ。
竹生島が見えている、そして右側の山は小谷山。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

伊吹山へのアクセス、行き方歩き方

伊吹山ドライブウェイ公式サイト

住所:滋賀県米原市上野ほか
TEL:0749-58-2227 FAX:0749-58-1197 米原観光協会

JR東海道本線「近江長岡駅」下車 バス 「伊吹登山口」下車、徒歩10分

関ヶ原IC・長浜ICから20分