長浜散策 路地


撮影会の散策には必然的に路地と遭遇する機会が多い。

尋ね歩く先にテーマとなる被写体を見つけることが多い。

今までは漫然と歩いていたと思うが、坂越浦に行ったとき坂越まち並み館のおばちゃんから通りを歩くだけではつまらん、路地路地に入り、路地から大通りをのぞくといいと教えられる。

坂越浦 レトロ散歩
播州赤穂から一駅、「坂越」 日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前 … 続きを読む →


それからというもの路地の散策が一段と楽しくなった。

湯浅を訪れた際も坂越浦のおばちゃんの言葉を思い出しながら歩いた。
熊野古道と醤油の街ノスタルジック散策
湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る … 続きを読む →


すると地元の同好の士と出くわす、定例会が近づいたがテーマがまとまってないという、最後はここしかないねん・・・と

小生も定例会が来週に迫っている、ろそろそ纏めに入らないと・・・

米川を散策した当時が思い出される。

考えていたら、路地の整理をしていないことを思い出し今更のように辿っている。

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長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 – 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 – 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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長浜 米川に沿って


今日は倶楽部の撮影会で長浜に行く。

近江と美濃の国境に聳える伊吹山、彦根城からは遙か彼方という距離感でしたが、長浜辺りからは間近に望むことができます。

北國に来たという実感。

琵琶湖の北東岸を北上し、余呉湖の北の柳ヶ瀬、県境の栃ノ木峠をへて越前・加賀に通じる北国街道は多くの商人、旅人、武将らが頻繁に利用、長浜はその宿駅として、また湖上交通の要として栄えた町です。

港町の風情を残す舟板塀や紅殻格子(べんがらごうし)、虫籠(むしこ)窓の家々や白い土蔵を持つ老舗の商家、道中安全を願った常夜燈などが建ち並び、昔の面影を色濃くとどめています。

作品作りを頭に描きながら散策。

街を歩いていて気になる存在が長浜まちなか地域を流れる米川(地元では「よねがわ」と呼ぶ)は、姉川水系とともに1級河川であり滋賀県の管理対象です。

米川も高度成長期にはご多分にもれず汚染を受けたが、地元NPOの尽力により清澄な流れを取り戻している。

長浜地区地域づくり連合会は、米川の”川そうじ”を流域自治会が総出して、毎年そうじを行う地域に密着している川で、滋賀県立大学環境科学部の学生が全国的に見ても、住居地域を流れる川として大変きれいな川で、地元の方がもっと自慢されてよい川であると評価。

川相は上流部は農地を流れる用水路状、中流は市街地を流れる都市河川、下流においては舟運にも利用された掘割と、変化を見せる。

川辺の石積みを見ると、あちこちに “かわど” と呼ばれる石段がある。

家庭では野菜や漬け物の洗い場として、商家では運搬や往来の手段として、ずっと昔から、この米川は長浜の町衆の暮らしと深く結びついてきた。

湧水を水源とする大変きれいな川で、夏はアユが遡上し、冬はカモなど渡り鳥が憩う川です。

流域の元浜町には往時を偲ばせる風景がよく残され、近年では観光スポットとなっている。

一級河川の起点は長浜市川崎町の羽織町。

源頭は長浜市北東部の東上坂町(ひがしこうざかちょう)の姉川扇状地。

南西流し、長浜市中心部を流れ、長浜城の南・港町と朝日町の境で琵琶湖北岸に注ぐ。

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ヒガンバナ群生地 桂浜園地


OB会の撮影会で桂浜園地訪問。

秋の彼岸頃に咲くことからその名がついたというヒガンバナ(別名:マンジュシャゲ)は、高島市内でも湖岸や田のあぜ道などで見ることが出来ます。

中でも、広範囲にわたり群生している場所が今津町の桂浜園地。

様々な色の花が楽しめると聞いていたので楽しみにしていたが、白花が一カ所あったのみでがっかり。

湖岸ならではのポイントが、琵琶湖から昇った朝日が遮られることなく彼岸花を照らす神秘的な風景!

日の出前から多くの人がカメラを片手に待ち構える撮影ポイントにもなっています。

と、いううたい文句だが大阪からではホテルでもとらない限り無理。

今日は近江今津からタクシーに分乗。

色々と事前に想定したことはほとんど果たさず、定番の撮り方に終始。

背景に色々と選択、楽しめた。





湖岸での玉ボケとヒガンバナのコラボを期待していたが、湖岸にヒガンバナは無く残念。

波間の玉ボケを利用した多重露光に挑戦。

想定した域に達せず。

帰りは徒歩で駅までと決定。

ルートでの撮影を楽しみながら歩く。

松に寄生したススキを発見。



湖岸では多くの人がキャンプを楽しんでいます。

コロナが終息し、やっと日常を取り戻せた喜びが伝わってきます。

沖では若者が水上バイクに興じています。

石田川に群舞するサギ。

こちらの喫茶で今日の反省と来月の予定を打ち合わせ。

近江今津と言えば思い出深い土地です。
ここを起点に日本海方面の旅を楽しみました。

沢山ある中から一部を紹介。

竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →


とらふぐ養殖北限の地で食す若狭フグ
『若狭ふぐ』とは、日本で最北の養殖生産地、若狭湾での養殖されたトラフグのことで、 … 続きを読む →

名水百選 瓜割の滝
天徳寺縁起によれば、今からおよそ1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大 … 続きを読む →

鯖街道の宿場町 熊川宿
若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村( … 続きを読む →

春先取り 火と水が織りなす荘厳の世界 お水送り
天平勝宝 4年(752)インドの渡来僧・実忠が二月堂の建立の時、修二会を催して全 … 続きを読む →

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江戸 … 続きを読む →

秘密にしておきたい紅葉の名所 旧秀隣寺庭園
道元が越前下向のおり当地の地形の様子が宇治興聖寺のそれに似ているのに驚き、建立す … 続きを読む →

春を告げるザゼンソウ
今津町は座禅草群生地としては日本の南限とされています。 饗庭野(あいばの)の伏流 … 続きを読む →

冠雪したメタセコイヤ並木
このところの寒波で冠雪したマキノのメタセコイヤ並木。 マキノピックランドを縦貫す … 続きを読む →

アクセス
●JR近江今津駅より予約乗合タクシー「あいあいタウン線」に乗車
ー「北仰東(きとげひがし)」下車後、徒歩約10分
●JR近江今津駅より徒歩約42分

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伊吹山の花々


近年、鹿等の食害に加え、観光客の踏み荒らし、外来種の増加によるお花畑の花が減少してしまいました。

数年前から植生保護の強化を図り、少しずつ以前の姿を取り戻しつつあります。

画像をクリックして拡大して見れば、花が復活しつつある様子が見れます。

2013年の訪問記雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →


伊吹山は新幹線に乗って大阪方面へ向かうと、米原の手前で右手に見える山です。

山の西側が大きく削れています。

伊吹山で石灰岩を掘っていることを知っている人の中には、あんなに自然破壊をして・・・」と言う人もいます。

でも実は白く山肌が露出しているところは元々あった石灰岩の崩壊地で、掘っているところは上部です。

伊吹山は岐阜県春日村と滋賀県伊吹町の境にあって、豪雪地帯であることや、山頂付近の薬草で有名です。

また岐阜県春日村では石灰岩の崩れたものが、再度固結してできた “さざれ石”でも有名です。

滋賀県の北部に位置する伊吹山(標高1377m)は、日本海側と太平洋側の気候が入り交じる気候で、地質が石灰岩質ということもあり多くの動植物が生息しています。

そのような地理的、地質的、気候的な立地条件から北方系要素の植物、多雪型日本海要素の植物、好石灰岩系の植物が見られ、特殊な立地条件から伊吹(イブキ)の名前を冠した植物名が多いのも特色です。

そんな伊吹山でも近年の地球温暖化やニホンジカの食害、人の登山道以外での踏み荒らし等、複合的な要因で伊吹山独特の植生にも変化が起こっています。

外来種や平地植物が繁殖による在来種の減少や絶滅、交配種の増加などにより、お花畑は以前の面影を無くしつつあります。

地元では、地方自治体や民間のボランティアグループの方々が保全のために啓蒙活動や整備作業を続けられています。

以前に比べ花数や種類が減っているとはいえ、やはり近畿の他の山に比べれば圧倒的に多くの花が咲いています。

伊吹山自体、麓と山頂部では、概ね1200mの標高差があるため、麓から3合目、3合目から5合目、5合目から山頂周辺と咲く花も変化します。

イブキタンポポ

山地の日当たりの良い所に生える多年草。
葉は少なく長さ25~35cm内外、花茎は葉と同じかそれより少し長い。

伊吹山特産種のためイブキの名がついた。
本種は近畿地方から中部地方にかけて分布するセイタカタンポポとエゾタンポポの中間種である。

ボタンネコノメソウは岐阜県以西の本州、脊梁地帯から日本海側に分布する。
山間の渓流沿いや水の滴るような斜面などに生育する。

茎の先端には葉と同じ構造の苞があり、中心に向かって黄色になる。

中心部の花は暗い赤褐色で周辺の苞と強いコントラストを示している。
苞は光を反射する構造になっているのか、暗い渓谷の中でひときわ目立つ花である。

ブナ

日本海側ではしばしばブナが優先し純林を形成するが、太平洋側に降りると純林はあまり見られず、ミズナラなど他樹種との混交林を作る。

ショウジョウスゲ(猩猩菅)

低山から高山の草地に生える多年草。
ショウジョウスゲの名は雌小穂(果穂)が赤褐色をしていることからつけられた。

ショウジョウとは体毛が赤褐色をした類人猿のオランウータンを指す。

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夏も近づく6月 伊吹山へ


古くから神が宿る山として信仰の対象であった。

室町時代後期には織田信長により、山上に野草園が造られたとされている。

岐阜県関ケ原町から東尾根を登って9合目まで至る有料道路で、9合目には500台以上を収容できる駐車場のほか、展望設備や飲食店、売店を営業している。

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明治以降に近代登山の対象となった。

大正には中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになった。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まった。

1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化した。

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた。

『古事記』にはヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。

伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の1つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている。

梅雨期の醒ヶ井宿
醒井宿は、近江国坂田郡にあった中山道(中山道六十九次)61番目の宿場であり、現在 … 続きを読む →

『古事記』『日本書紀』に、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の帰りに、伊吹山の神が白い猪の姿であらわれた。

その猪が氷雨(雹)を吐くと、ヤマトタケルは前後不覚におちいった。

やっとの思いで山をおり、「玉倉部(たまくらべ)の清水」に到って休憩すると、気分が回復してきた。

山頂部にはその日本武尊の石像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。

登山しやすい山と言われていますが、登山道では、大きい岩が露出していたり、石がゴロゴロしていて歩きづらい箇所もありますので登山に適した靴や服装に心がけてください。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られた。

画像 雪渓が見られます、さすが伊吹。

山頂周辺には高山植物を含む野草群落が花畑として保護されており、夏季には色とりどりのお花畑となる。

しかし、近年、鹿の食害により草花が激減、往時の姿はない。
2013年の訪問記雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

伊吹山ドライブウェイ終点の駐車場からは遊歩道が整備されている。

遊歩道は3本が整備されていて、20分ないし40分程度で山頂に到達できる。

伊吹山山頂より南西を望む。

山頂の伊吹山寺山頂本堂、その左に伊吹山之神「白猪」の像。

山頂には5軒の売店が営業していて、季節によっては一部の店が日中の売店営業だけでなく夜間登山の仮眠所(収容人数350人)として開いている。

山頂部にはその日本武尊の石像が。

伊吹山の西側では滋賀鉱産(株)伊吹鉱山によって石灰岩の採掘が行われています。

2003年3月までは住友大阪セメント(株)伊吹鉱山として、セメント向けを中心に採掘が行われていましたが、現在は骨材、路盤材向けに採掘が行われています。

この石灰岩鉱山の部分は,この付近の地層ができあがって以降の断層運動による破砕が認められ,古くからの崩壊地となっています。

鉱山の初期は崩壊地の下でこの崩壊物だけを採っていました。

現在はこの崩壊地の上部を採掘しており、最終的には急傾斜の破砕を受けた石灰岩や石灰岩の崩壊物を採掘して安定した山腹になる計画です。

緑化も採掘地だけでなく、崩壊地に対しても行われています。

下山は中央登山道を通れば20分ほどで9合目まで。

中央登山道はほとんどが木の階段で歩きやすい。

イヌワシハンター達は、カードレールの外側に入り断崖絶壁の足場の悪いところスレスレに三脚を立てて切り立っている崖の下を飛ぶイヌワシを上から撮るという理想的な撮影が出来るが、足が竦んでしまい尻込みを感じ崖の下が見えるところまではなかなか行けない

(崖から1m位離れる)が、崖スレスレに飛ぶことがあるそうで飛んでも何も見えないことがあると地元の人達が教えてくれた。

湖北野鳥センター
湖北野鳥センターには、「冬の三大スター」のオオワシ、オオヒシクイ(いずれも国の天 … 続きを読む →


伊吹山 バイクツーリング登山。

恋慕観音像様に「恋愛成就のお祈り」。

お花畑をめぐる西遊歩道からの山頂部。

観音様の足元のチェーンには伊吹山ハートロックキーがズラリ!

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湖北野鳥センター


湖北野鳥センターには、「冬の三大スター」のオオワシ、オオヒシクイ(いずれも国の天然記念物)、冬の使者コハクチョウを見ようと野鳥ファンが大勢訪れている。…

センター周辺の琵琶湖湖岸は、遠浅の湖岸が続き、ヨシなどの水生植物をはじめ、魚や鳥達の絶好の生活場所になっています。

四季を通してたくさんの野鳥が飛来し、観察できます。

今まで確認された野鳥は53科250種に及び、滋賀県全体で確認された種の約70%以上を見ることができます。

今日は強い北風が吹く一日でした。

センター前で何度もオオワシの狩りが見られた他、オオタカがオオバンを捕まえて食べる姿も見られています。
今日の確認種数は44種類でした。

湖北野鳥センターには、「山本山のおばあちゃん」にピントを合わせてくれたフィールドスコープが5台ほどあるので手ぶらでふらっと立ち寄ってもオオワシを見ることができます。

驚いたのが1998年から23年連続での飛来が確認されていて、年齢は人間でいえば既に80歳以上!!!

だから愛称が「山本山のおばあちゃん」

国の天然記念物のオオワシは北海道東部で集団が越冬することで知られるが、山本山にはほぼこの1羽だけがやってくる。

好んで食べるのはブラックバスやニゴイなど琵琶湖にすむ魚。
好物が豊富にねぐらの近くにあることも引きつける要因とみられる。

2月下旬には再びロシアへ向けて羽ばたいていく。
名残を惜しむわけもなく、孤高のオオワシは悠々と北を目指す。

森の必殺仕事人

タカの仲間は、鋭い爪とくちばしで獲物をダイナミックに捕まえるイメージがありますが、実際の狩りはとても静かなものです。

獲物となる鳥も黙って食べられるわけにはいかず、少しでもタカの姿が見えると一目散に安全な場所に逃げてしまいます。

そのためオオタカなどのタカの仲間は、なるべく目立たないように木の茂みに隠れ、獲物が油断したところを一瞬で仕留めます。

しかし、狩りをした後に油断すると、カラスやトビなどに見つかって、逆に獲物を奪われてしまうこともあります。
(センターの説明文より)

ホンドギツネ(本土狐、Vulpes vulpes japonica)は、北半球に広く生息するアカギツネの日本に分布する亜種。

頭胴長52-76 cm、尾長26-42 cm、体重4-7 kg。

体色は赤みがかった黄色でいわゆる「きつね色」。
腹部、頬、尾の先は白い。

尾は他の動物に比べて毛がふさふさとしているので太く見え、長い。

湖北の伝説のツキノワグマ

このツキノワグマは2010年長浜市合併の際に当時の西浅井町役場からやってきたものです。

オスの成獣で体長は160センチを超えており県内でも最大級の個体です。

胸にはライフル銃で撃たれた大きな跡が残っています。

四足歩行のクマの前胸部に銃弾を浴びせるのは通常ではほぼ不可能で、猟師がいかに死線をかいくぐってこの大熊を倒したのかが伺えます。

至近距離で攻撃に転じたクマを撃ったのではないかと考えられています。
(センターの説明文より)

クリックして拡大して見てください、胸にはライフル銃で撃たれた大きな跡が残っています。

センターの人がバスを先導して、コハクチョウがいるタンボへ案内してくれました。

外は吹雪でバスから降りてみることはできませんでしたが車内からの観察です。

この向こうには300羽以上いるのたが、残念ながらバスは入れません。

センターでは毎日、コハクチョウがどこにいるか把握しているのでセンターに来られた時はきいてくださいということでした。

画像は「早崎内湖ビオトープ」の水鳥たち。

「早崎内湖ビオトープ」は、干拓田の4分の1を灌水し調査を行っている、日本最大のビオトープ実験地。

長浜市早崎町の干拓田は、昭和39年、食糧増産のため、内湖を埋め立てて作られた水田です。

しかし、現在では豊かな自然を取り戻すため、干拓田を元の内湖に戻そうとする動きが進んでいます。

ビオトープ実験調査がはじまってから、コハクチョウが年々増え現在では滋賀県で有数の飛来地となっています。

※ビオトープ(biotope)は、ドイツ語で「地域の野生生物の生息空間」という意味。

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北國街道木之本宿散策


北国街道と北国脇往還の分岐点があり、古くから交通の要衝・宿場町として栄えた伊香郡の中心地であった。

駅の中には、黒田家発祥の地・木之本と官兵衛ゆかりの地の案内があります。

本尊は地蔵菩薩(秘仏)。
境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。
眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。

本堂
地蔵堂とも呼ばれる。

本尊である地蔵菩薩立像の両脇に閻魔王立像と倶生神立像が祀られている。
地蔵菩薩立像及び両脇侍は秘仏である。

地蔵大銅像

日本一の大きさという地蔵菩薩の銅像。
本尊の写しとして約3倍の大きさに造られたもので、明治27年(1894年)に建立された。

建立の際、県内はもとより愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして作られた。
第二次世界大戦中、当時の住職や東條英機の妻である東条勝子などの援助により、供出命令を免れた。

平成18年(2006年)に「御戒壇巡り」が開かれた。
これは参拝者が厨子の下を巡るもので、31間(56.7メートル)の漆黒の闇を歩き、錠前に触れることができる。

この錠前は地蔵菩薩の手と五色の紐で結ばれている。

床板は相当古いもののようで貫禄がある。

木之本宿の本陣だった「竹内五左衛門家」には、江戸時代、大名などが宿泊した宿札や記録が残されています。
その後、22代目の竹内五左衛門氏が本陣薬局を開業しました。

なお、竹内五左衛門氏は、1893年(明治26年)、栄えある「日本薬剤師第一号」の免状を取得された方でもあります。

馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。

木之本のかつてのメインストリートである「北国街道」は、昭和の初め頃までは、道の中央に小川が流れ、馬や牛をつなぐ街道並木がありました。

現在は、小川は埋め立てられ、街道並木は舗装道路になっていますが、街道沿いにはうだつのある古い町家が連なり、宿場の面影を色濃く残しています。

作家・司馬遼太郎氏の歴史小説『功名が辻』の主人公の山内一豊が名馬を購入した馬宿平四郎邸もある。

足を延ばして「鶏足寺」で“紅葉”の鑑賞もおすすめ
秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →

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余呉湖のワカサギ釣り


釣ったワカサギを天ぷらで食す!冬の長浜満喫ツアー

タイトルは勇ましい、当方釣りをする気はなく雪景色の余呉湖が撮りたくて参加。

余呉湖は周囲6・4キロ、面積1・97平方キロの自然湖。

最大水深13メートル。
天女羽衣伝説が伝わり、戦国時代には織田信長の後継を争って羽柴秀吉と柴田勝家が激戦を繰り広げた賤ケ岳合戦の舞台となった地が広がる。

長浜を出発する時点では晴れていたが湖北に近づくにしたたがって雪か激しくなってくる。

湿った雪が容赦なくカメラに降りかかる。

視界も悪く吹き付ける雪に目をあいていられない。

遠くはかすんでしまって撮影どころではない。

1時間に1本の列車が走り去る。

羽衣の像を撮影しようと思っても雪が深く近づけない。

早々に切り上げ食事予定の食堂『舟戸』へ。

1月10日に2520匹の最高記録更新した名人が来ていた。

誰かが聞いた、「今日は釣れますか」「釣れないね・・・・・」

結果、全参加者で釣果「ゼロ」、ずぶ濡れで帰ってきました。

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

去年の5月に賤ヶ岳に登頂した時もずいぶんの降りでボトボトになった記憶がある。

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紅葉の慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は、滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。
恵日院の境内にある。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所である。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。

正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺の建物である。
建物は国の重要文化財に指定されている。

堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)が祀られていた(現在は延暦寺国宝殿にある)。

堂建立と同時に整備された石燈籠16基(江戸時代初期)

あと慈眼堂の隣には天海僧正が後陽成上皇より京都にある法勝寺の建物を下賜されてこの地に移築建立した寺である滋賀院の門跡があります。

この地は比叡山延暦寺の麓の大津市坂本にありますが、天海僧正は織田信長に焼き尽くされた比叡山延暦寺の復興に尽力しています。

それら含めた生前の功績を評価され天海に対して朝廷より贈られた諡号が慈眼大師で、その天海僧正を祀る廟所だから慈眼堂なんですね。

非常に静かな場所ですが、厳かな雰囲気の場所でした。

慈眼堂の横には、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、清少納言、紫式部、和泉式部、新田義貞らの供養塔が並んでいる場所もありました。

あくまでも供養塔ですが不思議な組み合わせです。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

鵜川四十八体石仏群のうち13体 – 天文22年(1553年)に六角義賢が高島郡(現・高島市)鵜川に亡き母の菩提を弔うために建立した48体の阿弥陀如来坐像のうちの13体。

この13体は江戸時代初期に当地に移されたもの。

>白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

天海の廟所 慈眼堂
慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。 慶長12年 … 続きを読む →

黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院
金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。 小堀遠州作 … 続きを読む →


暴れん坊将軍 II 「わらべ地蔵の子守唄」では、汐路章演じる地回りが立てこもる寺子屋。

このときはお堂自身も使われている。

同じく II の「疑惑を呼んだ小さな命!」では、「上様の子」を身籠った大奥の中﨟の恋人が隠れるお堂。「吉宗婚約、五郎左は家出!?」では、珍しく上様と相愛になる娘が、加納じいとともに監禁されてしまう飛鳥山の荒れ寺。

いずれも殺陣はお堂前で行われ、灯籠群の間を行き交っての立ち回りとなる。

闇の仕事師たちとお庭番が死闘を繰り広げたこともある。
ツナギのシーンなどには、灯籠の開口部が効果的に使用される。

第三シリーズの「危うし!妖刀に正義ありや」では、山田朝右衛門が刃引きの刀で灯籠を両断する場面もある。

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