二月堂裏参道


手向山八幡宮への道、柿がたわわに実っている。

鏡池、逆さ東大寺。

こちらも東大寺大仏殿を写している。

池へのリフレクションが美しい。

「奈良の鹿愛護会」の虐待が問題視されているがこの辺りの鹿は大丈夫なのか。

紅葉の名所、手向山の山麓にあり天平勝宝元年(749)東大寺大仏建立のため、九州豊前国(大分県)宇佐八幡宮より東大寺守譲の神としてむかえ、まつられている。

文治4年(1188年)に東大寺大勧進職の重源によって仮殿が建てられ、建久8年(1197年)に社殿が再建される。

その後、建長2年(1250年)に北条時頼によって境内地が東大寺千手院の跡地である現在地に移された。

東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより創建時の建物の大部分を失っている。

二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれた]が、寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。

現存する二月堂はその直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されたものである。

後世、東大寺を開山した初代別当・良弁が2歳のとき、大ワシにさらわれ、木の上に置き去りにされたという伝説の舞台とされた杉。

初代は樹齢600年、高さ7丈(約21.2メートル)の巨木であったが、昭和36年(1961)の台風により倒れ、現在は4代目。

東大寺修二会(お水取り)上堂の松明を見る
投稿日時: 2015年3月7日
修二会のシンボルのような行事、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」。 … 続きを読む →


お水取りで有名な東大寺二月堂。
裏参道は二月堂を下ったところにあります。

土塀に囲まれ、すごく絵になる場所なので、スケッチをしている人がいつもいる場所です。

静かに散策するには絶好の場所です。
裏参道を進むと東大寺大仏殿の裏側や正倉院の方向に出ます。

この参道は、通常大仏殿方面から二月堂に向けてアクセスする際に用いる参道とは異なり、東大寺の小さな塔頭などの間を通り抜けていくルートとなっており、メインの観光ルートとしては扱われていないため、「裏参道」と呼ばれています。

司馬遼太郎もお気に入りという二月堂裏参道
奈良、東大寺大仏殿の裏参道、そう呼ばれる石畳と土塀の小道は「東大寺で一番美しい」と地元の方も絶賛。

「二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通り過ぎてゆくと気分がいい。

東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁や柱に支えられつつ西方の天にむかって大きく開口している。
西風を啖(くら)い、日没の茜雲を見、夜は西天の星を見つめている」~こう作家の司馬遼太郎さんは「街道をゆく 奈良散歩」で記しています。

夕方の二月堂裏参道。西日に土塀や二月堂本体が照らされる風景からは、少しもの悲しいような雰囲気が感じられますが、それがかえって風景の素晴らしさをしみじみと感じさせてくれます。

二月堂の裏参道は石畳と土壁(築地塀/ついじべい)の風景が落ち着いた雰囲気をかもしだしていて、心落ち着くたたずまいです。

夏に来れば緑が美しく、秋は紅葉と何度来ても違った表情を楽しめます。

観光客も少なく、二月堂の裏参道はそういった意味で東大寺の穴場的な場所です。


鹿たちも静かに群れています。

池に面して鹿のシルエット・・・・

広場では学生たちが休憩しているのでしょうか・・・・・

関連記事



≪テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!【関西発】列車・飛行機で行く全国イルミネーションツアー・旅行2023-2024が好評です。

年末年始におすすめの国内旅行特集|温泉宿・ホテル予約【2023-2024】

【11/30まで】10~3月出発 最大15,000円引き! JAL便利用限定各種クーポン配布中!(一部除外日あり)
国内宿泊・ツアーに使えるクーポン配布中
年末年始の旅行を条件から探す

旧柳生街道「滝坂の道」 


11年ぶりに滝坂を訪れた、破石町バス停までバスを利用。
バス停すぐのところに頭塔があるのだが整備中ということで入れず。

前回の訪問記を載せておく。
不思議な奈良のピラミッド 頭塔
頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。 1辺30m、高さ10m、7段の階 … 続きを読む →


今朝までの雨が止んだところ、盛んに上昇気流が見られる。

団体が追い抜いていく。

春日山と高円山の間の谷川に沿って登る、能登川の渓流に沿って登る山道が滝坂の道です。


滝坂妙見宮の入口付近、進入禁止に何っている。

滝坂妙見宮は日蓮宗春日山教会ともいい、創立は明治42年。
昭和の初めには近畿一円に教線を広げ、参道は昼夜を問わず参詣者で賑わった。

だが、第二次世界大戦の影響で信徒は四散し、昭和36年の台風被害で建物は壊滅的な被害を受けたという。

旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の街をつなぐ唯一の道として、米・薪木・日用品を馬の背に積んだ人々が往来し、また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもあります。

今朝までの雨で石畳がとったりと濡れて風情がある。

古くから武芸者や様々な物資を運ぶ人などが利用した重要なルートだった滝坂の道は、江戸時代に奈良奉行によってかなりの部分が「石畳」が敷かれた道に整備されている。

現在もその石畳がそのまま残されているために、歴史的な風情をしみじみと味わいつつ、あふれんばかりの「自然」を体感できる場所として、奈良市内では最も人気のあるハイキングコースとなっています。

お先に、と言って若い女性の3人組が追い抜いていく。

能登川は今朝までの雨で水量豊か。

寝仏は、胸の前で、左手は拳(こぶし)を握り、人さし指だけ立て、その人さし指を右手で握る智拳印を結び、下側に宇宙を構成する「空・風・火・水・地」の五元素を意味する「キャ・カ・ラ・バ・ア」が刻まれています。

と、ネットには書いてあるのだがよく見えない。

山肌の巨岩には三体地蔵が彫られているが午前中にここを訪れたのでまるで逆光、鮮明に見えない。

その上方に鎌倉時代の作といわれ、夕日を受ける方向に向かって彫られていることがその名の由来という夕日観音が見える。

もう少し登って見たかったのですが、石畳に足を取られ転倒、通行中の団体さんに助けてもらう。

そろそろ潮時かなと、昼食をとり下山する。

円成寺までの旅程。
ハイキングコース<約9.5km>

経過地 区間距離
破石町バス停
寝仏 2000m
夕日観音 300m
朝日観音 200m
首切り地蔵 700m
春日山石窟仏 500m
地獄谷石窟仏 300m
峠の茶屋 500m
八坂神社 3000m
円成寺 2000m

前回の訪問記を載せておく。
石畳の旧柳生街道「滝坂ノ道」を歩く
奈良から春日山を越えて、忍辱山(にんにくせん)円成寺を通り西から柳生へ至る、通常 … 続きを読む →

関連記事



≪テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!そろろそろ紅葉の季節

年末年始におすすめの国内旅行特集|温泉宿・ホテル予約【2023-2024】

【11/30まで】10~3月出発 最大15,000円引き! JAL便利用限定各種クーポン配布中!(一部除外日あり)
国内宿泊・ツアーに使えるクーポン配布中
年末年始の旅行を条件から探す

レトロな今井町町並み散歩 パート2


倶楽部の定例会用に作品用にレタッチをしたものを掲載します。














関連記事



≪テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!そろろそろ紅葉の季節

金沢も中々いいよ、良く通いました。
幽玄空間 兼六園
今回は兼六園ライトアップ【早春の段】、3月11日(金)~20日(日)の短い期間で … 続きを読む →


霞ヶ池の周囲は映り込みが特にきれいだ。

荘厳空間 金沢城
金沢城ライトアップ冬の段、荘厳な雰囲気の中にうかぶ金沢城。 石川門は金沢城の搦手 … 続きを読む →

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

レトロな今井町町並み散歩


飛鳥川の流れにかかった蘇武橋を渡ると、現在も江戸時代そのままの情緒と風情を残す町、今井町があります。

飛鳥川のことをかつては蘇武川と言い、その付近には蘇武井、蘇武橋、蘇武田などの地名が残っています。

今井町の東の入り口にある大きな木。

この「蘇武橋のエノキ」は、実は奈良県内で最初に指定された「景観重要樹木」でもあります。
樹齢はなんと400年を超えます。

今井蘇武橋公園として整備された飛鳥川沿いの縦長エリアに蘇武之井が二つ存在しています。

かつて、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出てき、今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、涸れることはなかったという。

今井町にはたくさんの鬼瓦が残されています、鬼瓦の散策も面白いかも。

今井町に現存する最古の鬼瓦(1644年・寛永21年製)です。

歴史を感じるくぐり戸、主たる門扉に付属していて高さが低く頭を下げて通る門戸。

城門や寺や民家の門、防火扉の小さい扉、茶室の躙り口など。

こちらは今井町仕様の蓋。
町並みが描かれている。

河瀬権八郎兵部尉宗綱が石山本願寺の顕如上人から寺号を得て、今井郷に念仏道場を建てたことに始まる。

永禄年間(1558年~1570年)、川井長左衞門正冬と共に周辺に堀と土塁を形成し寺内町の体裁を整え、御坊(今井山)を開いた。

1877年(明治10年)、明治天皇行幸の行在所となった折りに西郷隆盛挙兵(西南戦争)の一報が入ったという逸話があるが、暴発の恐れがあるとの一報が入ったというのが真相のようである。

床屋らしくない佇まいの理髪店がありました。

【床屋】の起源は江戸時代にまでさかのぼります。
この当時、理髪業に従事する今で言う理容師さんのことを【髪結い】と呼んでいました。

床という言葉が性的な意味合いも持つ為か、【床屋】という言葉は差別表現にあたるとしてか、放送禁止用語の一つとなっています。

テレビやラジオなどのマスコミは 【理髪店】【理容院】などと呼んでいるようですが、歴史を辿れば【床屋】という言葉の意味や由来に性的な意味合いは関係ないことがわかります。

なぜ放送禁止・自粛用語になるのか、ちょっと不思議ですよね。 

豊田家は、福井藩の蔵元も務めた木材豪商が1662年(寛文2年)に建築。

建物正面2階の壁の両端に、「丸に木」の字の家紋があることから「西の木屋」と呼ばれてきました。

「西の木屋」の象徴とも言える定紋。
漆喰を盛り上げて木の字を記している。

「駒つなぎ」と呼ぶそうで、低いのが馬、高いのが牛。

「駒つなぎ」は今井町のシンボルでもありマンホールのデザインにもなっている。

16世紀中頃には、四周に環濠・土居を廻し、武装宗教都市がつくられたとみられるが、逐次東方を取り込み、文禄4年(1595)の太閤検地の頃には、ほぼ現状の規模に拡大されていたとみられる。

しかし、天正3年(1575)織田信長の軍門に降り、環濠、土居が埋めたとされているが、17世紀初期頃旧状に基づき復旧されたものが江戸時代を通じて維持された。

今西家住宅を映す今井町西側の環濠。

戦国時代の寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年(平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。

現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されているが、中には廃屋同然に放置された建物も存在する。

幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。

今日のお昼はこちらの古伊でいただいた。

お昼をいただいてすぐに雨がポツリと、夕方からは降ると予報されていたのでそれなりの覚悟はありましたが少し早すぎます。

本格的な降りにはならずに済みました、一安心。

消火用ホースの収納箱のデザインがいろいろあって面白い・・・
関連記事



≪テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!そろろそろ紅葉の季節

冬季の上高地などいかがですか

明日から閉山というギリギリの上高地を訪れた、9年前のことでした。


中千丈沢の押し出しから大正池を望む。
ゆうべはここから焼岳が見えたのに。
地吹雪舞う晩秋の大正池界隈
今回は上高地で霧氷を撮影すべく訪れたが・・・・・ 明日から閉山というギリギリの上 … 続きを読む →

吹雪の梓川沿いを河童橋まで
吹雪の中を河童橋まで歩くことにする。 中千丈沢の辺りも雪に埋もれる。 焼岳から穂 … 続きを読む →

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

長弓寺 趣ある古刹で楽しむあじさい


長弓寺(ちょうきゅうじ)は、奈良県生駒市にある真言律宗の寺院。

山号は真弓山。
本尊は十一面観音。

開山は行基と伝える。
国宝の本堂は鎌倉時代の密教仏堂の代表作として知られる。

長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。

『長弓寺縁起』によると神亀5年(728年)、鳥見郷の豪族である小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が聖武天皇に随行して狩りに出た。

同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ矢は誤って長弓に当たってしまい、長弓は亡くなってしまった。

不運な長弓父子を哀れんだ聖武天皇は僧・行基に命じて一寺を建立させた。

行基は十一面観音像を安置してこれを本尊としたという。

十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武天皇の弓を刻んだものだという。

なお「鳥見(登美)」は長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。
現在の奈良市西部から生駒市にあたる。

室町時代の応仁の乱の際には西軍の山名宗全方の落人が乱入して重宝を破壊し、戦国時代には織田信長によって寺領が没収されている。

盛時には塔頭が20院あったとされるが、明治時代の廃仏毀釈の影響により、現在は4坊が残るのみである。

境内奥に国宝の本堂が建ち右側(東)には伊弉諾神社、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、南には宝光院地蔵堂がある。

長弓寺本寺には住職がなく、薬師院、円生院、法華院の3つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。

この3つの塔頭は宿坊を営業し、精進料理を提供している。

アクセス

近鉄白庭台駅より徒歩13分
近鉄富雄駅より奈良交通バス(高山方面行き)「生駒上町」下車、徒歩10分(本数は少ない)
近鉄学園前駅もしくは近鉄学研北生駒駅より奈良交通バス「真弓四丁目」下車、徒歩15分

奈良でも有数のあじさいの名所として知られるこの長弓寺に、雨の合間に訪れました。

帰途、自然流菓子処「川端風太郎」に立ち寄った。

川端風太朗というのは屋号で、社長の名前ではない。

作家の山田風太郎さんの生き方に憧れてつけさせていただいた。

山田風太郎さんの奥様や娘さんにご来店いただいたこともあり店内にはその時いただいた山田風太郎さんの作品もありますのでどうぞご覧ください。

こちらは喫茶コーナー。

コーヒー、紅茶、ジュースと一緒にケーキなどをどうぞ。

春~秋ごろにかけて葡萄の実が実っておりますので、その季節には天井の葡萄を見ながらの木漏れ日の中のティータイムをお楽しみ。

素材にこだわるのが特徴のお店で、牛乳は岩手県産のノンホモ低温殺菌牛乳、小麦粉は国産、バターも国産の発酵バター、卵はヨード卵、果物は可能な限り有機栽培のものを使っています。

果物は季節の旬のものを使うようにしていますので、たとえば夏にはイチゴではなく桃や葡萄を使うようになったりと、無理に季節はずれの果物を使うより、旬の果物を楽しんでもらうようにしています。

味は全体的に甘さ控えめで、素材の風味を生かすように作っています。

ケーキだけでなく、焼き菓子も当店で製造しておりますので安心してお召し上がりいただけます。

自然流菓子処 川端風太朗 ホットペッパーで求めることができる。

龍の登るような雲を見た、これは吉兆か。

<バス、電車>
近鉄けいはんな線「白庭台」駅から徒歩10分
または近鉄けいはんな線「学研北生駒駅」から徒歩15分

近鉄富雄駅から高山方面行きバスに乗り「真弓橋(まゆみばし)」停留所下車。

富雄方面行きバスの場合は「蛇喰(じゃはみ)」停留所下車。

 <車>
近鉄富雄駅から富雄川沿いを高山方面へ8分。

富雄川沿いに高山の方へ向かって行けば、富雄川をはさんだ向かい側に見えてきます。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

奈良生駒の住宅街に佇む、隠れ家的なお店 創士庵

じゃらんで予約
きのこ料理 創士庵

ホットペッパーで予約
きのこ料理専門店 創士庵


道案内 学研北生駒駅より徒歩6分、駅から西南へ、次を左折、2つ目左折、2つ目右折、170m先左手です。


じゃらんでの予約はこちらから
きのこ料理 創士庵 じゃらん


ホットペッパーでの予約はこちらから
きのこ料理専門店 創士庵ネット予約の空席情報があります。

創士庵は1996年に日本では珍しいきのこ料理専門店としてオープン。

1階はカジュアルなダイニング、半2階は貸切可能なフロア。

きのこ料理専門店だけあり、常時10種以上のきのこを扱っている。

料理に先だちオーナーが使用しているきのこを説明してくれる。

奈良県産の白いキクラゲやキヌガサダケといった希少なきのこを食べられるのは、ここならでは。

全国で1軒しか生産していない、1晩で溶けてしまう幻のきのこ・ヒトヨタケといった珍しいきのこを食べられることも。

今日は一番リーズナブルなコースをチョイス。

きのこのおさしみ(各種コースの一品)

ささくれ一夜茸という、日本で1 人しか作ってらっしゃらないめずらしいキノコをスモークしてみたり、衣笠茸の食感を味わってもらったり、キノコワールドが堪能できる一皿!彩りキレイな盛付けに、目にも鮮やかな一品。見ているだけで心もはずむ気持ちに。


季節の味覚きのこ鍋(各種コースの一品)
各種きのこがどっさりの出汁のきいたコク深いきのこのお鍋。
立ち上るきのこの香りが食欲を掻き立てます♪

釜炊き舞茸ご飯(各種コースの一品)
新潟の石坂さんから送っていただく 半天然舞茸 と食味特の奈良産ひのひかりを、釜炊き!美 味しいです♪

舞茸ご飯です。
お代わりが可能でした。

この後長弓寺のアジサイを見物。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

司馬遼太郎と竹内街道


春日若宮神社付近から長尾神社まで、竹内街道は「竹内」「長尾」といった集落の間を通り抜ける。

石器作りの職人らが、この地に移り住んだことが竹内集落の始まりとされているらしいから、歴史は縄文時代にまで遡る。

今も草ぶきの大和棟が残り、また、格子戸や虫籠窓を設けた民家も点在し、風情漂う道 が残る。

当麻寺への参道、突き当りのあたりが當麻寺。

県道山麓線を東へ横断し、長尾の集落に入ったあたりで振り返ると、南に向かって伸びる金剛山地の稜線が幾十にも重なり、その美しさに思わずカメラを向けたくなった。

背後に岩橋山、そして大和葛城山、金剛山と続く。
『街道をゆく1・竹内街道』には、次のような記述がある。

昭和十八年の晩秋、竹内へ登るべくこの長尾の在所までゆきついたとき、仰ぐと葛城山の山麓は裳(もすそ)をふくらませたように古墳状の丘陵がむくむくと幾重にもかさなりあい、空間を大きく占める葛城の本体こそ青々しくはあったが、そのスカートを飾る丘々がさまざまの落葉樹でいろづいていて、声をのむような美しさであるようにおもえた。

くりかえしていうようだが、その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。

それも田のあぜから望まれよ。

視界の左手に葛城山が大きく脊梁(せきりょう)を隆起させ、そのむこうの河内金剛山がわずかに頂上だけを、大和葛城山の稜線の上にのぞかせている。

正面の鞍部が竹内峠であり、右手は葛城山の稜線がひくくなって、大舞台の右袖をひきたてさせるように、二上山が、雌その岳を左に雄岳を右になだらかに起伏させ、そして大和盆地からみれば夕陽はこの山に落ちる。

その西陽の落ちるあたりに、中世の浄土信仰の一淵叢であった当麻寺があり、ありはするが、その堂塔は露骨ではなく、樹叢にうずもれてかすかにうかがえる。
 「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」





大和国北葛城郡竹内というのが、竹之内峠の大和側の山麓にある。

車はそこをめざしているのだが、私事をいうと、私は幼年期や少年期には、その竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。

そこが母親の実家だったからだが、母親が脚気であったためその隣り村の今市という村の仲川という家で乳をのませてもらっていたから、竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。

村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変わらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。

それが、竹内街道であり、もし文化庁のその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾ー竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。

  街道をゆく 1 葛城山   司馬遼太郎 より 

画像は建て替えられているが司馬さんのいう河村家。

推古天皇21年(613年)に、難波と飛鳥京の間におかれたこの街道は、飛鳥時代にわが国最初の官道として栄え、大陸からの文物を大和飛鳥にもたらしました。

峠の東北にある万歳山城などの中世の城塁址はこのあたりを駆けめぐった大和武士たちの夢を偲ばせています。

中・近世には、伊勢、長谷参詣が隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めました。

竹内街道の風景には多くの文化人たちが筆を取り、貞享5年に松尾芭蕉が河内に向かい、幕末嘉永6年に吉田松陰が竹内峠を経て儒者を訪ね、文久3年には天誅組の中山忠光等7名が志果たせぬままここに逃走しています。

この地は、芭蕉の門人千里の郷里で、芭蕉は貞享元年(1684年)秋千里の案内でこの地に来り、数日間竹の内興善庵に滞在している。

さらに元禄元年(1689年)春再びこの地を訪れ、孝女伊麻に会って、その親を思う美しい心にこの上もなく感激し、「よろづのたつときも、伊麻を見るまでのことにこそあなれ」と友人に手紙を送っている。

俳聖芭蕉は貞享元年秋、元禄元年春その他数回当地を訪れたと思われ、数々の句文を残している。

なお、『野ざらし紀行』によると、芭蕉は1684年(貞亭元年) 9月に門人千里の案内で彼の故郷竹内村を訪れ、以下の句を残している。

芭蕉の足跡を記念して1809年に建てられた「綿弓塚」が、造り酒屋の古い屋敷を改装した無人休息所敷地内にあり、竹内街道の散策の拠点となっている。


老女伊麻旧跡(法善寺)

伊麻は父が病に伏せた時、鰻を食べさせればよいと人に教えられましたが、山里ではどうしようもありませんでした。

しかし、あきらめることができず、何とかして鰻を食べさせてやりたい―そんな伊麻の願いが天に通じたのでしょう。

夜がふけて大分遅くなったころ水がめの中で音がしました。

何だろうと思ってのぞいてみると、何とそこには鰻がいたのでした。

喜んだ伊麻はさっそく料理をして父に食べさせると、病いはたちまちのうちに治り、もとの元気な体になりました。






私ども子供のころにはこの池は山林の嵐気を映して、池心がおそろしいばかりに青く、他の地方と同じように主がいるといわれ、それを理由に子供たちが泳ぐことを禁じられていた。

しかし私は真夏にはさんざんこの池で泳いだ。(上池改修の石碑)

子供たちはカミの池を怖れていたが尊敬もしていた。
なぜなら、これほど大きい池はちょっと近在になかったからである。

「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちからきかれたことがある。
デライ、というのはドエライということで大きいという意味であった。(上池)

私は(中略)大阪からやってくるという立場上、村外の知識はかれらより多く持っていた。
「デライ」と断定すると子供たちはうなずいてくれた。
子供たちはさらに「カミの池よりデライけ?」と聞いた。

私は比較の表現に困り、「むこうが見えん」というと、こどもたちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけと口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。

いまの日本は実に文明開化したものである。

カミの池から竹内街道分岐まで道路の側道を歩く。

正面に畝傍山が見えています。

万葉集の中では「瑞山」(みずやま)とも詠まれた。

天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には他の2山とともに国の名勝に指定された。

標高は198.8メートルと三山の中では最も高い。

関連記事


【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

高山サイエンスタウンに遊ぶ


もう春がそこまで来ています。
陽を受けた桜が眩しい、ここは学研北生駒、これから高山サイエンスタウンに向かいます。

往路はバスを選択、朝は便数が多いのですが、この時間は1時間に一本です。

本学は、1991年に学部を持たない新構想の国立大学院大学として誕生。

現代社会の基盤となる情報科学、バイオサイエンス、物質創成科学とそれらの融合分野に特化した本学には、創設以来、優れた研究者が国内外から集まり、世界トップレベルの科学技術研究を追求しています。

本学では、現在、世界39の国や地域から留学生を受け入れており、在学生の4人に1人は留学生。

留学生と共に研究に取り組み、アイデアや成果を共有、議論しながら実践的な英語能力・コミュニケーション能力を磨くことができる国際的な環境も本学の特徴です。

またバイオサイエンスでは2012年のノーベル生理学・医学賞受賞者である山中伸弥が京都大学に移籍する前に在籍、初めて自分の研究室を持ちiPS細胞の研究を開始、人生の決定的な転機となったところである。

一番弟子の高橋和利らに出会ったのもここである。
山中が研究に使用した機材は今も保管されている。

後で知ったのですが、山中伸弥栄誉教授記念ランニングロードがあるそうだ。

令和3(2021)年10月11日に創立30周年を迎える本学は、記念事業の一環として、平成24(2012)年にノーベル生理学・医学賞を受賞された山中伸弥 京都大学iPS細胞研究所長が、本学在籍中に毎朝ランニングをされていた外周道路を「山中伸弥栄誉教授記念ランニングロード」として整備し、教職員・学生の健康増進を図ります。
と、言うことのようです、今度訪れた時は是非歩いてみよう。

高山サイエンスプラザは、公益財団法人 奈良先端科学技術大学院大学支援財団が行う産学交流事業や地域交流事業などの活動拠点として、研究者交流や市民交流の場。

4階立て総床面積 5,451 m2 の建物で平成5年10月に竣工。

東側に広がるのが「科学する子供たちの広場(サイエンチス・ロンド)。
子供だけでなく大人も楽しめます。

建物東側のガラス面に、広場「サイエンティスト・ロンド」にタイルで描かれたアインシュタインの顔が映り込んでいます。

当館の特徴的な景観ですが、ゆがんだ地面の顔が正しく投影されるよう計算されており、不思議な光景がお子様たちにも大好評です。

ここは,科学する子どもたちの広場で、有名な科学者の子どもの頃の像が並んでいます。

網を持って虫を追いかけているのは昆虫記を書いたファーブルです。

ウサギをだっこしているのは、ラジウムなどを発見し夫とともにノーベル物理学賞、化学賞の2つをもらったマリー・キュリーです。

地面を、虫メガネで見ているこの人は?!ダーウィンなんですねー!

野口英世

アルキメデスのネジ実演

ハンドルを回すと、池の水が上がってきます。

アルキメデスが発明した原理だそう、皆さんもお試しあれ。

王冠をかぶってお風呂につかっているのはアルキメデスです。

月面探査機の、実寸大模型もあります。

帰りは徒歩で、駅まで約25分。

画像は進化のゲート

高山ニュータウンの入口に人類をはじめとする生命の根元である「DNA」の造形を設置し、科学との出会いの予感を表現しています。

あと、楽しみなのが北生駒にはキノコ料理の店がある、何度か行ったのだけど機会があったらまた仲間を誘って行きたいな。

関連記事

【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

初冬の若草山


三年ぶりのマラソン、この日およそ1万2000人のランナーが冬の都大路を駆け抜けました。

まだ紅い紅葉が残っています。
鹿たちが何に慌てているのか一斉に走っています。

奈良春日野国際フォーラム 甍の庭、紅がひときわ目を引きます。


まずは、北ゲートから若草山の山頂展望台を目指します。

なだらかな山腹が芝に覆われており、奈良を代表する景観の一つである。

毎年1月に若草山の山焼きが行われる。
東大寺と興福寺による領地争いを、双方立会いの上で焼き払って和解したのが発端ともいわれてきたが、近年、両寺に明治時代まで続けられてきた記録に記載はなくその説は否定されることも多い。

江戸時代以前からも行なわれていたらしいが、正式行事となったのは明治になってからで、夜間に行なわれるようになったのは明治後半からである。

山焼きを紹介する写真の中には、若草山全山が燃え、その上空に花火が上がっているものがあるが、これらは長時間露光と多重露出を施したものである(実際問題、火炎の中で花火を上げることはありえない)。
2012年1月28日撮影の山焼きの画像 花火は多重露光による

街を見下ろすとアドバルーンが浮かんでいます。




山麓から中腹の一重目(いちじゅうめ)までは急な登山道で、過去には観光用のケーブルカーやエスカレーター、モノレールの建設が計画されたが、いずれも頓挫している。


山が三段構造になっているのが良く分かります。

山頂が見えています、開山期間は、山麓の南北ゲートまたは山頂から二重目への通路にあるゲートを通って、一重目・二重目に有料入場できる期間のこと。

2016年4月からは「3月第3土曜日から12月第2日曜日」と決められている。

東は原生林が広がる。

山頂は風も強く、脱いだウィンドブレーカーを着込みました。

山頂には古くから知られる鶯塚古墳(前方後円墳)があり、「鶯山」とも呼ばれる。

山頂から鎌研交番前を通って春日山遊歩道の北側のコースを下っていきます。

巨木が木陰を作り出し涼しさを味わえます。

樹間の造形の美しさを眺めながら下ります。

春日山遊歩道は一般には歩行者のみに開放されていますが、公園管理用の車両も通る砂利道の道路です。

若草山登山道のように連続する階段はありませんが距離が長いことが特徴です。

尚、春日山遊歩道では山頂駐車場を経由して山頂展望台(三重目)に行くことができます。
(一重目、二重目には行けません。)春日大社側遊歩道入口~山頂まで片道約4km。


月日亭休憩舎で一服。

中水谷休憩舎を見ながら帰路につきます。

距離と高度差があり少し疲れましたが静かに初冬の紅葉を楽しむことができました。

関連記事

【最新】全国旅行支援(最大40%割引でお得に宿予約)

参考になった本シルバーエイジの健康読本もどうぞ

城下町ブラっと散策


金魚のふる里 大和郡山

大和郡山の金魚は柳沢吉保の子・吉里が甲斐の国から郡山藩主として国替りしてきた時に持ってきたと伝えられいます 。

下級武士の内職として飼育していた金魚の養殖技術が、徳川の末期から明治の初期にかけて付近の農家に伝えられ、水利の便の地の利を得て日本の主要産地となりました。

郡山金魚資料館

先代の代表嶋田正治が1982年に「1年中いつでも金魚が見ることができる観光施設が全国の何処にもない」と私費で「郡山金魚資料館」を開館。

金魚の原種から高級金魚、その他全国の少数の人たちからなる保存会。

愛好会の人々の努力により絶滅から守り続けられている貴重な品種など約40種類の金魚が展示されている。

松井 佳一(まついよしいち)(1891―1976)

近畿大学に水産学科を新設。

国際学会でも活躍して、第二次世界大戦後の水産業と教育の振興に貢献する。

研究業績は淡水魚や真珠など広範囲にわたるが、なかでも『日本産金魚の遺伝学的研究』(1934)は世界的に有名。

大納言塚

豊臣秀長の墓所。
天正19年(1591)、郡山城内で没した秀長はここに葬られました。

当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院<だいこういん>という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていました。

しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました。

その後墓地は荒廃しましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆<えいりゅう>や訓祥<くんしょう>が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立しました。

郡山城主柳澤家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替えの際、当地に移築したもので、市指定文化財の山門は旧郡山城城門を移築したものといわれている。

こちらは山門向かって左側の弁天門。

道路沿いに建つ門で、一際目立つ存在です。

郡山城

豊臣政権の中初期には秀吉の異父弟(同父弟説もある)羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。

江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。

平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。

奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。

中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。

17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた。

その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。

背後に天守台が望めるテラス席=大和郡山市城内町の郡山城跡

大和郡山市城内町の郡山城跡で郡山城史跡・柳沢文庫保存会が改修した番屋建築群(毘沙門郭内)にカフェがオープンした。

旧郡山藩主の屋敷の長屋門を移築した歴史のある建物で、有機栽培されたコーヒーや軽食が楽しめる。

今日はこちらでお昼にした。

番屋建築群は木造平屋建ての3棟が連なる。

最後の郡山藩主だった柳沢保申の屋敷の長屋門の一部を明治後期に移築したもので、以後「番屋」と通称されたらしい。

1969(昭和44)年から一時期は吉田泰一郎・元市長の住居としても使われたが、近年は物置になっていた。

大和郡山城は、転用石がふんだんに使われた城として知られます。

「逆さ地蔵」のほか、伝・羅城門の礎石を始め、宝篋印塔や五輪塔、石仏などが石垣にこれでもかと散りばめられています。

転用石は石垣の表面だけで約1000基に及び、お地蔵様も約200基が確認されています。

発掘調査によって、天守の礎石や付櫓の地階などが発見され、幻といわれていた天守の実在も証明されました。

天守台東側の付櫓の構造も判明しています。

ただし、まだ不解明点も多くあるのが郡山城の実情。

秀吉自身の城は残っておらず、家臣の城も類似例が僅少。

郡山城は江戸時代を通じて廃城にならず譜代大名が歴史をつないだ城ですから、全国の秀吉政権の城の解明に一石を投じる重要な手がかりが眠っているかもしれません。

大和郡山といえば、江戸時代から武士の副業として始められた「金魚」の養殖で知られる。

蓋には、青海波模様を背景に、金魚鉢に入った金魚が描かれている。

今日はOB会のハイキング、いつもは終了後喫茶店で反省会やら次回の予定の打ち合わせなどを行うのですが、郡山駅近辺には喫茶店がありません、やむなく西大寺まで帰り、駅中の喫茶店で反省会。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!