早春の松本城

安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。

松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門で、高麗門。

平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元された。

この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。

松本城 一の門、本丸へ入る重要な入り口です。

この門を入るとかつては本丸御殿がありました。

本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。

門を入ると美しい姫が出迎えです。

市川量造と小林有也のレリーフ

向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。

これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。

「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。

天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に駒をつないだという話を伝える桜。

城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、昭和30年代後半から昭和40年代前半に、現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。

現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守。

左から大天守、辰巳附櫓、月見櫓。
これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。

天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。

天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
傾斜も緩い。

※未加工の自然石だがほぼ大きさの揃った石材を横方向に並べ、横目が通った積み方を「野面布積」といいます。

横目が通っているが所々乱れているものを「布積くずし」といいます。
松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積くずしです。

天守からの展望、正面奥は美ヶ原王ヶ頭。

以前美ヶ原を訪れた際の王ヶ頭の記事。

標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻
山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。 朝食前の朝の清々し … 続きを読む →


こちらからは槍ヶ岳が望めるはずですがガスって見えない。

5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

右から乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓。

前回訪れた際の記事。
信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城
クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日 … 続きを読む →

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松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分

美ヶ原散策

美ヶ原で過ごした三日間、何度も山本小屋周辺を歩き回った。

美ヶ原高原のシンボル「美しの塔」。
美ヶ原は濃霧になることが多く、遭難が多発しました。

その対策の一つとして霧鐘を備えた避難塔が「美しの塔」です。
1954年(昭和29年)の秋に高原の中央部に設置され、1983年(昭和58年)に改築されました。

鉄平石でつくられた塔で、高さは約6m、日本で一番大きな文学碑でもあります。

塔の南面には美ヶ原を愛した自然詩人・尾崎喜八氏の「美ガ原溶岩台地」が、北側には山本俊一翁の顔のレリーフが埋め込まれており、松本の彫塑家、上條俊介氏の作です。

鉄平石(てっぺいせき)は、長野県の諏訪地方・佐久地方に広く分布する輝石安山岩の板状節理がよく発達したもの。

およそ2,500万年前の火山活動によって形成されていると推測されている。
板状に剥がれやすい性質を持ち、2~3cm内外の厚さに剥離(はくり)された鉄平石は、建築用の内装外装用石材として広く利用されている。

美ヶ原一帯は360度の眺望で有名、ただ、霧や雲で視界が遮られることも多く、残念な思いをする。
この日は富士山がよく見えていた。

広大な牧場に陽が沈む。

残念ながら牛の姿は見えない。
先日の台風、気象庁が史上最強の台風などというものだから、牛はすべて麓へ移されてしまっている。

美しい高原にススキがよく似合う。

ススキの向こうに電波塔群が見える。

美しさを満喫するには、やはり大草原に200種類以上の亜高山植物が咲き乱れる夏場が一番なのだが、観光客の少なくなった初秋もいい。

夕食に気をとられていて、日の入りを撮り損ねた。
ただ美しい日没だ。

電波塔群にも灯りが灯る。

ここは標高2000mの高地、雲の流れも速い、つかの間、光芒が現れた。

僅かに紅葉のなごりか、この前の台風で紅葉はすべて吹き飛ばさてしまったと聞いた。

現在の美ヶ原牧場は明治42年、東筑摩郡里山辺村の小岩井品三郎が入山辺・里山辺両村の共有林30町歩を借り、松本市内の牛乳屋の乳牛89頭を放牧したのが始まりである。

牧場経営は順調で明治44年には安曇平から馬も預かり、放牧頭数は200頭を超えた。この年7月には小県郡和田村字沢入の内芝100町歩を借りて牧場を拡大した。

美ケ原牧場の一角に、上部が皿のようにくぼんだ岩が集まっているところがあります。
昔から牛や馬たちに、病気にならないよう、塩分を与えるために利用された場所です。

岩の上に置かれた塩を、牛たちが毎日なめ続けたことで、岩の上部がすり減ってしまったという。

これは牧場の畜魂碑。
ここ美ヶ原高原の開拓者は山本俊一氏。

「登りついてはふいに開けた眼前の風景にしばらくは世界の天井が抜けたかと思う…」と、これは詩人・尾崎喜八郎氏が美ヶ原の風景を唄った詩です。

三日目、美ヶ原を離れる前に再度、美しの塔の辺りを散策。
初秋の高原に別れを告げる。

王ヶ頭(2,034m)山頂に長野県内を放送範囲とする放送局の送信所が設置されている。
標高が2,000m超と非常に高いところにあるため他県まで電波が届きやすい特徴があり、愛知県や三重県、そして関東地方の一部地域、富士山五合目でも受信できるという報告もある。

ただ、眺望の妨げになり、批判も多いようだ、キー局の看板から長野地区の地方局の名前に変更する動きがあるそうだ。
あの東京電力も早々に看板を外したそうだ。

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
TEL 0268-86-2011

山本小屋へ送迎の確認をしよう。

お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
ペット同伴は予約時にご相談を。

野外彫刻 – 美ヶ原高原美術館

美ヶ原高原美術館はその高原の東側、牛伏山の東側斜面に、およそ4万坪の広大な敷地に、約350点もの具象、抽象の現代彫刻作品が点在するスケールの大きな美術館です。

とても一日では見切れない内容です、良くわからないものがありますが、その一部を紹介します。

作品名「のぞみ」 清水多嘉示

両手をひざに置いて腰をおとして座り遠くを見つめる女性像。

安定した下半身、豊かな上半身からは、清らかで健康的な女性の美しさと内からにじみ出る生命の躍動が瑞々しく爽やかに表現されています。

作品名 表象-<中間距離>

壁の影が本体と違って見える、もしかしてペイントかと疑ったが、やはり影だった。

作品名 「花束」
この像は真駒内競技場で見かけた。
前回の記事真駒内公園早朝爽やかウォーキングを参照ください。

作品名「護られる女」
なんとも奇妙な像だ。

人情としてこちら側からも見てみたくなる。

作品名「雲海に立ちて」
まさにこの場の雰囲気にぴったり。

作品名「ドン・キホーテ」(1985年)
 マリオ・アゴスティネッリ(ブラジル 1924~)

作品名「ストレット-ギッティング・ケルジー」
可憐な踊り子の像。

作家自身の右手親指の型を取り、何段階もの過程を経て正確に拡大された308㌢もの巨大な親指。
大理石のもつ赤や青の模様が血管を思わせる絶妙な効果をもたらしています。

作品名「見牛・得牛」(1984年)
 新関八鉱(にいぜき・やつひろ 日本 1943~)

目をむいてにらみ合った迫真の像。

作品名「Wind Dancer」 関正司
自然の風を気持ちよさそうに全身に受け、髪をなびかせている少女。
そのスカートは風により向きをかえます。

作品名「曲面における位相空間」 榎本康三
ステンレスの鏡がカーブを描いている作品。

外面には周囲の風景がゆがめられた虚の空間が映し出されています。
内部に足を踏み入れると、四方に映る自分の意外な姿が見られる体験型の彫刻です。

作品名「鉄その空間その鉄」

先日の台風で紅葉は吹き飛んでしまいましたが、吊橋の両側に微かに紅葉が残る。

作品名「アイアン・レディー」 関正司
広大な草原に立ちはだかる、まさに、鉄の女。

作品名「風のスイング」 河崎良行
磨かれたステンレスを使い、風のイメージの形体化を試みています。

回転や上昇運動を複合させた優美なフォルムは、内在する力が大空に向かって一気に放たれるような爽快感と強い風のエネルギーが感じられます。

作品名「メタモルフォーゼ」
草原にフランケンシュタインが立ってるようで不気味。

作品名「神の化身」
ガンジーをほうふつとさせる。

作品名「家を創る人々」

作品名「両性をそなえたトルソ」 フォティス
作者は人体のトルソを主題に数多くの作品を制作しています。

ここでは、上下で女性と男性を組み合わせて、誇張や省略を大胆に用いる手法で、新しい人間像の表現を試みています。

作品名「螺旋斜円筒」
読んで字の如し。

作品名「脱衣(蕾から花へ)」

作品名「点」
簡潔でよろしい。

作品名「美しい尻のヴィーナス」

プレート記載:
「カプアのヴィーナス」と並んでナポリ国立考古学美術館の至宝とされているこのヴィーナス像は、ローマ皇帝ネロの別荘の噴水を飾っていたものという。
美しい腰部を見せながら、水に映った自らの姿に見入っている。

ヘレニスティック期には、この主題を扱ったものが多かったという。

この作品、作品名に気づき、後ろへ回って見なかったことを後悔している。
気になる向きはネットで検索してご覧ください。

ヴィーナスの城の屋上から展示場を見る。

作品名「生態学的存在」-セザール頌
思わずむずがゆくなりそうだ。

作品名「愛のモニュメント」「翔る女」

作品名「愛のモニュメント」「愛の手」

作品名「愛のモニュメント」

作品名「愛のモニュメント」「愛の手」

作品名「愛のモニュメント」「うずくまる女」

作品名「陰と陽の空間」

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
TEL 0268-86-2011

山本小屋へ送迎の確認をしよう。

お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
ペット同伴は予約時にご相談を。

牛伏山から美ケ原高原美術館へ


山本小屋からふる里館を経て牛伏山へ登る。
付近はダケカンバの林だ。

麓には美ヶ原高原の開発者で山本小屋創設者、山本俊一翁の碑が建つ。

牛伏山のモニュメント、残念ながら牛の姿は見えない。
先日の台風、気象庁が史上最強の台風などというものだから、牛はすべて麓へ移されてしまっている。

台風のおかげでカラマツの紅葉も草花もすべて吹き飛んでしまったという、岩陰にマツムシソウがひっそりと残っている。

牛伏山から見た山本小屋(左端)~美ヶ原高原ホテル(山本小屋の向こう側)~王ヶ頭(右)

最高峰は、王ヶ頭(2,034m)。
他に、王ヶ鼻(2,008m)、茶臼山(2,006m)、牛伏山(1,990m)、鹿伏山(1,977m)、武石峰(1,973m)といったピークがある。

頂上にはいたるところにケルンが見られる。

南は富士山から御嶽山、乗鞍岳、穂高連峰や槍ヶ岳の北アルプス主峰から後立山連峰、北は志賀高原と天気の良い日は雲上の大絶景が待っております。

山上には板状の鉄平石の破片が広がる。

空は澄み渡り、吹き抜ける風は少し肌寒い。

美ケ原高原美術館を目指す。

通路には板が敷いてあり歩きやすい。

右手が美術館。

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長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
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標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻

山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。

朝食前の朝の清々しい時間に、王ヶ鼻までマイクロバスで散策。
王ヶ鼻近くにバスを止め、徒歩で散策(約30分)します。

富士山・八ヶ岳をはじめ、美ケ原から見える北アルプスの名峰や、夏季は高山植物のお花畑がみられます。

運がよければ素晴らしい雲海も見ることができます。

江戸時代には、御嶽山が展望できることから、御嶽教の山岳信仰の山ともなった。
王ヶ鼻に並ぶ神像群はいずれも御嶽山の方角を向いており、御嶽教の信仰の対象である。

ここの岩石は板状節理をなす。

板状節理(ばんじょうせつり、英: platy joint)は、岩体が板状になった節理。
安山岩質の岩石によく見られ、マグマの冷却面と平行に発達する。

標高2008メートルの崖っぷちに立って、標高3000メートル級の山並みを見渡します。
真ん中が乗鞍岳、右側の冠雪している山が穂高岳と槍ヶ岳です。

小屋への帰り道では素晴らしい雲海も見れました。

この先の辺りが御岳山、美ヶ原の人々もボランティアで出向いていて6人の方が犠牲になられたと聞く。

三日目の朝も王ヶ鼻を訪れました。

昨日とは打って変わってよく晴れています。

しかし、霧が多く、松本平も霞んでいます。

先日の台風でカラマツの紅葉も草花もすべてなくなってしまっていますが、岩陰に辛うじて「エーデルワイス」が残っていました。

カラマツの陰から陽が登る。

天空には三日月。

僅かに残ったカラマツの紅葉。

王ヶ頭(2,034m)は長野県のほぼ中央に位置し、県内の広範囲を見渡す事ができる。
この事から、長野県の放送局(NHK、SBC、NBS、TSB、abn、FM長野)の送信所のほか、NTT、国土交通省、長野県防災行政無線、などの中継所、中部電力のマイクロ波反射板などが建てられており、放送・通信の要衝となっている。

この下の辺りが三城牧場。

向こうが御岳山、今年の捜索が打ち切られたと聞く、残念。

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山本小屋へのアクセス、行き方歩き方

長野県小県郡長和町和田美ヶ原高原5101
TEL 0268-86-2011

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お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
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絶景を望む雲上の一軒宿 山本小屋に泊まる

台風の直撃で出発を後らせ実現した美ヶ原高原行き、雨の不安の残る中、松本へ向かう。
美ヶ原(うつくしがはら)は、八ヶ岳中信高原国定公園北西部にあり、長野県松本市、上田市、小県郡長和町にまたがる高原。
日本百名山の一つ。

新幹線、「ワイドビューしなの」を乗り継ぎ、松本到着。
現地は曇り空で時折りパラパラの天候です。

岳都松本の駅頭に建つのは、播隆(ばんりゅう)上人の像。

播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山。
「日本近代登山の父」 と呼ばれている英人ウェストンが日本アルプスを世に知らしめるより65年も前 のことである。

播隆が頂上に祠を建立し、後に来る者のために危険な個所に鎖さえ準備した物 語は、「大いなる初期アルピニスト」の尊称を授けられてよいのだが、彼の功績 を知る人は余りにも少ない。

笠ヶ岳の東面の平坦地は播隆に因み播隆平と呼ばれている

「深志(ふかし)の湧水」

松本駅お城口の広場改修に合わせ掘られた井戸。
駅前通りの先に見える山が、美ヶ原高原。

美ヶ原西麓の扇状地・松本は、豊富な伏流水が湧き出す水の町。

松本は、女鳥羽川と薄川の複合扇状地によって、豊富な地下水が湧出する湧水地帯です。
市街地中心部には今なお多くの自噴井戸や湧水が点在し、市民の手により手厚く保全されています。

松本の湧水については以前の記事「中町通 縄手通り商店街散策」にも触れています、ご覧ください。

山本小屋からは松本駅前までお迎えがあります。
一気に標高2000mの美ヶ原高原へ。

出迎えてくれたのは野生のタヌキ君、1年ほど前から餌をもらいに来るようになったとか、左足をけがしていますが、丸々と肥えています。

そしてもう一人?の人気者、捨て猫の「タロウ」君。
拾われてもう10年以上になるそうだ、民家の無いところに捨て猫がいるわけないので観光客が捨てて行ったんだろうということだったが、ひどいことする人もいるもんや。

現在美ヶ原には主人を含めて20種類の生き物が生息しているそうだ。

外は深い霧で、肌寒く、観光どころではなさそうだ。

夏の間でも薪ストーブをたく、風のそよぐ別天地の気候。

今日は特別メニューを張りこみました。

山本小屋名物「松茸尽くし」

毎年9月中旬から10月中旬にかけていただける。

地元(長和町・上田市武石地区)産の松茸をメインに使用。
松茸ご飯など、一部の料理については、収穫量によってはごく一部地物ではない場合があるとのこと。

1. 食前酒(グラスワイン)  
2. 松茸と鴨のすき焼き  
3. 松茸土瓶蒸し  
4. 刺身(馬刺し)
5. きのこ蕎麦
6. 岩魚の塩焼き
7. 酢の物
8. 小鉢(雑きのこのおろしあえ)
9. 松茸茶碗蒸し
10.煮物(雑きのこ添え)
11.松茸ときのこの天ぷら
12.季節の果物

そしてご飯は松茸ご飯の釜めし。

が、当日のメニューでしたがさすがに食べきれず、マツタケご飯はおにぎりにして翌日のお弁当に。

翌朝6時7分、御来光です。
気温は零℃、凛として気持ちのいい朝です。

庭先には除雪用のブルもあります。

山本小屋から東を眺める、牛伏山が見えています。

標高2000m美ヶ原高原で唯一の天然温泉。!
朝5時から夜11時まで入浴できます。

高原の散策等は別途報告します。

三日目の夜明けです。

画像をクリックして拡大して見ていただければ、太陽がわずかに覗いているのが確認できます。

昨日とは違って空を紅く染めて陽が登ります。

今日はグッと冷え込んで氷点下です、車も霜で真っ白です。

小屋の前はササが生えていて、陽を受けて輝いています。
結構着込んでいますが寒い。

王が鼻までの早朝散歩を終え、おなかを空かして帰ると、あたたかい朝食が待っています。

卓上で焼く目玉焼きは、こんもりとした見るからに新鮮な玉子。
牛乳、コーンスープ、パンはおかわり自由。

接客は、日本人に交じって研修に来ているネパール人もいます。

王が鼻までの早朝散歩は山本小屋の御主人の車で行きます、別途報告です。

窓の外には雄大な草原が広がる。

休憩室にはネパールの民芸品なども展示されている。

喫茶室から外を眺める。

窓の外には雄大な景色が広がる、この向こうの牛伏山を越えていくと、素晴らしい美術館がありますが別途報告します。

山小屋にランプって似合いですね。

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TEL 0268-86-2011

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お泊りは美ヶ原高原ホテル 山本小屋

周囲は牧場や花畑に囲まれ、富士山や八ヶ岳連峰、アルプス連峰を望む眺望の美しい環境。
壮大な景色の展望温泉も感動。
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川中島合戦の前線基地 松代城

松代城は元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていたが貝津城とも言われた。
また茅津城(かやつじょう)とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もある。
形式は輪郭式平城。
国の史跡に指定されている。

本日の朝のプラスワンの旅は中止です。
日の出時刻が6時12分、朝食が6時30分と、残念ながら時間が取れません。
美ヶ原からの朝日の写真が撮りたかったのですが、朝食している間に日が昇ってしまいました。
失敗です。

美ヶ原(うつくしがはら)は、八ヶ岳中信高原国定公園北西部にあり、長野県松本市、上田市、小県郡長和町にまたがる高原。
日本百名山の一つ。
美ヶ原という呼称が定着したのは、1921年(大正10年)に木暮理太郎が、日本山岳会の会報『山岳』に登山の記録を載せてからである。

ホテルの壁面に尾崎喜八作の「松本の春の朝」がはめ込んでありました。
「松本の春の朝」  尾崎喜八作 『高原詩抄』より 第6編(昭和17年刊行)
夜明けに一雨あったらしく、

    空気は気持ちよく湿っている。
    山にかこまれた静かな町と清らかな田園、
    岩燕が囀(さえず)り、れんげそうの咲く朝を、
    そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峰が顔を出す。
    日本のグリンデンヴァルト、信州松本。
    凛とした美しい女車掌が運転台の錫(すず)の筒へ、
    紫と珊瑚いろ、 
    きりたてのヒヤシンスを活けて去る。

因みに尾崎喜八は「美ヶ原」を詠んだ詩が有名で、「美しの塔」にその詩が刻まれており、その名作といわれる詩、「美ガ原溶岩台地」も同じ詩集『高原詩抄』(第47編)に収められています。
きっと、この「松本の春の朝」も「入山辺(イリヤマベ)行きのバス」とあることから、彼が愛した美ヶ原へ登るために(登山口の三城牧場まで)出発する朝の松本駅前の様子なのでしょう。

バスの車窓より善光寺平(ぜんこうじだいら)
長野盆地(ながのぼんち)は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平(ぜんこうじだいら)と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。

その他の四つの平とは
松本盆地(松本平)
佐久盆地(佐久平)
伊那盆地(伊那谷、伊那平)

長野電鉄の「屋代線」の松代駅
残念ながら2012年3月31日で、長野電鉄の一部路線である「屋代線」24.4kmの運行が終了してしまいました。
非常に趣のある駅舎です、郷愁をそそります。

残された鉄路もさみしそう。

池田満寿夫美術館
長野市で育った異才の芸術家・池田満寿夫の作品を収蔵する。

栗菓子製造・販売の株式会社竹風堂(上高井郡小布施町)が運営し、竹風堂松代店に併設されている。

正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。

千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたという。

南の櫓門

甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。

千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。

平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

海津城址の碑

松代城から川中島の合戦の時、上杉謙信の軍勢が陣を構えた妻女山はすぐ目と鼻の先だ。 ここが川中島の合戦の舞台であったことを思い起こさせてくれる。

不明門(ふめいもん)とは読んで字のごとく、「あかずの門」。

縄張りは有名な山本勘助という。

ドウダンツツジの赤が見事、松の緑と映える。

桜の葉も黄色く色づく。

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松代城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県長野市松代町松代44
電話:026-278-2801(真田宝物館

長野電鉄屋代線 松代駅 徒歩5分
JR長野駅から川中島バス「松代行き」で約30分 松代駅下車

信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城

クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日本100名城)」という企画の旅に出た。
数回に分けて紹介する。

岐阜県中津川市・恵那市・瑞浪市の市街地は、盆地の形でほぼ西南西-東北東方向に並んでいる。
この盆地と山地との高低差は屏風山断層の運動によるものであり、屏風山はこの山地を構成する山の一つである。

中央自動車道の屏風山パーキングエリアの名はこの山に由来しており、南東の方角に屏風のような山容を望むことができる。

「南アルプス」の山々を眺めながら松本を目指す。
仙丈ヶ岳から三峰岳、塩見岳、荒川岳、赤石岳、聖岳へとつながっていく赤石山脈。
赤石山脈には、9山の3,000m峰があり、10山が日本百名山に選定されている。

木曽谷と伊那谷に挟まれた中央アルプスは、長野県塩尻市から南南西の恵那山方面へと伸びる、細長い急峻な山脈であり、木曽駒ヶ岳はその北部に位置する。

標高2,600 m付近の濃ガ池(のうがいけ)、千畳敷カール及び極楽平では、氷河圏谷が発達している。
向こう側は木曽路。

松本城(まつもとじょう)は、安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された。
天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。
松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
丁度お城祭りが行われていた。
紅葉も見頃、名城と紅葉、この上ない取り合わせだ。

1999年(平成11)3月に復元された太鼓門。
松本市役所前から、外堀を渡るとまだ新しい二の門(高麗門)がある。

それをくぐると太鼓門枡形に入り、正面石垣に高さ約4m、周囲約7m、の巨石が組み込まれているのがわかる。

これが、玄蕃(げんば)石で築城工事の際、あまりの巨石(重量22.5トン)のため運搬人が不平を訴えたところ、玄蕃頭康長は、その運搬人の首をはね、首を槍先に刺し、叱咤激励して運ばせたので、玄蕃石と名前がついたという。

太鼓楼から工事中の二の丸御殿跡西側内堀を見る。
二の丸御殿は、本丸御殿焼失後、藩の政庁が移されたところで、幕末まで中枢機関として使われていました。

一時期、筑摩県(つかまけん)の県庁が置かれていましたが、建物が焼失してしまい、筑摩県は長野県に統合されてしまいました。

紅葉のお堀端でハクチョウが気持ちよさそうに日向ぼっこです。

朱塗りの埋橋と漆黒の国宝天守の対照が絵になる。
朝もやの幻想的な姿もおすすめ。

天守閣西面、千鳥破風がキリリと美しい。
石垣は、水はけに強い野面積で、地盤が緩いため高さは抑えたが、石落としを増加。

南西角から内堀に浮かぶ天守をメインに。
数正は志半ばにしてこの世を去るが、息子の康長が遺志を受け継ぎ、完成。

堀の最大幅を銃弾の飛距離ぎりぎりの60mに設定したり、耐久性が高い下見板張を用い、狭い間隔で鉄砲狭間と矢狭間を並べたりするなど、様々な趣向を凝らした。

天守閣南面、右側の乾小天守の内部は丸太柱がたくさん使われている。
3,4階の12本の丸太柱も、城が最初に建てられたころのもので、400年以上たっている。
月見櫓はその名の通り、月見をするための建物。

書院造で、北・東・南の舞良戸(まいらど)を外せば、三方が吹き抜けになるという開放的な空間になる。
朱色の廻り縁や、船底形の天井など、デザインも優雅。

黒門枡形の前から見る天守閣は、内堀と北アルプスを映しこみ、絶好の撮影ポイント。
常念岳を中心とした北アルプスを左上空に、国宝天の連なりを正面から狙う。
雪景色なら言うことなし。

松本城近くの市庁舎展望室など周辺の高い建物からは、天守と雪を頂いた山々のツーショットを撮影できる。

黒門枡形から天守を望む。

黒門枡形を西から望む、紅葉が美しい。

内堀を渡って二の門(高麗門)をくぐり枡形に入るとそこに、料金所がある。
ここは、本丸の正門で、松本藩では本丸御殿が奥書院(黒書院)であり、その入り口にあたるので黒門と称したという。

門の入り口で見上げればそこには美しい紅葉が。

今回は逆光であり、祭りの準備で最悪の景色だが、本来であれば、本丸庭園の緑を手前に国宝天守の連なりを正面から狙う。

ここからのアングルが、大天守が一番高く見える。
雪景色があればなお美しい。

天守の階段は、一階から六階まで七か所設けられている。
その位置が互いに離れているだけでなく、どの階段も勾配が急(55°~61°)で、特に4階から5階へと上る階段は蹴上が約40㎝もあり最も険しい。

武者窓と突上戸
天守二階の東・南・西側と四階の東と西側は柱間に5本の竪格子をはめた武者窓である。
格子は4寸から4寸5分(12cm~13.5cm)の角材を用い、上下の框(かまち)も大きい。

内側から武者窓を見ると、外光を遮さえぎる明暗の縦縞が大変美しい。
なかでもこの窓が五連あるいは三連の二階南側と東側は城らしく豪壮な感じを受ける。
なお、外側は上部に蝶番ちょうづがいのついた突上戸(つきあげど)で風雨を防いでいる。

天守閣から北アルプス(西方向)を望む。
中央の高い三角形が常念岳でその左に小さく見えているのが槍ヶ岳。

少し目を右へ転じると燕岳が見える。

内堀越しに見る北アルプス、常念岳、燕岳、雪があればもっといいのだが。
内堀には埋の橋が見える。

天守から本丸御殿を見下ろす、遠方には美ヶ原が広がる。

天守脇に残る船着き場、直正の時代には、ここから小舟で堀へ出ることもあったようだ。
お堀には白鳥、白鷺が羽を休め、鯉が群がる。

日暮れが迫る内堀、埋の橋、遠景は北アルプス。

穂高人形保存顕彰一真会により人形が飾り付けられている。
菅沼家は分家の安東家と共に、風伝流の師範として藩内外にその名が知れ渡っていた。

女鳥羽川(めとばがわ)が洪水をおこしたとき、助九郎政一は、六九の米蔵に積んであった籾俵を槍の穂先にかけて運んだという言い伝えが残る。

松本城に日暮れが迫る、今日の旅も終わろうとしています。

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松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分