雲場池散策

地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。
軽井沢を離れる日の朝食前に池の周りを散策した。

2102年11月から社会実験を経て、実用化されている軽井沢六本辻の環状交差点(ラウンドアバウト交差点)。

2014年9月1日には道路交通法が改正され、道路もルールも本格化してから1年が過ぎました。

日本ではまだなじみの少ない交通方式ですが、徐々に浸透してきて、交通渋滞の緩和や安全に一定の成果があるのではないかと。

この画像は前々日に撮影のもの、この日は時間もなく入り口のみで引き返す。
雨に降られながらの散策だった。

本日は朝から快晴、軽井沢に来て最初で最後の快晴だ。
水面には霧が立ち込めいい雰囲気を醸す。

秋口を告げるセリ科の花シラネセンキュウ。
セリ科シシウド属の多年草、別名、スズカゼリ。

池にはたくさんの鯉も見られる。

湖面に映る四季折々の自然が美しい。

8月初めころに4匹のカルガモの雛たちが誕生したという、元気に育っているかな。

細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、近世にホテル鹿島ノ森の敷地内に湧く御膳水を源とする小川をせき止めて誕生した池である。

9日午前には台風18号が長野県に最も接近し、軽井沢でも雨風共に強くなったが幸いにも大きな災害にはならず。

池の中ほどにある流れ込み。

前方が白洲次郎の元別荘と聞いたが?
R’s pond cafetが庭部分だけを借りて営業しているという。

確かにそのようなブログ記事は存在するが、一編のみで、他に関連記事は見られない。
R’s pond cafetと白洲次郎というキーワードでは記事が見当たらない。

これだけ多くの人が訪れる観光地ですこし不自然に感じる、保留としておこう。

池の反対側から見たR’s pond cafet。

白洲次郎と言えば南ヶ丘の別荘が有名だ。

占領下の米軍をして「従順ならざる唯一の日本人」と嘆かせた快男子、白洲次郎。

白洲は、昭和27年コースが米軍接収から解放された時に、理事となっている。
昭和57年2月理事長に選任される。

世評では、白洲次郎といえばプリンシプル(原則)の男である。
軽井沢GCでも、プライベートクラブの原則を貫いたというエピソードで語られることが多い。

たとえば、T総理が、ある日曜日に、駐日外国大使を伴って来場したが、白洲理事長にプレーを拒否されたという話。
またN総理は、SPを帯同して来場、プレーを断られたという話。

二つの話とも、メンバーシップの原則による処理で、それが、特別に白洲次郎が強面の怪物だったかのように作られてしまったようだ。

池の流れ込み部が近づいた、霧に煙る風景が何とも言えない。

クマが出没するとの物騒な看板があった。
背中を引っかかれたとかの記事も見受けられた。

池の反対側です、4匹のカルガモがなかよく泳ぐ、今年生まれた雛たちかな。

木々の間からの光芒がきれい。

何とも言えない神秘的な光景です。

クモの巣と枝から滴る水滴が陽に輝く。

約30分の散策の後スター地点に戻る、先ほどの切りはまるで嘘のように池面はクリアだ。
これで4日間の軽井沢観光も終わり、雨にたたられた日々だったが最後の晴れがせめてもの慰めかな。

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雲場池へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町六本辻
Tel:0267-42-5538 (軽井沢観光会館)

JR長野新幹線軽井沢駅から徒歩約15分

軽井沢アウトレット

新軽井沢の中心は軽井沢駅ですが、軽井沢駅周辺は南口にアウトレットができて一変したとのこと。

かつてゴルフ場があった場所に北陸新幹線軽井沢駅とともに設けられた。

そのため、ゴルフコースをそのまま残した広大な「芝生の広場」があり、それを囲むようにEast・New East・New East Garden Mall・味の街・West・New Westの6つの店舗群が配置されている。

軽井沢滞在の4日間は台風の影響で雨に降られっぱなし、しかし、観光は順調にこなした。
そして何かと便利なアウトレットには何度も足を運ぶことになる。

西武プロパティーズの親会社の西武ホールディングスによると、2013年度の実績で外国人客を乗せたツアーバスの来訪実績が前年度より67%増えた。
14年度は現在集計中だが、「大変好調です」と手応えを感じているとのこと。

「東京・富士山・京都・大阪」といった外国人観光客の”日本のゴールデンコース”以外に、中国人観光客の間で「日本の皇族御用達の避暑地」などと密かに話題となっている観光地がある。

それは、天皇陛下と美智子妃殿下の「テニスコートの出会い」の場としても有名な、ハイクラスな人々が集まるリゾート・軽井沢だ。

さらに、「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」のアウトレットモールでのブランド物ショッピングも注目されており、「旦那のためのバーバリーの男物の靴がすごく安く買えた!

軽井沢に来て得した!」というある奥様ネットユーザーのツイートには、「買い物上手な良い奥さん!」など、賞賛コメントが集まっている。

こうした評判を耳にし、「海南島のリゾート・三亜に行くか、息子を連れて軽井沢に行くか、迷っています!」「結婚写真を軽井沢で!」など、次の旅行先として軽井沢を検討するつぶやきも多数アップされている。

今後、通好みの日本旅行を求める中国人の間で、軽井沢はますます話題になりそうだ。

この日も雨です、アウトレットは霞んで見えません。

1918年(大正7年)に、堤康次郎による西武資本が、沓掛区有地坂下ほか山林60万坪を3万6千円(1坪5銭)で買収し、開発に参入。

1945年(昭和20年)には東急資本も開発に参入し、その後は東京後背地のリゾート地として発展した。

雨がきつくなると観光を注視してアウトレットで休憩・・・を何度も繰り返す。

最近動物と一緒に食事できる店などもできて、ペット連れの観光客が多い。

そして 軽井沢最終日の前日も雨だった。

ご覧の通りの大地を叩きつけるような豪雨でとても外は歩けません。

ショッピングモールも霞んで見えなくなってしまった。

どうですこの雨、画像に雨足が写っています。

待つこと約2時間、空が晴れてきた、それっこの間に観光だ。
軽井沢銀座散策に出かけた、訪問記はすでに掲載済みです。

最終の夕食は再びアウトレットで・・・・帰りの径にはかわいい木彫りのクマが。

グルメに関しても高額な旧軽銀座の値段を避けて、リーズナブルなアウトレットで食事をする人が増えつつあるようです。
今日は洋食にした。

しかし、何か物足りなさを覚え、再び築地の海鮮屋で飲み直し。

霧に霞むまちを宿へと急ぐ。
滞在中、この作業を何度かこなした。

軽井沢のマンホールの蓋、「浅間山」と「シラカバ」がデザインされている。

≪テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

軽井沢アウトレットへのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1178
0267-42-5211

JR北陸新幹線・しなの鉄道線軽井沢駅南口を出てすぐ

旧軽井沢駅舎記念館

長野新幹線開業によりお役御免となった旧駅舎を記念館として利用した施設で元ホームに碓氷峠を行き来した機関車が保存されている。

明治43年に大改築された駅舎が、軽井沢駅北口西側に建築往時の姿で復元された。

横川~軽井沢間の碓氷峠のアプト式電車の模型が展示されている。

記念館2階は歴史記念室としてかつての貴賓室を再現している。
一部の建具やカーテンボックスなどは、取り壊し前に保管しておいたものを補修し再使用している。

元ホームに碓氷峠を行き来した機関車が保存されており、この改札口から元ホームへ出ることができる。

碓氷峠が粘着運転となってからの補機・EF63、しかもここにあるのは量産機トップの2号機。

粘着式鉄道(ねんちゃくしきてつどう)は、駆動力が車輪にかかって車輪とレールの間の静摩擦に頼って走行する鉄道を指す言葉。
粘着 (adhesion) という言葉は摩擦という意味で使われ、レールに車輪がくっつくという意味ではない。

車齢103年を迎える日本最古の電気機関車、10000形改めEC40形電気機関車。

明治26年に開通した信越本線の碓氷峠ですが、この区間には26ものトンネルがあるために煤煙被害がひどく、その対策として明治45年に電化された。

同線用に輸入されたドイツ・AEG製の機関車こそがこの10000形で、合計12両(10000‐10011)、のちに形式改称でEC40 1‐12となって、昭和11年に後継車のED42がデビューするまで活躍した。

信越本線横川 – 軽井沢間(碓氷峠)では、1893年(明治26年)の開業時からアプト式蒸気機関車が使用されていたが、26か所ものトンネルが存在するうえ、運転速度が低く同区間の運転に1時間15分を要したため、乗務員や乗客は機関車から出る煤煙に苦しめられていた。

本形式は同区間の電化に際して新製されたアプト式電気機関車で、1912年5月11日の同区間の電化の際に使用される電気機関車として、12両が輸入された。

ドイツのAEGおよびエスリンゲン社(Esslingen)の合作により1911年(明治44年)に製造された。

落成当初の形式番号は10000形10000 – 10011と称したが、1928年(昭和3年)10月の車両形式称号規程改正により、EC40形EC40 1 – EC40 12に改められた。

しなの鉄道発足にあたり湘南色のまま譲渡されたが、後にしなの鉄道色に変更。

2008年にイベント用に湘南色に塗装変更、2009年に一旦しなの鉄道色に戻されさよなら運転を控えて2010年に再度湘南色になった。

2013年4月にさよなら運転を行い7月に軽井沢駅構内にクモハのみ保存された。

軌道用マルチプルタイタンパー(MTT)、しなの鉄道設立といっしょに、八王子のほうからやって来た。  

お客様の乗り心地を良くするために、電車の揺れの原因になる線路のゆがみを一生懸命直してきました。  

しかし度重なる故障には勝てず、2003年3月で引退することになり、現在は第3の人生を、軽井沢の旧軽井沢駅舎記念館で送っています。

草軽電鉄の電気機関車デキ12、電気機関車の時代の「デキ形」は、長いパンタグラフとL字型の車体に特徴がある。

自重が軽く、車輪が小さい為に坂の多い軌道上ではスリップ、脱線もあり、特に凍結時には運転が困難だった。
しかし、その姿はかぶとむしの愛称で呼ばれ最も親しまれた。

映画に登場したデキ12。
「マダムと女房」 昭和6年(1931)田中絹代主演、日本初のトーキー映画として軽便鉄道を全国に知らせるきっかけとなった。

「彼女はいやといいました」 昭和8年(1933)斉藤達雄・桑野通子主演

「カルメン故郷に帰る」 昭和25年(1950)木下恵介監督・高峰秀子主演、我国初のカラー映画、北軽井沢駅が中心に 。

「月はとっても青いから」 昭和32年(1957)菅原都々子主演、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。

「山鳩」 昭和34年(1959)森繁久弥・岡田茉莉子主演、当時の駅長さんも映画に出演。

現在の軽井沢駅。

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旧軽井沢駅舎記念館へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢1178 -1246
TEL 0267-42-1398

JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車→徒歩 2分

軽井沢聖パウロカトリック教会

軽井沢聖パウロカトリック教会(かるいざわせいパウロカトリックきょうかい)は、長野県北佐久郡軽井沢町にあるカトリックの教会ならびにその聖堂である。

1935年(昭和10年)に英国人のワード神父により設立され、米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが設計を担当。
軽井沢の歴史的建造物の一つであり、聖パウロカトリック教会とも呼ばれる。

傾斜の強い三角屋根と大きな尖塔、また、屋根にはめ込まれたマリア像とその頂に輝く十字架がとても印象的です。

堀辰雄の小説「木の十字架」にも登場し、「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」との言葉を残している。

また、「風立ちぬ」(堀辰雄)、「掌の小説」(川端康成)にも登場し、多くの文豪たちもひきつけられたことを物語っている。
ここで結婚式をあげるカップルも多く、西郷輝彦と辺見マリ、林隆三と青木一子、林正和と森山加代子、吉田拓郎らもここで挙式した。

本日は台風の影響で中へ入ることができません、隙間から中の様子を撮影。

絵葉書で内部の様子を、内部は木がむき出しのエックス型のトラス構造になっている。
木のぬくもりが伝わってきます。

教会の鐘。

アシジの聖フランシスコの像、聖フランシスコは、1182年にイタリア中部のアシジという町で金持ちの商人の家に生まれた。

若い時は日ごと夜ごと遊び暮らしていたが、ある時心を入れ替えて自分の持ち物まですべて与えてしまうほど、貧しい人のために尽くすようになった。
自らも貧しい生活を送った。

フランシスコ会の創立者。

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軽井沢聖パウロカトリック教会へのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢179

北陸新幹線、しなの鉄道:軽井沢駅 徒歩20分
JR軽井沢駅→草軽交通バス北軽井沢行き、または西武高原バス草津方面行きで5分、バス停:旧軽井沢下車、徒歩6分

避暑地軽井沢発祥の地 ショー記念礼拝堂

軽井沢を避暑地として広めたショーの別荘(復元)を記念館として公開している。
この建物が軽井沢別荘の原形である。

カナダ生まれの聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会。

江戸時代の軽井沢一帯は、寒冷地帯であるため農作物には恵まれず、旅人が落とす路銀が唯一の収入源でした。

しかし明治に入ると中仙道を歩く人はいなくなり、軽井沢は急にさびれていきます。
寒冷地の軽井沢。高原野菜はまだ日本にはありませんでしたから、ろくに食べるものもない寒村でした。

そのうえ1884年(明治17年)、碓氷(うすい)新道の開通により、宿場への人の流れは完全に絶たれてしまいました。
しかし、この寂れた軽井沢が、イギリス人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーの来訪によって盛り返すことになります。

避暑地発祥の地碑が建つ。

明治19年、偶然、さびれた軽井沢へ通りかかったのが、カナダ生まれで英国国教会の宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーと友人の英語教師ジェームズ・ディクソンでした。

彼らは、軽井沢の涼しい自然に祖国スコットランドの風景を思い出しました。
彼は、この地を「屋根のない病院」と感動し、彼らは休業状態の旅籠『亀屋』を訪れて「一夏の間、借りたい」と申し出たのです。

亀屋の主人・佐藤万平はこれを好機と捕らえ、外国人の生活習慣や彼らをもてなす技術を学ぶことにしました。
そして明治27年(1894)に一部を洋風に改装して亀屋ホテルと名乗り、翌年、万平ホテルと改めます。

日本有数のクラシックホテル 万平ホテルの記事もどうぞ。

礼拝堂の入口にショー記念像が建つ。
偉大なA・C・ショーの当時の面影を偲ぶことができる。

村民によって寄贈されたアレキサンダー・クロフト・ショー記念碑。

教会の鐘楼。

軽井沢を避暑地として広めたショーの別荘(復元)を記念館として公開している。
この建物が軽井沢別荘の原形である。

残念ながらこの日、台風の影響の大雨で見学できませんでした。

ショー記念礼拝堂の日時計。

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ショー記念礼拝堂へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢57-1
0267-42-4740

JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車バス4分→徒歩 10分

ヴォーリズの設計 軽井沢ユニオンチャーチ

明治30年に設立された宗派を超えた教会。
今日に至るまで、集会、音楽会、日本語学校などが開かれてきた。

建物の構造は、木造押縁下見板、板張切妻屋根で建築されている。

教会内は300人は収容できる大ホールとなっており、当時としては軽井沢最大級の建築物である。

教会の天井中央には軽井沢を象徴する白樺で作られた白い木の十字架が印象的だ。

宿場町としての役割を終えて衰退していた軽井沢を、外国人向けの避暑地として紹介し開発の基礎を築いたのがA・C・ショー(1846~1902)ならば、まちづくりの基礎を築いたのがカナダ・メソジスト教会の宣教師であったダニエル・ノルマン(1864~1940)という事になります。 

彼は軽井沢を清潔な保健的静養地としてまとめ上げ、布教活動の傍ら町の環境衛生や自然保護、文化活動に尽力したと伝わります。 

このユニオン教会もノルマンがカナダ・メソジスト教会からの資金援助を得て、キリスト教各派合同の礼拝所としてウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の設計により完成させたものです。

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ユニオン教会へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢1001
電話:0267-42-4605

JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車バス4分→徒歩 7分JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車バス4分→徒歩 7分

旧軽井沢カフェ「涼の音(すずのね)」

旧軽井沢の室生犀星記念館に前にある旧松方家別荘を改装して建てられたカフェです。

駐日アメリカ大使のエドウィン・ライシャワー夫人の松方ハル(明治時代の首相松方正義の孫)の所有してたことや作家の森瑶子もここで執筆活動を行って著名人と緑のある別荘です。

2013年7月に国の登録文化財として認定されました。
外観は紅殻塗り・土管煙突で、今となってはとても貴重なものです。

庭にはシジュウカラがエサをついばみに訪れています。
店の人に聞くと数種類の小鳥が訪れるようです。

国の登録文化財にもなっているこの別荘でコーヒーを。
ゆらゆら揺らめくキャンドルの灯や、外の緑の風景を眺めながら、疲れた体を癒します。
とっても静かで穏やかな時間。

玄関先では風鈴を設えた行燈が・・・・涼やかな音色を響かせる。
まさに「涼の音(すずのね)」です。

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旧軽井沢カフェ「涼の音(すずのね)」へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町旧軽井沢972(ハウスNo.1138)
0267316889

JR軽井沢駅から車10分 旧軽井沢ロータリーより徒歩7分

ふるさとは遠きにありて・・・室生犀星旧居を訪ねる

室生犀星はこの別荘を昭和6年に建て、亡くなる昭和36年までの毎夏この地で過ごした。

軽井沢会テニスコートの少し先に室生犀星記念館がある。

昭和6年に犀星が建て別荘を改修したもので、犀星は亡くなる前年の昭和36年まで毎夏をここで過ごし、堀辰雄、立原道造、川端康成、志賀直哉など、多くの作家と交流があった家という。

木戸の門をくぐるとると苔が庭一面に生えた、みごとな庭内をみることが出来る。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。

生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。

住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。

私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。

「お前は妾の子だ」と揶揄された犀星は、

夏の日の匹婦の腹に生まれけり

と50歳を過ぎた後も、を引きずっていたことを示しています。

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。

この句の通り、文壇に盛名を得た以後も金沢にはほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたという。

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室生犀星旧居へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢884
0267-45-8695 (軽井沢町教育委員会)

JR長野新幹線軽井沢駅から草軽交通旧軽井沢方面行きバスで4分、旧軽井沢下車、徒歩15分

軽井沢のテニスコートのロマンス

ジョン・レノンが、ビートルズ解散後の1970年代中期から、亡くなる1980年まで、毎年のように夏に家族連れで長期間滞在していたことや、避暑地の中にある「軽井沢会テニスコート」が、1958年に皇太子明仁親王(当時)と正田美智子の出会いの場所になったことなども、広く知られている。

また、ビル・ゲイツが軽井沢に別荘を建てることを予定している。

旧軽井沢銀座通りに戻り、チャーチストリート軽井沢から碓氷峠の方向に50mほど進むと、右手に「軽井沢観光会館」があります。

「軽井沢観光会館」の手前を右方向に進む通りが「テニスコート通り」です。

クラブハウスは軽井沢に多くの建築物を残した建築家W.M.ヴォーリズが増築設計したものです。

天皇、皇后両陛下のロマンスの場所としてあまりにも有名。
現在も夏になれば皇室の方々の姿がちらほらと見受けられる。

天皇陛下は、1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会いました。

そして、テニスを通して交際を深めました。

しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではない(新田義重の家臣生田隼人を遠祖とする士分の家系である)ことから、皇室内外から猛反対を受けました。

昭和天皇の侍従長を務めた入り江相政の著作「入江相政日記」には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述があります。

常盤会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われます。

最終的に1958年(昭和33年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決されました。

1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われました。
明治以降では初の平民出身の皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興ります。

ちなみに陛下はこの当時。テニスの仲間たちからなんと呼ばれていたかご存知でしょうか?

「チェブ」です。

素焼きのチャブタという昔はブタの入れ物に蚊取り線香を入れて使っていたのですが、陛下はスポーツにも力を入れていたので肌が茶色かったそうです。
そのお姿がチャブタに似ているということで「チャブ」。

2012年冬のごろに「軽井沢にビル・ゲイツさんがが別荘を建てるらしい」という噂が流れました。
それから約3年後の今年2015年の12月についに完成する予定だとか。

気になる場所はというとズバ!軽井沢の別荘エリア長倉千ヶ滝西区付近のようです。
近くには大手IT企業の別荘が複数あるもようです。

しかしそれらをはるかにしのぐ大きさのようで、敷地面積が6,000坪~8,000坪ありその中に延べ605坪の建物が出来ている様です。

そして何といっても総工費80億円とまで言われている建物なだけに注目が集まっていますよね。
建設は業界大手で羽田空港や東京ビッグサイト、さいたまスーパーアリーナ等を建設した大成建設がになっている様です。

別荘は地上1階、地下3階の4階建てでヘリポートや露天風呂に至いたってはなんと8つも設けられるのだとか・・・

このビル・ゲイツの別邸とされる巨大建造物の建設に対しては近隣住民から多くの苦情が出ている様です。

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テニスコートへのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢1100
0267-42-2680

軽井沢のパワースポット 諏訪神社

創立年代不詳、当軽井沢地区開発の当初、信州一の宮諏訪大社の御分霊を戴き奉斎せられた。
軽井沢郷の鎮守産土の神として、古来より厚く崇拝されている。

諏訪神社は全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。

また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。
諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。

長い参道を進む、ひんやりして涼しい木陰の道です。

軽井沢町天然記念物「諏訪神社社叢」トチノキ巨木。

旧輕ロータリーから間近にあり、散策の手始めに先ず訪れよう。

御本殿は軽井沢宿の最も繁栄した元禄期の再建であって、優れた彫刻が施されている。

明治6年(1873)村社に列せられ、昭和55年(1980)献幣使参向指定神社となり、今日に至る。
この社叢には、13余種の高木が立ち並ぶ。

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諏訪神社への行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢865(諏訪の森)

上越新幹線長野線軽井沢駅タクシー10分位