世界で唯一 温泉に入るサル「地獄谷野猿公苑」

地獄谷野猿公苑(じごくだにやえんこうえん)は、長野県下高井郡山ノ内町の地獄谷温泉にある野性のニホンザル(Macaca fuscata)の保護および観察を行っている野猿公園。

冬場に温泉にサルが浸かる国際的な観光地。
英語圏では“Snow Monkey Mountain”とも呼ばれる。

冬季間は渋温泉から地獄谷駐車場間に続く道は封鎖され、上林温泉の無料駐車場からのアクセスとなります。

約30~40分の山道、最初と最後が坂になるが途中は平坦な道。

しかし、道はぬかるんでおり、長靴等それなりの用意が必要かと思います。

1964年の開苑当時、好奇心旺盛な仔ザルが付近の旅館「後楽館」のヒト用の露天風呂に入浴し、それを大人のサルが真似をし始めたのが始まりで、のちに、衛生面から「お猿さん専用の露天風呂」が整備された。

2012年末現在、50-60頭が12月から3月の間に入浴する。

ここには川沿いに露天風呂もあり、宿泊と日帰り温泉入浴が可能です。

野猿公苑の見学で冷えた体を温めに、今度は自分が温泉に入るのも良いと思います。(日帰り入浴時間は正午~午後3時)

さらに、運が良ければ?猿が旅館の露天風呂に入り、猿と混浴になることもあるそうです。

野猿公苑のそばには、国の天然記念物「渋の地獄谷噴泉」があり、こちらも見どころです。

地中から音を立てて熱泉が吹き上がり、高い時には20mにも達する光景を見ることができます。

ここから公苑まで約5分。急な階段です。

公苑に入ると早速います、恍惚とした表情が何とも言えない。

猿が入浴するという温泉、猿の数より人の数の方が多い。

長野オリンピックでのスノーボードのハーフパイプ会場となった「かんばやしスノーボードパーク」がそばにあったため[、長野五輪のころから各国のメディアが紹介し、日本国外にも公苑が知られるようになった。

観光客の内、約2割が日本国外からで、サルが風呂に浸かる冬季は、多いときは3-4割が日本国外の観光客で、中でもスキー観光の際に訪日するオーストラリア人観光客が多いと報道される。

また、日本国外の観光客は、2006年は約14,000人、2009年には約18,000人、2010年には約23,000人いた。

公苑によると、2010年の1月の時点で、冬季の平日の平均来場者が約150人で、うち半数以上が日本国外人で、多いときは7割を超える日もあり、週末や休日などは、観光客が多い日は500人前後が訪れるが、うち約半数は日本国外人で占められていると話していた。

人になついており観光客の側に寄ってくる。゜

こんな表情とか。

こんな表情も。

露天風呂は渓谷沿いにあり、人が入っても気持ちが良さそうなロケーションで、冬場は41度に温度を設定しているそうです。

サルが温泉に入るのは、体を清潔にするなど水浴びの意味ではなく、雪が降るほどの寒さをしのぐためのものと考えられている。

入浴するのはメスと子猿がほとんどだとされ、風呂に入るオスザルはほとんどいない。

理由は、雄猿は群れを守るためにすぐに行動できる態勢をとっているからと、毛が濡れて自身の体が小さく見えるのを嫌うから、だと考えられている。

また、サルは湯冷めをしないといわれている。

サルは汗腺が少なく、寒冷地適応もしているためと説明される。

こんな微笑ましい風景も見られます。

川を軽々と飛び越え動き回る。

ギャーギャーとわめき声をあげて献花があちこちで始まる、とこにはちゃんと仲裁役もいるのです。

周囲は冷え込んでおり、日陰に入ればこの通り。

温かい冬の日差しを浴びながら大阪に向かう。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

地獄谷野猿公苑へのアクセス、行き方歩き方

長野県下高井郡山ノ内町平穏6845

鉄道:JR東日本長野駅より長電バス(急行 志賀高原線)で40分、上林温泉口下車、徒歩30分。
鉄道:長野電鉄湯田中駅より長電バス(志賀高原方面行き)で10分上林温泉下車、徒歩30分。

よませ温泉

地獄谷野猿公苑訪問の前泊としてよませ温泉に宿をとっています。

ここは信州サンセットポイントとして有名だがあいにく曇りがちの天候です。

絶景展望露天風呂『遠見の湯』より善光寺平が一望の下。

翌朝の日の出。

雪景色が茜に染まる、前方は善光寺平。

遠見の湯は、信州サンセットポイント百景に選ばれ絶景を楽しむことができる。

日中は北信五岳や遠くは北アルプスを、近くには千曲川(信濃川)が流れる長野盆地を一望する。

ちなみに北信五岳って・・・・・

皆さんは、「ま・み・く・と・い」って知ってますか?これは地元で呼ばれている北信五岳の覚え方で、右から順に、「ま」ー斑尾山、「み」-妙高山、「く」-黒姫山、「と」-戸隠山、「い」-飯縄山となります。

よませ温泉 ホテルセランのすぐ裏はよませ温泉スキー場。

常設のポール専用ゲレンデを持つ。東京都中学校スキー大会は例年このスキー場で行われる。
そのためか中学生のスキー教室の学生がめだつ。

ゲレンデは、広めのバーンが特徴であり標高差約500メートルをいっきに滑り降りることが可能となる。

ホテルはスキーを楽しむ若者たちでごった返しています。
関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

よませ温泉へのアクセス行き方歩き方

長野県下高井郡山ノ内町夜間瀬6995

長野電鉄湯田中駅より、無料送迎車にて10分、上信越自動車道信州中野IC下車、北志賀高原方面へ約15分

早春の松本城

安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。

松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門で、高麗門。

平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元された。

この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。

松本城 一の門、本丸へ入る重要な入り口です。

この門を入るとかつては本丸御殿がありました。

本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。

門を入ると美しい姫が出迎えです。

市川量造と小林有也のレリーフ

向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。

これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。

「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。

天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に駒をつないだという話を伝える桜。

城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、昭和30年代後半から昭和40年代前半に、現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。

現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守。

左から大天守、辰巳附櫓、月見櫓。
これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。

天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。

天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
傾斜も緩い。

※未加工の自然石だがほぼ大きさの揃った石材を横方向に並べ、横目が通った積み方を「野面布積」といいます。

横目が通っているが所々乱れているものを「布積くずし」といいます。
松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積くずしです。

天守からの展望、正面奥は美ヶ原王ヶ頭。

以前美ヶ原を訪れた際の王ヶ頭の記事。

標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻
山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。 朝食前の朝の清々し … 続きを読む →


こちらからは槍ヶ岳が望めるはずですがガスって見えない。

5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

右から乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓。

前回訪れた際の記事。
信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城
クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日 … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分

古民家を訪ねて 信濃秋山の民家(旧山田家住宅)

長野と新潟の県境付近に位置する秋山地方は日本でも有数の豪雪地帯です。
この地方から秋田県にかけて、中門造の民家が多く分布しています。

その中でも昭和36年に移築されたこの民家は特に珍しいもので、18世紀中頃の姿をとどめています。
移設元旧長野県下水内郡栄村上ノ原

この民家は村の一番高い場所に位置していて、恐らく持ち主は、庄屋か組頭をしていたものと思われます。

家の周囲の壁は葭簀を張りその外側を厚い茅で取巻いています。
前方に突き出た中門付の入口には便所と厩があり、運搬用の牛が飼われていました。

外観は曲屋と同じL字型の平面ですが、東北地方の日本海側から新潟にかけて見られる中門造りで、豪雪地帯特有の玄関を前面に出した形式。

この山田家の建てられていた信州秋山郷は日本でも有数の豪雪地帯で、平家の落人伝説も残る深山幽谷の地。

水盤(流し)、樋で水を引き入れ、流しっぱなしにして使っていた。(氷らないように)

牛小屋も家の中にあり、家族と同じ暖かい家の中で飼われていました。

入口を入ると、正面にナカダチと呼ぶ衝立に似た板壁があり、室内の目かくしの役割をしています。

ナカダチの下部にあるカマドでは主に雪国でかかすことのできない味噌用の大豆をゆで、食事の煮炊きはいろりで行いました。

家族の者が生活する場所は地路の切られたナカノマで、その奥には法事など特別な時にのみ使う、仏壇のあるデイと呼ばれる座敷があります。

その横は張台構えという踏み込みの高くなったつくりで、入口には筵をさげ板壁に囲まれている寝室があります。

このように寝室のみ間仕切りがあり、他は全く建具が使用されていない点も注目されます。

ニワ(土間)と寝室の入口には堀立柱が使用されていて、古く民家の柱は全て掘立柱であった頃の名残をとどめています。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

雲場池散策

地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。
軽井沢を離れる日の朝食前に池の周りを散策した。

2102年11月から社会実験を経て、実用化されている軽井沢六本辻の環状交差点(ラウンドアバウト交差点)。

2014年9月1日には道路交通法が改正され、道路もルールも本格化してから1年が過ぎました。

日本ではまだなじみの少ない交通方式ですが、徐々に浸透してきて、交通渋滞の緩和や安全に一定の成果があるのではないかと。

この画像は前々日に撮影のもの、この日は時間もなく入り口のみで引き返す。
雨に降られながらの散策だった。

本日は朝から快晴、軽井沢に来て最初で最後の快晴だ。
水面には霧が立ち込めいい雰囲気を醸す。

秋口を告げるセリ科の花シラネセンキュウ。
セリ科シシウド属の多年草、別名、スズカゼリ。

池にはたくさんの鯉も見られる。

湖面に映る四季折々の自然が美しい。

8月初めころに4匹のカルガモの雛たちが誕生したという、元気に育っているかな。

細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、近世にホテル鹿島ノ森の敷地内に湧く御膳水を源とする小川をせき止めて誕生した池である。

9日午前には台風18号が長野県に最も接近し、軽井沢でも雨風共に強くなったが幸いにも大きな災害にはならず。

池の中ほどにある流れ込み。

前方が白洲次郎の元別荘と聞いたが?
R’s pond cafetが庭部分だけを借りて営業しているという。

確かにそのようなブログ記事は存在するが、一編のみで、他に関連記事は見られない。
R’s pond cafetと白洲次郎というキーワードでは記事が見当たらない。

これだけ多くの人が訪れる観光地ですこし不自然に感じる、保留としておこう。

池の反対側から見たR’s pond cafet。

白洲次郎と言えば南ヶ丘の別荘が有名だ。

占領下の米軍をして「従順ならざる唯一の日本人」と嘆かせた快男子、白洲次郎。

白洲は、昭和27年コースが米軍接収から解放された時に、理事となっている。
昭和57年2月理事長に選任される。

世評では、白洲次郎といえばプリンシプル(原則)の男である。
軽井沢GCでも、プライベートクラブの原則を貫いたというエピソードで語られることが多い。

たとえば、T総理が、ある日曜日に、駐日外国大使を伴って来場したが、白洲理事長にプレーを拒否されたという話。
またN総理は、SPを帯同して来場、プレーを断られたという話。

二つの話とも、メンバーシップの原則による処理で、それが、特別に白洲次郎が強面の怪物だったかのように作られてしまったようだ。

池の流れ込み部が近づいた、霧に煙る風景が何とも言えない。

クマが出没するとの物騒な看板があった。
背中を引っかかれたとかの記事も見受けられた。

池の反対側です、4匹のカルガモがなかよく泳ぐ、今年生まれた雛たちかな。

木々の間からの光芒がきれい。

何とも言えない神秘的な光景です。

クモの巣と枝から滴る水滴が陽に輝く。

約30分の散策の後スター地点に戻る、先ほどの切りはまるで嘘のように池面はクリアだ。
これで4日間の軽井沢観光も終わり、雨にたたられた日々だったが最後の晴れがせめてもの慰めかな。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

雲場池へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町六本辻
Tel:0267-42-5538 (軽井沢観光会館)

JR長野新幹線軽井沢駅から徒歩約15分

軽井沢アウトレット

新軽井沢の中心は軽井沢駅ですが、軽井沢駅周辺は南口にアウトレットができて一変したとのこと。

かつてゴルフ場があった場所に北陸新幹線軽井沢駅とともに設けられた。

そのため、ゴルフコースをそのまま残した広大な「芝生の広場」があり、それを囲むようにEast・New East・New East Garden Mall・味の街・West・New Westの6つの店舗群が配置されている。

軽井沢滞在の4日間は台風の影響で雨に降られっぱなし、しかし、観光は順調にこなした。
そして何かと便利なアウトレットには何度も足を運ぶことになる。

西武プロパティーズの親会社の西武ホールディングスによると、2013年度の実績で外国人客を乗せたツアーバスの来訪実績が前年度より67%増えた。
14年度は現在集計中だが、「大変好調です」と手応えを感じているとのこと。

「東京・富士山・京都・大阪」といった外国人観光客の”日本のゴールデンコース”以外に、中国人観光客の間で「日本の皇族御用達の避暑地」などと密かに話題となっている観光地がある。

それは、天皇陛下と美智子妃殿下の「テニスコートの出会い」の場としても有名な、ハイクラスな人々が集まるリゾート・軽井沢だ。

さらに、「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」のアウトレットモールでのブランド物ショッピングも注目されており、「旦那のためのバーバリーの男物の靴がすごく安く買えた!

軽井沢に来て得した!」というある奥様ネットユーザーのツイートには、「買い物上手な良い奥さん!」など、賞賛コメントが集まっている。

こうした評判を耳にし、「海南島のリゾート・三亜に行くか、息子を連れて軽井沢に行くか、迷っています!」「結婚写真を軽井沢で!」など、次の旅行先として軽井沢を検討するつぶやきも多数アップされている。

今後、通好みの日本旅行を求める中国人の間で、軽井沢はますます話題になりそうだ。

この日も雨です、アウトレットは霞んで見えません。

1918年(大正7年)に、堤康次郎による西武資本が、沓掛区有地坂下ほか山林60万坪を3万6千円(1坪5銭)で買収し、開発に参入。

1945年(昭和20年)には東急資本も開発に参入し、その後は東京後背地のリゾート地として発展した。

雨がきつくなると観光を注視してアウトレットで休憩・・・を何度も繰り返す。

最近動物と一緒に食事できる店などもできて、ペット連れの観光客が多い。

そして 軽井沢最終日の前日も雨だった。

ご覧の通りの大地を叩きつけるような豪雨でとても外は歩けません。

ショッピングモールも霞んで見えなくなってしまった。

どうですこの雨、画像に雨足が写っています。

待つこと約2時間、空が晴れてきた、それっこの間に観光だ。
軽井沢銀座散策に出かけた、訪問記はすでに掲載済みです。

最終の夕食は再びアウトレットで・・・・帰りの径にはかわいい木彫りのクマが。

グルメに関しても高額な旧軽銀座の値段を避けて、リーズナブルなアウトレットで食事をする人が増えつつあるようです。
今日は洋食にした。

しかし、何か物足りなさを覚え、再び築地の海鮮屋で飲み直し。

霧に霞むまちを宿へと急ぐ。
滞在中、この作業を何度かこなした。

軽井沢のマンホールの蓋、「浅間山」と「シラカバ」がデザインされている。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

軽井沢アウトレットへのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1178
0267-42-5211

JR北陸新幹線・しなの鉄道線軽井沢駅南口を出てすぐ

旧軽井沢駅舎記念館

長野新幹線開業によりお役御免となった旧駅舎を記念館として利用した施設で元ホームに碓氷峠を行き来した機関車が保存されている。

明治43年に大改築された駅舎が、軽井沢駅北口西側に建築往時の姿で復元された。

横川~軽井沢間の碓氷峠のアプト式電車の模型が展示されている。

記念館2階は歴史記念室としてかつての貴賓室を再現している。
一部の建具やカーテンボックスなどは、取り壊し前に保管しておいたものを補修し再使用している。

元ホームに碓氷峠を行き来した機関車が保存されており、この改札口から元ホームへ出ることができる。

碓氷峠が粘着運転となってからの補機・EF63、しかもここにあるのは量産機トップの2号機。

粘着式鉄道(ねんちゃくしきてつどう)は、駆動力が車輪にかかって車輪とレールの間の静摩擦に頼って走行する鉄道を指す言葉。
粘着 (adhesion) という言葉は摩擦という意味で使われ、レールに車輪がくっつくという意味ではない。

車齢103年を迎える日本最古の電気機関車、10000形改めEC40形電気機関車。

明治26年に開通した信越本線の碓氷峠ですが、この区間には26ものトンネルがあるために煤煙被害がひどく、その対策として明治45年に電化された。

同線用に輸入されたドイツ・AEG製の機関車こそがこの10000形で、合計12両(10000‐10011)、のちに形式改称でEC40 1‐12となって、昭和11年に後継車のED42がデビューするまで活躍した。

信越本線横川 – 軽井沢間(碓氷峠)では、1893年(明治26年)の開業時からアプト式蒸気機関車が使用されていたが、26か所ものトンネルが存在するうえ、運転速度が低く同区間の運転に1時間15分を要したため、乗務員や乗客は機関車から出る煤煙に苦しめられていた。

本形式は同区間の電化に際して新製されたアプト式電気機関車で、1912年5月11日の同区間の電化の際に使用される電気機関車として、12両が輸入された。

ドイツのAEGおよびエスリンゲン社(Esslingen)の合作により1911年(明治44年)に製造された。

落成当初の形式番号は10000形10000 – 10011と称したが、1928年(昭和3年)10月の車両形式称号規程改正により、EC40形EC40 1 – EC40 12に改められた。

しなの鉄道発足にあたり湘南色のまま譲渡されたが、後にしなの鉄道色に変更。

2008年にイベント用に湘南色に塗装変更、2009年に一旦しなの鉄道色に戻されさよなら運転を控えて2010年に再度湘南色になった。

2013年4月にさよなら運転を行い7月に軽井沢駅構内にクモハのみ保存された。

軌道用マルチプルタイタンパー(MTT)、しなの鉄道設立といっしょに、八王子のほうからやって来た。  

お客様の乗り心地を良くするために、電車の揺れの原因になる線路のゆがみを一生懸命直してきました。  

しかし度重なる故障には勝てず、2003年3月で引退することになり、現在は第3の人生を、軽井沢の旧軽井沢駅舎記念館で送っています。

草軽電鉄の電気機関車デキ12、電気機関車の時代の「デキ形」は、長いパンタグラフとL字型の車体に特徴がある。

自重が軽く、車輪が小さい為に坂の多い軌道上ではスリップ、脱線もあり、特に凍結時には運転が困難だった。
しかし、その姿はかぶとむしの愛称で呼ばれ最も親しまれた。

映画に登場したデキ12。
「マダムと女房」 昭和6年(1931)田中絹代主演、日本初のトーキー映画として軽便鉄道を全国に知らせるきっかけとなった。

「彼女はいやといいました」 昭和8年(1933)斉藤達雄・桑野通子主演

「カルメン故郷に帰る」 昭和25年(1950)木下恵介監督・高峰秀子主演、我国初のカラー映画、北軽井沢駅が中心に 。

「月はとっても青いから」 昭和32年(1957)菅原都々子主演、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。

「山鳩」 昭和34年(1959)森繁久弥・岡田茉莉子主演、当時の駅長さんも映画に出演。

現在の軽井沢駅。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

旧軽井沢駅舎記念館へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢1178 -1246
TEL 0267-42-1398

JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車→徒歩 2分

軽井沢聖パウロカトリック教会

軽井沢聖パウロカトリック教会(かるいざわせいパウロカトリックきょうかい)は、長野県北佐久郡軽井沢町にあるカトリックの教会ならびにその聖堂である。

1935年(昭和10年)に英国人のワード神父により設立され、米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが設計を担当。
軽井沢の歴史的建造物の一つであり、聖パウロカトリック教会とも呼ばれる。

傾斜の強い三角屋根と大きな尖塔、また、屋根にはめ込まれたマリア像とその頂に輝く十字架がとても印象的です。

堀辰雄の小説「木の十字架」にも登場し、「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」との言葉を残している。

また、「風立ちぬ」(堀辰雄)、「掌の小説」(川端康成)にも登場し、多くの文豪たちもひきつけられたことを物語っている。
ここで結婚式をあげるカップルも多く、西郷輝彦と辺見マリ、林隆三と青木一子、林正和と森山加代子、吉田拓郎らもここで挙式した。

本日は台風の影響で中へ入ることができません、隙間から中の様子を撮影。

絵葉書で内部の様子を、内部は木がむき出しのエックス型のトラス構造になっている。
木のぬくもりが伝わってきます。

教会の鐘。

アシジの聖フランシスコの像、聖フランシスコは、1182年にイタリア中部のアシジという町で金持ちの商人の家に生まれた。

若い時は日ごと夜ごと遊び暮らしていたが、ある時心を入れ替えて自分の持ち物まですべて与えてしまうほど、貧しい人のために尽くすようになった。
自らも貧しい生活を送った。

フランシスコ会の創立者。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

軽井沢聖パウロカトリック教会へのアクセス、行き方歩き方

長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢179

北陸新幹線、しなの鉄道:軽井沢駅 徒歩20分
JR軽井沢駅→草軽交通バス北軽井沢行き、または西武高原バス草津方面行きで5分、バス停:旧軽井沢下車、徒歩6分

避暑地軽井沢発祥の地 ショー記念礼拝堂

軽井沢を避暑地として広めたショーの別荘(復元)を記念館として公開している。
この建物が軽井沢別荘の原形である。

カナダ生まれの聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会。

江戸時代の軽井沢一帯は、寒冷地帯であるため農作物には恵まれず、旅人が落とす路銀が唯一の収入源でした。

しかし明治に入ると中仙道を歩く人はいなくなり、軽井沢は急にさびれていきます。
寒冷地の軽井沢。高原野菜はまだ日本にはありませんでしたから、ろくに食べるものもない寒村でした。

そのうえ1884年(明治17年)、碓氷(うすい)新道の開通により、宿場への人の流れは完全に絶たれてしまいました。
しかし、この寂れた軽井沢が、イギリス人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーの来訪によって盛り返すことになります。

避暑地発祥の地碑が建つ。

明治19年、偶然、さびれた軽井沢へ通りかかったのが、カナダ生まれで英国国教会の宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーと友人の英語教師ジェームズ・ディクソンでした。

彼らは、軽井沢の涼しい自然に祖国スコットランドの風景を思い出しました。
彼は、この地を「屋根のない病院」と感動し、彼らは休業状態の旅籠『亀屋』を訪れて「一夏の間、借りたい」と申し出たのです。

亀屋の主人・佐藤万平はこれを好機と捕らえ、外国人の生活習慣や彼らをもてなす技術を学ぶことにしました。
そして明治27年(1894)に一部を洋風に改装して亀屋ホテルと名乗り、翌年、万平ホテルと改めます。

日本有数のクラシックホテル 万平ホテルの記事もどうぞ。

礼拝堂の入口にショー記念像が建つ。
偉大なA・C・ショーの当時の面影を偲ぶことができる。

村民によって寄贈されたアレキサンダー・クロフト・ショー記念碑。

教会の鐘楼。

軽井沢を避暑地として広めたショーの別荘(復元)を記念館として公開している。
この建物が軽井沢別荘の原形である。

残念ながらこの日、台風の影響の大雨で見学できませんでした。

ショー記念礼拝堂の日時計。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

ショー記念礼拝堂へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢57-1
0267-42-4740

JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車バス4分→徒歩 10分

ヴォーリズの設計 軽井沢ユニオンチャーチ

明治30年に設立された宗派を超えた教会。
今日に至るまで、集会、音楽会、日本語学校などが開かれてきた。

建物の構造は、木造押縁下見板、板張切妻屋根で建築されている。

教会内は300人は収容できる大ホールとなっており、当時としては軽井沢最大級の建築物である。

教会の天井中央には軽井沢を象徴する白樺で作られた白い木の十字架が印象的だ。

宿場町としての役割を終えて衰退していた軽井沢を、外国人向けの避暑地として紹介し開発の基礎を築いたのがA・C・ショー(1846~1902)ならば、まちづくりの基礎を築いたのがカナダ・メソジスト教会の宣教師であったダニエル・ノルマン(1864~1940)という事になります。 

彼は軽井沢を清潔な保健的静養地としてまとめ上げ、布教活動の傍ら町の環境衛生や自然保護、文化活動に尽力したと伝わります。 

このユニオン教会もノルマンがカナダ・メソジスト教会からの資金援助を得て、キリスト教各派合同の礼拝所としてウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の設計により完成させたものです。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

ユニオン教会へのアクセス、行き方歩き方

北佐久郡軽井沢町軽井沢1001
電話:0267-42-4605

JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車バス4分→徒歩 7分JR北陸(長野)新幹線軽井沢駅下車バス4分→徒歩 7分