龍門司坂 大河ドラマ『西郷どん』ロケ地


旧加治木町に残る古道です。
旧大口筋の一部で、木田の高井田から毛上に通ずる石畳の坂。

寛永12年(1635年)に着工し、その100年余後に完成したと言われます。

石は近くの樋ノ迫山から切り出されたと伝えられ、石切場には、後に24代藩主となった島津久門(加治木島津家4代)の祠が残されています。

全長は1,500メートル余りありましたが、現在は464メートルが当時の姿で残っているのみです。

物資の往来する主幹線として薩摩の経済・文化に大いに関与し、明治10年(1877年)の西南の役の際は、西郷隆盛率いる薩軍がこの坂道を通って熊本へ向かいました。

平成8年に文化庁より「歴史の道百選」に選定されました。

大河ドラマ「篤姫のロケ地としても有名です。

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日本一の巨樹 蒲生の大クス

藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4年(1123年)に大隅国へ下向、生母が宇佐八幡宮の宮司家出身であった縁で同宮から勧請して創祀したという。

戦国時代、島津氏との激しい戦いの末に蒲生氏は敗れて島津氏の軍門に下り、弘治3年(1557年)他地に退去させられた。

その後島津義弘により社殿が再建される。
また元和4年(1618年)12月には義弘から鳥居と額が奉建されたともされる。

蒲生の大クス – 推定樹齢1,600年(平成22年現在)の楠の大木で、国の特別天然記念物。昭和63年(1988年)度の環境庁による巨樹・巨木林調査で日本一の巨樹であると認定された。

宇佐八幡宮神託事件で大隅へ配流された和気清麻呂が当地を訪れ、手にしていた杖を地に刺したものが根付いたものと伝えられ、神社創祀時には既に神木として祀られていたという。

幹の下部は凹凸が多く、幹の内部は直径約4.5m(タタミ8畳分)の空洞になっています。
また、樹木の枝張りは東方に約12m、西方に約12m、南方に約10m、北方に約19mにも広がっています。

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知覧武家屋敷群


知覧は「薩摩の小京都」とも呼ばれている。
徳川幕府時代、薩摩藩(島津77万石)は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。

知覧もその外城の一つであり、薩摩藩の中でも重要な役目を果たした第十六代佐多久達の時代に島津姓の使用と私領地化が許され、城塁型の区画が形成された。

現在に残る武家屋敷群は、第十八代知覧領主・島津久峰の時代につくられたもので、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と大刈り込みの生垣に当時の面影が残る。

1981年(昭和56年)11月に、国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。

知覧型二ツ家民家

南九州の民家は,現在でも南西諸島で見られるように,オモテ・ナカエ・ウマヤ・便所・風呂場が独立した分棟型が基本でした。

オモテとナカエを連結させた建物として,棟と棟をつなぐ小棟の形状がが知覧独特であることから,知覧型二ツ家と呼ばれています。

平山克己氏 庭園

明和年間(1764~1771)の作庭と伝えられています。
主屋の北側にあり北東隅に枯滝を組み、石組みは西に連なっています。

背後に築山風の大刈込み、外側に生垣がめぐり東北部は高さ4mに達します。

母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた借景園。北側の隅には石組みを設けて主峯とし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっています。

また、どこを切り取っても一つの庭園を形づくり、調和と表現にすぐれた庭園として絶賛されています。

大海原には無人島が浮かび、遠くには緑の大陸が望まれ、想像とロマンの世界で楽しめる庭園です。

西郷恵一郎氏邸庭園

庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峯とし、この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現しているのだそうです。

また「鶴亀の庭園」とも言われるこの庭園は、一変して高い石組は鶴となり、亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶように配され、うまく石とサツキが組み合わされております。

佐多民子氏 庭園

寛保・寛延・宝暦(1741~1763)頃の作庭といわれ、知覧庭園群の中でも石組み及び庭園の地割構成が最も技術的にも感覚的にも力強い庭園です。

主屋の北側にあり、北西隅に高く石組みし三層石塔を置き、カエデ、マツ、イヌマキなどを植栽し、中央部から東部にかけて巨石を配しています。

巨岩奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を写しだし、小船に乗って石橋の下を潜っていくと、仙人が岩の上から手招きしているようです。

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知覧特攻平和会館


1985年に開館した施設で、特攻隊員の遺書、遺品約4,500点が展示されています。

ちなみにこの施設は館内は一切撮影禁止なので、このブログにも掲載している写真は全て館外にあるものです>

特攻隊はアメリカ軍が沖縄・慶良間列島に上陸した太平洋戦争末期の昭和20年3月26日にはじまっています。


会館周辺には護国神社や1955年に建立された知覧特攻平和観音堂があり、浄財や篤志家によって建てられた特攻勇士の像「とこしえに」(1974年設置)と母の像「やすらかに」(1986年設置)が向かい合うように建っている。

一帯にはいくつかの慰霊碑が設けられ、次第に数を増やした灯籠が並び、鎮魂の雰囲気を醸しだしていた。

三角兵舎跡、空襲を避けるため飛行場から少し離れた松林の中に三角兵舎が造られた。

三角兵舎は、半地下式木造のバラック建てで、屋根には偽装用の幼木をのせていました。

ここで特攻隊員たちは出撃までの数日間を過ごしたのです。

現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑が建てられています。

陸軍関連の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる439人が知覧から出撃したと会館では記録しているが、資料によっては変動も見られる。

なお知覧から出撃したのは基本的には陸軍の部隊であることに注目する必要がある。

実際に、出撃した航空機数や戦死兵の数は海軍の鹿屋基地の方が多く、知覧の2倍前後もの数となっている。

ただし、陸軍の兵士であっても鹿屋から出撃したり、逆に海軍の兵士が知覧から出撃するといったイレギュラーケースもあった。

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JR最南端の駅 西大山駅


JR最南端に位置する西大山駅は、鹿児島中央駅~枕崎駅を結ぶ指宿枕崎(いぶすきまくらざき)線にある駅。
もちろん、この指宿枕崎線自体も、JR最南端を走る路線。

開業以来長らく日本最南端の駅だったが、2003年の沖縄都市モノレール線開業に伴い、同線の赤嶺駅にその地位を渡した。

その際、日本最南端の駅の標柱を本土最南端の駅に改めたが、沖縄は本土ではないのか、との意見が寄せられたことから、2004年に表記をJR日本最南端の駅へ変更している。

9時10分に列車が通過する、その後は14寺18分まで列車はない、超過疎の駅なのだ。
せっかくのシャッターチャンスも団体客が多く思った構図の画像が撮れず。

幸せを届ける黄色いポスト

全国でも珍しい「黄色いポスト」。
指宿市の花に指定されている「菜の花」をイメージしています。

開聞岳の神秘的な姿を眺めながら、普段は伝えることが出来ない気持ちを手紙にしてみてはいかがですか?きっと、幸せを運んでくれるかも・・・。

前の売店で絵葉書や切手なども購入できるので、現地で記念に投函もできます。

開聞岳は薩摩富士と呼ばれる美しい山で、標高924mの日本百名山の一つです。

駅のそばにはお地蔵さんが静かにたたずんでいました。

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真冬の鹿児島を彩る黄色い絨毯!菜の花×開聞岳×池田湖


池田湖(いけだこ)は、鹿児島県の薩摩半島南東部にある直径約3.5km、周囲約15km、ほぼ円形のカルデラ湖。九州最大の湖。

特に1月は菜の花が満開となり、「菜の花マラソン」をはじめジョギングやサイクリングのコースとしても多くの人が訪れ、その光景は一足早い春の訪れを感じさせてくれます。

菜の花と言えば司馬遼太郎の菜の花忌が間もなくやってきます。

菜の花忌には記念館の周りは-@ランティアの皆さん、市民の皆さんが丹精込めて育てた菜の花ロードが出来上がります。

そしてこの菜の花忌に毎年菜の花を送ってくださるのがここ指宿市です。

司馬遼太郎菜の花忌2018スタート
この日ボランティアの皆さん、地域の皆さんが昨年の9月から丹精込めて育てた菜の花が … 続きを読む →

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →


開聞岳はというと、富士山と同じような整った円錐形の成層火山で、標高は924m。1,000mに満たないものの、日本100名山にも名を連ねている美しい独立峰です。
まさに薩摩半島のランドマークと言えるでしょう。

この開聞岳は、登れば頂上からの360度の絶景が、麓からは長閑な里の風景や東シナ海の荒波越しの景観が楽しめます。

湖面の標高は66m、深さは233mで、最深部は海抜-167mとなる。

湖底には直径約800m、湖底からの高さ約150mの湖底火山がある。
池田湖を含む窪地地形は池田カルデラと呼ばれている。

古くは開聞の御池または神の御池と呼ばれており龍神伝説がある[。

開聞岳の噴出と池田湖の陥没が連動して起きたという俗説があるが、地質学的観点では両者の活動時期に1000年以上の時間差があり、池田カルデラの大きさに見合う火山噴出物(池田湖テフラ)が周辺の地層に残されていることなどから、直接的な因果関係はないとされている。

1961年頃より池田湖には巨大水棲生物が存在していると噂され、ネス湖の未確認生物ネッシーになぞらえて「イッシー」と呼ばれていた。

1978年9月3日には指宿市池崎地区の住民約20名によりイッシーが目撃され、全国で報道されたため有名となる。

湖に生息する市天然記念物のオオウナギは体長が2mに達する個体もあり、これが正体ではないかとも言われている。

このほか出現時期から、当時池田湖に放流された大型魚ハクレンの魚群の誤認ではないかとする説もあるが、イッシーの正体は今も不明のままである。

駐車場におとなしくお留守番のワンちゃんがいました、カワイイ。

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島津家別邸「仙巌園」


鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)

幕末の頃から廃仏毀釈運動の煽りを受けて薩摩藩領内の寺院を廃止する機運があったが、明治2年3月24日、島津忠義の正室である暐(てる)姫が死去した際、葬儀を神式で行うことが決まったことをきっかけとして薩摩藩領内の寺院の排斥が一気に進行、かつて島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺も廃絶の憂き目にあった。

その代わりとして同年11月に忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と号したのに創まる。

仙巌園(せんがんえん)は鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。
別名磯庭園(いそていえん)。敷地面積は約5ha。

1658年(万治元年)に第19代当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた。

借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958年(昭和33年)に国の名勝に指定された。

錫門

赤い色が印象的なこちらは錫門。
江戸時代は藩主とそのお世継ぎだけが通ることを許された門です。

青い空、緑の木々を背景に、赤い色がとてもあざやかです。

仙巌園から見た桜島

桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な景観を楽しむことができます。

庭園から磯御殿の方向を望む。

幕末には第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こした。

1857年(安政4年)には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥におけるルーツの一つとして挙げられる場所にもなっている。

園内は梅が今を盛りと咲き誇っています。

磯御殿
島津家の別邸として利用された磯御殿は、見事な書院造り。

明治21年からは焼失した鹿児島城に代わり、島津忠義公爵一家の住まいとなっていました。
昭和32年に島津家に返還され、現在は島津興業が管理公開しています。

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有村溶岩展望所


有村溶岩展望所は鹿児島県の桜島にある展望スポット。

現在も火山活動を続ける南岳の麓で、1946年に あった噴火で溶岩が一面に流出してできた溶岩原の丘の上に位置する。

有村溶岩展望所周辺は、昭和溶岩、大正溶岩の両方に覆われる桜島でも貴重な場所。

大正3年に発生した大正大噴火では、溶岩流で当時の東桜島村有村集落のほぼ全域が埋没し、江戸時代から別荘地的な役割を担った地が溶岩に埋め尽くされたのです。

有村温泉なども溶岩流で消えています(今も有村海岸で干潮時に波打ち際を掘れば温泉が湧出します)。

さらに昭和21年の溶岩流で、集落の半分が埋まっています。

ライオン岩や

奇岩がずらり。

ここから見る山は、見慣れた横長の桜島とは違った円錐型。
2つの山が並ぶ複合火山・桜島は、見る場所によって全くその姿が変わるのです。

全長約1kmの遊歩道からは、山のみでなく、錦江湾も一望でき、天気がよければ開聞岳まで望むことができます。

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志布志へ


指宿へ菜の花を見に行きます。

指宿は12月下旬〜翌年2月上旬に菜の花の見頃を迎える。
年間平均気温は19度。池田湖周辺は日本で1番早く菜の花が咲くことで知られ、約94万本もの菜の花が咲く。

菜の花の季節に指宿を訪ねれば、ソラマメ、グリーンピース、スナップえんどうといった春が旬の豆類があちらこちらの畑に実っているのを見ることができるでしょう。

コスモフェリーターミナル、左が志布志航路、右が別府航路のフェリー。

乗船するのは「さんふらわあきりしま」2018年9月15日に就航した新造船です。

エントランスホール内のアトリウムで乗船プロジェクションマッピングを楽しむことができます。

6時45分、月が沈みます。

そして日の出です、船は宮崎沖を航行中です。

都井岬がみえてきました、ここまでくれば志布志も間もなくです。

都井岬には以前、野生の御崎馬を訪ねました。

都井岬に御崎馬を訪ねる
今回の宮崎行きのもう一つの目的は都井岬にありました、草原を颯爽と疾駆する馬の姿を … 続きを読む →

野生の御崎馬が棲息することで知られ、「御崎馬およびその繁殖地」として国の天然記念物に指定されている。
この野生馬は江戸時代に高鍋藩が軍用馬飼育のため、放牧を始めたものが、後に半野生化したものである。

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魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅 王塚古墳

王塚古墳(おうづかこふん)は、福岡県嘉穂郡桂川町寿命(じゅめい)に存在する古墳で、5つの色彩で彩られた壁画が石室内ほぼ全面に施されていることで知られている。
日本の特別史跡。

1934年(昭和9年)9月30日に採土工事中に前方部が削られ、横穴式石室の前室右壁隅が開口し、偶然発見されたもので、6世紀中ごろに作られたとされている。

形状は前方後円墳であるが、先の工事によって墳丘の半分以上は失われている。

現在、石室は完全に密閉されて保存されており、通常は見学することは出来ないが、春と秋の年2回一般に公開されている。

福岡県によって調査され、1937年(昭和12年)6月15日に国の史跡に指定。

1952年(昭和27年)3月29日に装飾古墳としては初めて国の特別史跡に指定された。

出土遺物は1956年(昭和31年)重要文化財に指定され、京都国立博物館に寄託されている。

前室から見た玄室の入り口。
左右に馬が描かれています。

馬具が付いていることから騎馬なのが分かります。

前室玄室を再現した実物大レプリカ。

王塚古墳の最大の特徴は、石室のほぼ全面に施された壁画。

描かれている図像は馬、靫(ゆぎ)、盾、刀、弓などのほか双脚輪状文、蕨手文、三角文、円文などの幾何学的文様。

2005年7月現在、日本で確認されている装飾古墳の壁画で使われている色は6色(赤・黄・緑・青・黒・白)あるが、そのうち青を除く5色が使われており、国内最多である。

王塚装飾古墳館の敷地には、竪穴式石槨の古墳が二基存在する。

いずれもその場所に築かれたものではなく、桂川町内から移築されたもの。

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