彦根城


彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。

当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。

画像は中堀から二の丸佐和山口多門櫓、天守を望む。

二の丸佐和山口多聞櫓

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。
左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
現在、重要文化財に指定されています。

佐和山口多聞櫓の上や下に多くのサギや鵜。

多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。

佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。

二季咲桜

内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜。
昭和47年4月に水戸市より寄贈された。

玄宮園から天守を望む。

琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。
4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営。

臨池閣の一部。

楽々園、槻(けやき)御殿は藩主の下屋敷で、玄宮楽々園の名で国の名勝に指定されている。

四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。

茶座敷(地震の間)
城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。
その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられた。

200年前前にいわば免震構造のような形になっているのです。

黒門跡。

黒門山道を西の丸目指して登ります。

見事な高石垣です。

今回も逆からの登城です。

彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。
しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。

一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。

また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。

今朝降った雪が残っています。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。

このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。

現存天守の記事を見る

佐和山城跡を望む。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

多景島

竹生島

国宝彦根城天守は北西に附櫓(つけやぐら)が、さらに長い多聞櫓が連なります。

また、破風は変化の妙に富んでいます。

天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北にが唐破風が設けられています。

太鼓門櫓の内部。

太鼓門櫓から西の丸三重櫓を望む。

本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。
10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれています。

三重櫓の東側一帯は桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わいます。

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。

時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら仰ぐ天守雄姿は格別です。

佐和山城を嫌った直政は琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

時報鐘、城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。

幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。



天秤櫓の上から表門山道を下る人々。

天秤櫓、表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えます。

この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。
まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。

現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

私は大手山道を下ります。

梅林、かつて、彦根城の公儀御用米の米蔵があった場所。

例年は、3月中旬から下旬にかけて、紅梅・白梅など約450本が春の訪れを告げます。

大手門橋跡る。

振り返って大手門跡を見る。

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夕闇迫る高知城

早めに夕食を終え夕闇迫る高知城に向かう。

やはり、高知城探訪の入口は、城の正門である追手門からであろう。

この門は、慶長年間に創建され、1663年(寛文3)に崩壊したのを翌年に再建したものとのこと。

高知城では珍しいのだが、切石を積んだ石垣の桝形上に、南面して建てられた両脇戸付櫓門で、屋根は入母屋造の本瓦葺となっている。

天守閣と大手門(追手門)がそろって現存している城は珍しく、この城と弘前城、丸亀城の3城しかないが、追手門前から天守閣を望めるのはここしかなく、有名な撮影スポットにもなっている。

山内一豊像

この銅像は桂浜にある坂本龍馬の銅像などを手がけた銅像作家、本山白雲の手によるもので、一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる1996年(平成8年)9月20日に再建除幕された。

銅像の本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスです。

追手門から登城するための階段は、登りにくい。わざとそういう足幅に作られ、攻めるにのぼりにくく、上方から下りるには都合の良い足幅になっているとか。

少し酒の入った体にはこの登りはきつい。

1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名。

1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残した。

それを書いた石碑も銅像の右後方に立っている。

この銅像は、桂浜の坂本龍馬の銅像製作者と同じ本山白雲で、1924年(大正13)に建立されたのだが、戦時中に供出され、戦後、再建されたものとのこと。

像の題字は、再建当時の内閣総理大臣吉田茂の揮毫だ。
自由民権運動の発祥の地と言われる高知県を象徴している銅像だ。

杉の段から見た天守閣東面。

杉の段にある山内一豊の妻像。

二の丸手前の階段付近から見た天守閣北面。

道路には高知城をあしらったプレートが見られる。

マンホールのふたは、市章に「S(Sewerage下水道の意味)」の入ったマークの周りに県の鳥ヤイロチョウ、県の花ヤマモモ、「高知城」のデザインに「T-14」「合流」の文字。

翌朝、ホテルの部屋から天守を望む。

以前訪れた高知城の記事。
南海の名城、高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。 山の南を流れる鏡 … 続きを読む →

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青葉の季節を迎えた犬山城

犬山城は江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。
また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

黒門跡、現在礎石が一つ残る。

登城道の最後の坂を登りつめたところに岩坂門があった。

本丸門(鉄門)、桜は葉桜になり、みどりがとてもきれいです。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。

また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。

江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。

江戸時代には尾張藩付家老成瀬氏の城として維持され、白石城と同じく大名家の城ではなかった。

城は最近まで個人の所有であった。

現在は財団法人「犬山城白帝文庫」に譲渡されているが、成瀬家の姫(成瀬 淳子氏)が理事長に就任して管理している。

過去の犬山城訪問記

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした
犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひ … 続きを読む →

桜咲く白帝城 犬山城
東海の山城、今日は二日目、まず訪問したのは山城でなく平山城の犬山城。 関連記事: … 続きを読む →

木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城
木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「後堅固(うしろけんご)の城」です。 標 … 続きを読む →

犬山早朝散策 美しい日の出を求めて・・・・
犬山での宿泊は久し振り、昨夜は雨だったが今日はどうやら晴れらしい。 今朝の目覚め … 続きを読む →

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姫路城ビューポイント探訪

2015年3月27日再公開以来人出の多さを気にしながら訪問の機会をうかがっていたが突然前夜思い立ち訪問。
歩数31000歩、丸一日がかりの探訪でした。

まずピオレ姫路〔piole HIMEJI〕屋上から偵察。

ここはJR姫路駅からも近く、姫路城の南面を非常に高い位置から望める貴重なスポット。
電車の空き時間などちょっとした時間で楽しめるスポットだ。

地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができる。

JR姫路駅前の城見台からの画像。

大手前通りの歩道は黄色いイチョウが落ち葉を散りばめきれい。

イーグレー姫路(屋上5階)、地上からでは見ることができない姫路城全体の縄張りを、一望することができ、距離も近いため望遠レンズがなくても、それなりに撮影することができて便利。

大手前公園から。

城見台公園の鯱の間から。

城見台公園からの画像、大手門から5分もかからずに行ける場所であるにもかかわらず、人の流れからは外れているせいか、あまり観光客が多くいる場所でなく穴場。

動物園横の広場から、この辺りも人はまばら。

「喜斎門跡(きさいもんあと)」は、姫路城の裏口・勝手口という意味合いの搦手口(搦手門)。

現在は石垣しか残っていませんが、日中も人の流れが少なく、落ち着いて写真撮影ができるスポット。

姫路城の東側を大迫力で写真に収めることができます。

ススキと残り柿が晩秋の雰囲気。

喜斎門跡の石垣越しに。

喜斎門跡を入ったところの広場、ここからは石垣の扇の勾配がきれい。

姫路市立美術館のエリアも観光客はほとんどなくゆっくりと撮影できる、ススキと紅葉がいい。

堀も晩秋の佇まい。

シロトピア記念公園・ふるさとの森、逆光で天守の撮影には今一だが、趣のあるきれいな公園だ。

県立歴史博物館の壁面、ガラスでできたキューブ、周辺の風景が映るという仕組みのマジックミラー。

残念なのはライトアップの映り込みを撮り忘れたこと、ま、その内訪問するか。

木々が真っ赤に紅葉してきれいでした。

扇観亭前の庭園、龍水都紅葉がきれいでした、扇観亭は黒川紀章 設計。

寒桜が寒さにふるえている。

この辺りもまだまだ紅葉がきれいだが、天守は逆光。

紅葉が終わり清掃に追われています。

内堀の紅葉とワの櫓。

ワの櫓付近の石垣。

ネコちゃんが堀端を散歩。

こちらはクロネコ、眼光鋭く。

内堀の石垣の様子。

三の丸広場から、芝生は養生中で近寄れません。

三の丸広場からの天守。

ただ今、重要文化財「リの一渡櫓」と「リの二渡櫓」は修理工事中。

約30年とされる漆喰の耐久性を保つために外壁を塗り直しているほか、屋根瓦のふき直しを進めており、最終段階を迎えている。
工事は来年3月までの予定。

入り口前の石垣。

入り口前から天守を。

三国濠(有料エリア:入城料を払った後に行けるエリア) 、入城ゲートを通って、最初の門(菱の門)をくぐるとすぐ右に見える。

濠が鏡になって、逆さのお城が撮れるスポット。

西の丸からの景色は、よく時代劇のロケなどで使われている。

石垣と天守がダイナミックに撮れるスポット。

化粧櫓付近から。

天守屋上から、夕日に海が輝く。

天守台から、ここまで来ると広角でないと無理。

ライトアップの始まり、ブルーの空に白亜の天守が浮かぶ。

ブルーと白のコントラスト。

城見台公園からの夜景。

喜斎門跡からの夜景、堀への映り込みがきれい。

喜斎門跡奥の広場から。

ここまで来ながら、県立歴史博物館のキューブへの映り込みを撮り忘れたのは不覚。
朝10時から夜7時まで歩数31000歩の探訪、疲れました。

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早春の松本城

安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。

松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門で、高麗門。

平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元された。

この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。

松本城 一の門、本丸へ入る重要な入り口です。

この門を入るとかつては本丸御殿がありました。

本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。

門を入ると美しい姫が出迎えです。

市川量造と小林有也のレリーフ

向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。

これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。

「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。

天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に駒をつないだという話を伝える桜。

城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、昭和30年代後半から昭和40年代前半に、現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。

現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守。

左から大天守、辰巳附櫓、月見櫓。
これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。

天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。

天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
傾斜も緩い。

※未加工の自然石だがほぼ大きさの揃った石材を横方向に並べ、横目が通った積み方を「野面布積」といいます。

横目が通っているが所々乱れているものを「布積くずし」といいます。
松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積くずしです。

天守からの展望、正面奥は美ヶ原王ヶ頭。

以前美ヶ原を訪れた際の王ヶ頭の記事。

標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻
山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。 朝食前の朝の清々し … 続きを読む →


こちらからは槍ヶ岳が望めるはずですがガスって見えない。

5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

右から乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓。

前回訪れた際の記事。
信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城
クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日 … 続きを読む →

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松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした

犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。

また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

犬山遊園駅から本日の宿泊先、名鉄犬山ホテルへ向かう。

駅に着いたころから雨脚が強くなり、犬山城も雨に霞む。

別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。

歩道は散り紅葉をちりばめて風情を感じさせる。

チェックイン後早速犬山城へ。

天守閣の「高欄の間(こうらんのま)」と呼ばれる四階は、正面3間(5.4m)奥行き4間(7.2m)で周囲に幅約半間(90cm)の回廊と高欄をめぐらす。

高欄の間から、鉄門、隅櫓等の景観、庭には「四季桜」が咲き、紅葉とともに楽しめる。

木曽川と犬山橋の景観、日本モンキーパーク、有楽苑、犬山成田山等が見られるが雨で視界は良くない。

突上窓から雨に霞む紅葉の向こうに木曽川と犬山橋の景観。

犬山城の天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。
窓は突上窓と火灯窓、両開き窓などから野面積の天守台石垣が望まれる。

地下一階の穴倉。

犬山城の下にある針綱神社のそり橋、柵があり登れない。
柵がなくともこの角度では登れないだろう。

犬山市のマンホールは国宝犬山城と木曽川の鵜飼い風景。

以前の訪問記桜咲く白帝城 犬山城
木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城も併せてお読みください。

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犬山の宿泊はじゃらん 名鉄犬山ホテルへ。

犬山城へのアクセス、行き方歩き方

犬山城公式サイト
犬山市犬山北古券65-2
電話:0568-61-1711(犬山城管理事務所)

名鉄犬山駅または犬山遊園駅より徒歩15分

彦根城の紅葉

紅葉を見たいと彦根を訪れたが少々早めでした、あと1週間は必要かな。

とりあえず腹ごしらえ。

江戸時代に彦根藩主井伊家から献上されたといわれる「伊吹蕎麦」の専門店、献上伊吹そば つる亀庵。

伊吹山麓で契約栽培している「伊吹そば」を伊吹山の湧水で打ち、こだわりの”だし”や”かえし”おいしい「蕎麦」をご提供しているというので早速挑戦。

風味もよくなかなかのものだ。

立て札には二季咲桜と書いてある。

『二季咲桜 昭和47年4月に水戸市(友好都市)より寄贈されたもので 冬(11月から1月)と 春(4月から5月)の年2回開花します。』

二の丸駐車場を入ったあたりが少し紅葉している。

まだまだ青い葉が多く、あと1週間くらい後がいいのかも。

玄宮園からの天守閣の画像を楽しみにしていたのだが、紅葉は今少し早く、空模様も段々と雲が多くなり期待外れに終わる。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。

天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

黒門山道沿いに見る高石垣は見事です。

井戸曲輪の上下の石垣は、高さが10mを越える高石垣となっています。
とくに下方の石垣は高さが19.4mあり、彦根城の石垣の中ではもっとも高く堅牢(けんろう)な構造となっています。

井戸曲輪跡の上にある虎口から彦根城の景観。

井戸曲輪(いどくるわ)、黒門から本丸へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。

孤状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓(しおやぐら)が築かれ、周囲は瓦塀(かわらべい)が巡っていました。

塩櫓の近くには方形と円形の桝(ます)が現存しており、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸であったと考えられます。

曲輪の名も、この井戸に因(ちな)んで名づけられたのでしょう。

「塩」 と 「水」 は、籠城戦(ろうじょうせん)ともなれば兵士の体を維持するために必要不可欠なものです。

井戸曲輪は小さい曲輪ですが、黒門から侵入する敵兵に対する守りであるとともに、彦根城を守備する兵士の生命維持に必要な物品の備蓄が配慮された曲輪でもありました。

登り詰めたところが西ノ丸、ここも天守のビューポイントとしてはよい。

国宝4天守(姫路城、松本城。犬山城)のひとつ。
外観三重、内部三階、地下一階構造で屋根にはいくつもの破風が設けられ、変化に富む姿は実に美しい。

東西面と南北面とはまったく違う印象である。

広い西ノ丸、イチョウの黄葉が見事でした。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。

三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。

折からの西日を受けて木陰が長く伸びる、晩秋を思わせる光景です。

天守台、人気者ひこにゃんが撮影用に用意されている。

天守閣から佐和山城をのぞむ。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年(白鳳元年))・姉川の戦い(1570年(元亀元年))・賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))・関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。

戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。

また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。

鐘の丸「登り石垣」、彦根城には全国的にも珍しい「登り石垣」が5ヶ所に築いている。

石垣に向かって左側が溝状に窪んでいるので「竪堀」で登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築いた。

大手門は大阪城に向かう西側に構えられている。     

一の門を高麗門、二の門を櫓門とする左折の枡形であった。
この枡形は奥行に対して入口が1対2となる横長の構造になっている。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。

最後は夕日に期待したが雲が多くこれもダメ、今日は期待を裏切られた一日だったかな。

ま、自然相手なので致し方なし。

以前の訪問記井伊家の名城 国宝彦根城も併せてお読みください。

花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺はたか女の波乱万丈の物語です、絶世の美女だったとも伝わる。

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彦根城へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県彦根市金亀町1-1

JR西日本 東海道本線(琵琶湖線) 彦根駅から徒歩約15分。
駅前大通りを真っ直ぐ西に向かい、護国神社にあたったら護国神社を囲むように回り込みいろは松の通りを通ってクランクを抜け内堀に突き当たったら左に折れれば正門の木橋がある。

天に向かって勾配を描く雄渾さ 丸亀城

丸亀城は、播州赤穂から17万6千石の領主として讃岐に入り、高松城を築いた生駒親正が1597年(慶長2)から高松城の支城として丸亀城の築城にかかり、1602年(慶長7)に完成したが、その後一国一城令により廃城となった。

石垣の窪んだ奥が廊下橋、城外から見えないように目隠しの土塀が築かれている。

生駒家4代の後、肥前天草郡富岡城主から1641年(寛永18)入城した山崎家治が翌年から修築に取り掛かり城を大改修。

その後、山崎氏絶家のため、1658年(万治1)京極高和が播磨(兵庫)龍野から入り、天守を完成、第2代高豊が大手を南側から北側に移すなど城の全容を整えた。

11の櫓は明治期にすべて失われたが、天守・大手門などは残された。

大手二の門、江戸時代の初めに建てられた、丸亀城の表門で高麗門とも言われます。

大手とはお城の正面のことを指し、追手とも書きます。
大手二の門は丸亀城の顔にふさわしく、石垣に使用されている石は大きく、ノミの跡も美しく仕上げられています。

大手一の門、寛文10年(1670年)に建築され、藩士が太鼓を打って時刻を知らせていたので太鼓門とも呼ばれている。
ひとかかえもありそうな大きな柱や梁で組まれ、堂々たる風格。

御殿表門の西側に接する番所長屋は、御殿へ出入りする者を見張った長屋です。

大変簡単な作りとなっていますが、門の外側からは中の様子が分からないようにするなど、細かい工夫がこらされています。

現在では、番所・交替部屋・詰所・御駕籠部屋が残っています。

昭和47年に建設された歴史・民俗資料館。

丸亀藩主京極家の資料を中心とした郷土に関する文書、書画などの歴史資料や民具、団扇制作道具、農耕用具などの民俗資料を収蔵するほか、歴史・民俗・考古・美術などの各分野の企画展等をおこなっています。

歴史・民俗資料館から見た天守、さすがに現存12天守。

内堀から天守へ向け、4層に重ねられた丸亀城の石垣は、高さにして約60メートル、日本一の高さを誇る。

また、扇の勾配で知られる美しい曲線は、丸亀城の美を代表する石の芸術品としての風格を漂わせています。

山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある。

見返り坂、傾斜が急で、時々立ち止まって振り返りたくなることから、いつしかそう呼ばれるようになった。

頭上に覆いかぶさる木々が、四季折々の美しさを覗かせ、心をなごませます。

本丸から見た山下御殿跡、L字型の建物が、御殿表門、番所、番所長屋。

天守から瀬戸大橋を望む。

月見櫓跡(巽櫓)、後方に讃岐富士(飯野山)が見える。

暗色の石垣と鮮やかなコントラストを奏でる白亜の天守は、全国でも珍しい木造天守として知られます。

丸亀城の天守は、やや小ぶりではありますが、独特の工夫がこらされており、それを感じさせないほどの風格と威厳を備えています。

三の丸北側の高石垣、丸亀城の石垣のなかで最も高い所で、20m以上の城壁が続く。
隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で、扇の勾配とよばれている。

きらりと光る光芒、冬の日の長い影が印象的。

三の丸から見た二の丸搦手、二の丸長崎櫓跡の石垣(左端)と本丸の石垣上に建つ天守。

高浜虚子の句碑

「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」
 
65歳の高浜虚子は、丸亀城を訪れ、三の丸の高台からの眺めをこのように詠みました。
俳人の目にとまった美しい風景が、城下に広がります。

大手二の門(右)と一の門(左)との間は、南北18m、東西20mの大手桝形(ますがた)。
1670年(寛文10)京極氏の時に完成。

石垣にかかわる悲しい伝説

羽坂登三郎は、常に仕事をするときは裸になって一生懸命働くことから「裸重三」と呼ばれ丸亀城の石垣を完成させた功労者です。

殿様は「さすがは重三の築いた石垣だけあって完璧だ。
これでは空飛ぶ鳥以外にこの城壁を乗り越えるものほあるまい。」とご満悦でした。

ところが、重三郎は「私に尺余りの鉄棒を下されば、容易に登ることができます。」と言って、鉄棒を使いすいすいと城壁を登ってしまいました。

殿様は、重三郎を生かしておけば来敵に通じた場合い恐ろしいことになると考え、城内の井戸の底を重三郎に探らせて、その際に石を投じて殺してしまいました。

その伝説の井戸が二の丸井戸です。

豆腐売りの人柱伝説

丸亀城築城の際、石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となった。
雨が降る夕暮れ、工事現場付近を通り掛かった豆腐売りが捕えられ、無理矢理に人柱として生き埋めにされてしまった。

豆腐売りは雨で豆腐が売れないため、普段は通らない城の付近を偶然通り掛かったのであった。

その後、石垣の工事は完成したが、それ以来、雨が降る夜にはその石垣の辺りで「とーふー、とーふー」という豆腐売りの声が聞こえて来たという。

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丸亀城へのアクセス、行き方歩き方

住所:丸亀市一番丁
電話:0877-24-8816 丸亀市文化観光課

JR丸亀駅より徒歩約15分、善通寺IC・坂出ICより車で約15分

桜咲く白帝城 犬山城

東海の山城、今日は二日目、まず訪問したのは山城でなく平山城の犬山城。
関連記事:木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城

昨日の泊りはホテルルートイン恵那
山間の町の静かな日の出です。

犬山城の駐車場に到着、満開の桜がお出迎えです。

樅の丸あたりの桜。

犬山城は豊臣秀吉が生まれた天文6年(1537)、織田信長の叔父である織田信康によって創建された、現存する日本最古の木造天守閣です。

尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置するため、戦国時代を通じて国盗りの要所となり、城主はめまぐるしく変わりました。

小牧・長久手の合戦(1584)では、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が12万人の大軍を率いてこの城に入城し、小牧山城に陣取る徳川家康と生涯唯一の直接対決をしました。

全体の桜の開花状況としては咲き始めといったところか。

天守2階の武者走りですが、不思議な個所がいくつかあります。
まず、床が真四角でありません、床板を見るとよくわかるのですが、かなり変形しています。
理由は諸説あり不明。

窓の算木はふつう縦だが横の部分がある、銃撃には不向きだ。
窓に障子が使われているが通常考えられない。

これらは江戸後期、かなり平和になった時代の工作と思われる。

天守からの眺望、木曽川の対岸は、岐阜県各務原です。

遠くに岐阜城がある金華山が見えます。
この城が、美濃へのにらみをきかすという重要な役割をしていたことがよく分かります。

犬山城天守から望むライン大橋と伊木山
信康の子・信清は信長に離反したため、1565年、信長は対岸の伊木山に「対の城」を築き犬山城を攻略した。

木曽川は全長229㎞の一級河川でこの辺り“日本ライン”の終点です。
上流にかかるのはツインブリッジ犬山橋です。 

からくり展示館。

城とまちミュージアム、この辺り桜がかなりきれいに咲いています。

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犬山城へのアクセス、行き方歩き方

犬山城公式サイト
犬山市犬山北古券65-2
電話:0568-61-1711(犬山城管理事務所)

名鉄犬山駅または犬山遊園駅より徒歩15分

宍道湖畔にそびえる古風な天守 松江城

松江城は日本に12ヶ所残る現存天守の一つで、その様式は望楼型の古風な様式、初期天守がそのまま発達した形態である。
宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。

別名・千鳥城。
天守が現存し、国の重要文化財に指定されている。
この他に日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれている。

関ヶ原の戦いの戦功により出雲・隠岐24万石を封じられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)に入城したが、軍事・経済の中心に適さないとして、1607年(慶長7)に松江の亀田山に築城を開始した。

堀尾氏は3代忠晴に世継ぎがなく途絶え、京極忠高(きょうごくただたか)が入城したが嫡子がなく断絶。
1638年(寛永15)信州松本から松平直政(まつだいらなおまさ)が入封し、以来松平氏が10代230年、明治維新まで続いた。

松江城を築いた初代松江藩主・堀尾吉晴公の銅像。
2013.6.16除幕式が行われたばかり。

大手前広場から 二ノ丸南端部分。

大手柵門跡から馬留跡。
右手側に大手門があり、枡形を形成している。
左手、二ノ丸石垣上に見えるのは太鼓櫓。

大手門跡。
地面には当時の門の基礎が象られている。

二ノ丸への石段を進む。

分銅の形をした記号は、松江城を築いた堀尾家の紋。
刻印は、工事の分担や石切場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号と考えられる。

登城途中で武者の出迎え、最近の城址探索ではこのスタイルをよく見かける。

一の門手前の石段、紅い紅葉がきれい。

一の門が場内への入り口受付になっている。

天守からは宍道湖が望まれる、夕日で有名な嫁ヶ島も見える。

天守台と宍道湖を望む。

天守は望楼型の古風な様式。

松江城の天守は五層六階の望楼型天守で、高さは約30メートルあり、その平面規模は現存12天守の中では、姫路城天守に次ぐ規模を誇る。

南面に大きな付櫓が付属。
下見板張りの外観から無骨な印象を受けます。

北の門跡から本丸を出る。

水の手門は中曲輪と腰曲輪に至る間に築かれた。
水の手門跡の石垣をはじめ本丸北側の石垣は苔むし、足を運ぶ人も少なくひっそりと往時を伝える。
画像は本丸北側の腰曲輪石垣。

下りてすぐ左側に中曲輪と北の丸を分ける谷間に位置する馬洗池がある。

松江城築城時、表鬼門の石垣がいくら積んでも崩れた。
城主堀尾吉晴は最も崩れの酷い個所を徹底的に掘らせたところ、頭がい骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が現れた。

吉晴はすぐさま神主を招き二夜三日にわたって大祈祷を行わせ石垣は無事築くことができた。

掘った穴からは澄んだ水が豊富に湧き出し、城内の人々の喉を潤した。

掘った所が城の中心だったので、「ギリギリ井戸」と名付けた。
「ギリギリ」とは、頭のつむじを指す方言である。

城山稲荷神社の石段と隋神門。
小泉八雲は通勤途上に散歩がてら、ここ城山稲荷神社に立ち寄りました。
当時二千以上を数える石狐があったのを、八雲は大変珍しがっていたようです。

なかでも隋神門前にある大きい石狐は特に気に入ったもののようです。

塩見縄手(旧武家町) – 北部堀周辺の、松江藩家老の塩見家の屋敷があった地区。
松江市伝統美観指定地区になっているほか、日本の道100選に選ばれている。

武家屋敷、明々庵、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、田部美術館など。

地名は、かつて通りの中ほどにあった松江藩中老で町奉行の塩見小兵衛の屋敷に由来するとされる。
堀端に連なる老松の大木は江戸時代当時のものである。

この武家屋敷も、約275年前の松江藩中級藩士が屋敷替えによって入れ替り住んだとこ。
刀だんすやお歯黒道具をはじめ当時の家具調度品、生活用具などを展示している。

玄関から座敷まわり、主人居間のあたりは立派な造りになっているのに対し、私生活部分は質素にするなど、公私のけじめをつけていた武家の暮らしぶりが偲ばれます。

奥方の居間の様子。
丸鏡を鏡台にかけ、油・おしろい・かんざし櫛などを入れた化粧箱をそなえている。

既婚の妻女はすべて歯を黒く染める風習があり、鬢盥(びんだらい)を中心に各種の小道具があった。

湯殿、台所等々質実剛健、私生活部分の質素な造りが伝わってくる。

盛り砂、日本刀は普段使わないでいると切れ味が悪くなるため、いざ!刀を使うときには、この盛り砂を数回切つけ切れ味を良くする為に使用する。

結構広い庭もある。

長屋門は武家屋敷の特徴のひとつで、中間(ちゅうげん)の住居としても使われていた。道路側には物見窓があり、外部に対する防備のひとつとなっていた。

小泉八雲記念館
名作「知られぬ日本の面影」など松江を世界に紹介した小泉八雲の自筆原稿や遺品、 妻セツの使った英単語覚え書きなど、収蔵品は1千点以上におよびます。
八雲が愛用していたキセルや文机は、文豪八雲の執筆の様子を思い起こさせます。

有名な来日時の後ろ姿、
松江では1年3ヶ月という短い滞在でしたが、滞在中、妻となる小泉セツとの出会いもありました。

遺髪塔
昭和46年、八雲の三男、故清氏のアトリエで八雲の遺髪がみつかった。
これは、セツ夫人の筆蹟でうわがきがあり、八雲の研究家であった太田三郎博士も八雲のものに間違いないとのことで、遺族によって故地松江にもたらされ、この塔のなかに安置した。

塔のかたちは、八雲が特に興味をもっていた古式五輪塔を模したもので、八雲は「知られぬ日本の面影」などに、これを愛情をもってくわしく記している。

小泉八雲が教鞭を取った島根県尋常中学校の礎石が撤去時に移築されここに展示されている。

『怪談』や『骨董』などの著作で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と元松江藩士の娘セツが、明治24年5月から11月までの約6ヶ月間新婚生活を過ごした邸宅。

ギリシャ生まれのイギリス人であった八雲ですが、何事も日本風を好み、この庭のことも大変気に入っていたそうです。

浴衣に下駄というスタイルで庭を散歩したり、居間として使用していた部屋から三方の庭をゆったりと眺めるのが好きだったといいます。

お堀端に建つ小泉八雲胸像。

松江堀川遊覧船、松江城を取り囲むお堀を約50分かけて周遊します。

画像上方の北惣門橋は明治中期に石造アーチ橋に架け替えられ使われてきましたが、松江城の入り口にふさわしい橋として、様々な史料をもとに木橋として架け替えられました。

なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。

松江城下に唯一現存の武家屋敷の長屋門と石畳を図案化しアルファベットで囲んでいる。

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松江城へのアクセス、行き方歩き方

住所:松江市殿町1-5
電話:0852-21-4030(松江城山公園管理事務所)

•JR山陰本線「松江駅」からレイクラインバス10分、松江城「大手前」下車
•一畑電鉄「松江しんじ湖温泉駅」から徒歩20分
•一畑電鉄「松江しんじ湖温泉駅」から市営バス(北循環線内回り)5分、「県庁前下車」徒歩5分