城下町ブラっと散策


金魚のふる里 大和郡山

大和郡山の金魚は柳沢吉保の子・吉里が甲斐の国から郡山藩主として国替りしてきた時に持ってきたと伝えられいます 。

下級武士の内職として飼育していた金魚の養殖技術が、徳川の末期から明治の初期にかけて付近の農家に伝えられ、水利の便の地の利を得て日本の主要産地となりました。

郡山金魚資料館

先代の代表嶋田正治が1982年に「1年中いつでも金魚が見ることができる観光施設が全国の何処にもない」と私費で「郡山金魚資料館」を開館。

金魚の原種から高級金魚、その他全国の少数の人たちからなる保存会。

愛好会の人々の努力により絶滅から守り続けられている貴重な品種など約40種類の金魚が展示されている。

松井 佳一(まついよしいち)(1891―1976)

近畿大学に水産学科を新設。

国際学会でも活躍して、第二次世界大戦後の水産業と教育の振興に貢献する。

研究業績は淡水魚や真珠など広範囲にわたるが、なかでも『日本産金魚の遺伝学的研究』(1934)は世界的に有名。

大納言塚

豊臣秀長の墓所。
天正19年(1591)、郡山城内で没した秀長はここに葬られました。

当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院<だいこういん>という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていました。

しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました。

その後墓地は荒廃しましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆<えいりゅう>や訓祥<くんしょう>が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立しました。

郡山城主柳澤家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替えの際、当地に移築したもので、市指定文化財の山門は旧郡山城城門を移築したものといわれている。

こちらは山門向かって左側の弁天門。

道路沿いに建つ門で、一際目立つ存在です。

郡山城

豊臣政権の中初期には秀吉の異父弟(同父弟説もある)羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。

江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。

平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。

奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。

中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。

17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた。

その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。

背後に天守台が望めるテラス席=大和郡山市城内町の郡山城跡

大和郡山市城内町の郡山城跡で郡山城史跡・柳沢文庫保存会が改修した番屋建築群(毘沙門郭内)にカフェがオープンした。

旧郡山藩主の屋敷の長屋門を移築した歴史のある建物で、有機栽培されたコーヒーや軽食が楽しめる。

今日はこちらでお昼にした。

番屋建築群は木造平屋建ての3棟が連なる。

最後の郡山藩主だった柳沢保申の屋敷の長屋門の一部を明治後期に移築したもので、以後「番屋」と通称されたらしい。

1969(昭和44)年から一時期は吉田泰一郎・元市長の住居としても使われたが、近年は物置になっていた。

大和郡山城は、転用石がふんだんに使われた城として知られます。

「逆さ地蔵」のほか、伝・羅城門の礎石を始め、宝篋印塔や五輪塔、石仏などが石垣にこれでもかと散りばめられています。

転用石は石垣の表面だけで約1000基に及び、お地蔵様も約200基が確認されています。

発掘調査によって、天守の礎石や付櫓の地階などが発見され、幻といわれていた天守の実在も証明されました。

天守台東側の付櫓の構造も判明しています。

ただし、まだ不解明点も多くあるのが郡山城の実情。

秀吉自身の城は残っておらず、家臣の城も類似例が僅少。

郡山城は江戸時代を通じて廃城にならず譜代大名が歴史をつないだ城ですから、全国の秀吉政権の城の解明に一石を投じる重要な手がかりが眠っているかもしれません。

大和郡山といえば、江戸時代から武士の副業として始められた「金魚」の養殖で知られる。

蓋には、青海波模様を背景に、金魚鉢に入った金魚が描かれている。

今日はOB会のハイキング、いつもは終了後喫茶店で反省会やら次回の予定の打ち合わせなどを行うのですが、郡山駅近辺には喫茶店がありません、やむなく西大寺まで帰り、駅中の喫茶店で反省会。

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長浜城


1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。

秀吉の天守台南側には新たに犬山城と丸岡城の天守をモデルとした三層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっている。

雪に埋もれた長浜城
寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。 尚雪は降 … 続きを読む →


小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。

その後宝厳寺に対しては秀吉の遺命として大阪城の唐門などが移築されている。

天守よりの眺望、正面の小さな島が沖島、その左が安土。

右端の奥に小さく見えるのが竹生島。

以前の訪問竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →


城の一部が文政近江地震で水没琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)。

長浜城の井戸とされてる「太閤井」と呼ばれる井戸が湖岸にあり石碑が立てれているが、琵琶湖の水位が高いと湖面に石碑だけが顔をのぞかせている。

天正3・4年頃完成し入城。

湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。

城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。

そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。
秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。

厳冬の琵琶湖岸
ラッセルをこなしやっと湖岸にたどり着く。 まだ降雪は続いている。 この時期湖岸を … 続きを読む →

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雪に埋もれた長浜城


寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。

尚雪はは降り続いておりこの画像は晴れ間のちょっとした隙間に撮ったもの。
雪つりもこれくらいの積雪になると威力を発揮する。

長浜城の天守閣は、琵琶湖の方から撮影するには朝から晩までいい光に恵まれる。
逆に言うと、天守閣の入口側からだと早朝に限る。

湖岸はすぐそこに見えいるのだがふみ後はほとんどなく、ラッセルしながらの行軍。

やっとの思いで湖岸にたどり着く。
ここからの天守の眺めもなかなかのもの。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

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秀吉と長浜

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。

小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。

天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
 
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。

長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。

その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。
対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。

喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。
次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。

秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。
小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。
この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

戦国時代の頃の話。織田信長は美濃の斎藤攻めで、堅城の稲葉山城の攻略が難航していました。

そのとき、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、城の背後からの奇襲を織田信長に進言。実行隊長となります。
木下藤吉郎は稲葉山城の侵入に成功。稲葉山城に火を放ちます。

そして、信長本隊に送った合図が 槍の先に付けた瓢箪だったという話です。
そして木下藤吉郎の活躍もあり、稲葉山城は落城。(1567年)

功あった木下藤吉郎に、織田信長が 瓢箪を馬印にすることを許可しました。
これが木下藤吉郎改め、豊臣秀吉の馬印が瓢箪となり、高々と掲げられるようになりました。

そして、快進撃の止まらぬ秀吉は 戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やしていきました。
その結果、秀吉の馬印のことを、千成瓢箪と言います。

「市章」を中央に、長浜城主であった「豊臣秀吉」の 馬印である「千成瓢箪」をデザインしたマンホール蓋。

「市章」は、「千成瓢箪」を長浜祭の曳山の数「12」を 周囲に配置し、中央に長浜の「長」を図案化したものです。

秀吉が活躍した稲葉山城の攻略、この時の功で千成瓢箪を馬印に・・・・
戦国武将の野望を物語る 岐阜城
今年3月に訪問した時の記事戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城がこちらにあります … 続きを読む →


千成瓢箪のデザインの角型マンホール蓋。

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童謡の里龍野

春の盛り、日本のうた“赤とんぼ”の作詞者である詩人三木露風の生誕地龍野を訪れた。
前回訪問時の記事「播磨の小京都 龍野城」、龍野城の訪問記です。

姫新線の列車から降り立つと、ホームの柵越しに「赤とんぼ」の像が出迎えてくれます。

市域のほぼ中央を流れる揖保川は遠く鳥取県境に源を発し、延長70㎞と県下で三番目に長い川、朝日橋を渡って龍野城を目指す。

龍野城は鶏籠山(けいろうさん)の山城と山麓の平山城とのニ期に分かれます。

山城は約500年前赤松村秀(あかまつむらひで)によって築かれ、現在の平山城は寛文(かんぶん)12年に信州飯田から脇坂安政公(わきざかやすまさこう)が移って築城したとされています。

本丸御殿(ほんまるごてん)、白亜(はくあ)の城壁、多聞櫓(たもんやぐら)、埋門(うづみもん)、隅櫓(すみやぐら)などを復元しています。

現在の本丸御殿は当時の古図に基づき1979年に再建されたもの。

満開を少し過ぎているが、庭園には桜が咲く。

八重桜は見ごろを迎え、一帯を華やかに彩る。

塀際ではキンシバイがきれいだ。
当初、花の名前がわからなかったが、画像を長居植物園に持って行き、相談員に聞くと季節がらたぶんキンシバイだろうということであった。

ネコがじゃれています、のどかな春の日です。

龍野藩の家老屋敷の門と伝えられる門で宝暦2年(1752)の城下町を描いた絵図では「新御屋敷」の記述がある。

屋敷自体も廃藩置県後も残され龍野県庁舎や中学校の校舎などに使用されましたが昭和32年に門だけを残し解体された。

赤とんぼ歌碑

大正10年三木露風33歳のとき、北海道トラピストより「樫の実」で発表。
ふるさとの想い出と幼き日の母の思い出を歌ったものと思われています。

歌碑五線譜は作曲者山田耕作の絶筆。

看板の文字も右から左に書かれていて、レトロな和風建築でおよそ銀行らしく見えないが、自動ドアになっていて、中にはチャンとATMなんかもある。

歴史の町、龍野に見事溶け込んでいる。

喫茶店ののれんも赤とんぼ、かわいいね。

ワンマンカーで運転されている姫新線、ラインカラーは赤とんぼをイメージした朱色だ。

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龍野城へのアクセス、行き方歩き方

兵庫県たつの市龍野町上霞城

姫新線「本竜野駅」から西へ徒歩20分

初秋の福知山城

初秋の福知山城を訪れたが冷たい秋雨に打たれながらの観光であった。
今年の夏に訪れた時も確か雨だった。

その時の記事があります。明智光秀が築いた名城 福知山城
詳細はそちらを参照ください。

紅葉とは言い難い状況です、枝先の雨雫が冷たそう。

門の外の様子、まるで晩秋かのような景色、木の葉が落ち、枯れ木状態。

階段には落ち葉が積り、折からの秋雨とあいまってさみしい雰囲気。

尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

昇龍橋を見渡せる場所にある桜の木もさみしい。
左は佐藤太清記念美術館。

見学を終えた傘の軍団が下りてきました。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍しました。

今、立っている場所はもと二の丸のあった部分だが、二の丸の台地そのものがそっくりなくなっている、どうやら役所の建設などに伴って台地そのものを削り取ってしまったようだ。

平面図などをもとに藤岡通夫・東京工大名誉教授の設計によって大小の天守と続櫓が復元されたが、古写真などの史料がないため、厳密な外観復元ではないという。

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福知山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府 福知山市 字内記(内記一丁目)5
電話:0773-23-9564 福知山城(郷土資料館)

山陰本線「福知山駅」下車徒歩約15分、又は京都交通か西日本JRバス「福知山城公園前」下車

熊野灘にそびえる海の城 新宮城

新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)とも呼ばれるあたりの小高い丘である丹鶴山(現在の和歌山県新宮市新宮字丹鶴)に築かれた平山城である。

別名、丹鶴城は、もとこの地に、源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴(たんかく)姫の住まいがあったとすることからである。

最初のトイレ休憩は紀ノ川サービスエリア、煙たなびくのどかな風景が広がる。
和歌山平野・和歌山湾を一望できます。

二度目のトイレ休憩は、道の駅「熊野古道中辺路」牛馬童子ふれあいパーキング。
熊野古道の面影が色濃く残るなかへちの道の駅は、国道311号沿いにあり、古道を歩く人とドライバーの両者の休憩の地としてにぎわっています。

ここから少し山中に入ったところに花山法皇の伝説を残す牛馬童子像、また、近露王子や野長瀬一族の墓などの観光ポイントもすぐ近くにあります。

鐘の丸の南下に無料駐車場に車を停め、公園の南側を通る道を西へ歩いて来ると、城址南西に模擬大手門(冠木門)が建てられている。
最初から急な階段が続く。

冠木門をくぐり、真っ直ぐ伸びる石段を喘ぎながら登って行く。

新宮へ来ても新宮城へ立ち寄らない人が多いのではないだろうか、石垣の遺構の素晴らしい城跡だ。

石段を少し登ると、松の丸へ入る虎口へ出る。

松の丸へ入るとすぐ右手に鐘の丸への虎口がある。

そちらは後回しにしてまず、水の手へ回る。

水の手郭・炭納屋群跡
丹鶴城跡では過去数度発掘調査が行われたが、その最大の発見は水の手郭の炭納屋群遺構である。

この水の手は軍港であり、物資を輸出する経済的物流港でもあった。
その傍らにあるのが炭納屋群跡の遺跡である。

当時備長炭という上質な炭がいつも炭納屋に1万俵ほど保管されていた。
江戸城はじめ、江戸庶民の燃料源であった。

江戸の炭消費量の約3割を賄っていたといわれている。

また、三輪崎や太地で鯨を捕らせ、鯨油などを集めこれも江戸へ売った。
鯨油は貴重で、行灯の油として欠かせなかった。

この二つの燃料提供者であった第9代忠(ただ)央(なか)は他藩が羨む大富豪だった。

本丸の様子。
石垣の上に建っている土蔵風の建物はトイレ。

本丸はケーブルカー時代にかなり改変されているようで、天守台に直接登る階段ができていたりする。

遠く神倉神社を望む、実はここが「新宮」の地名の由来の地なのだ。

神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。
新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。

山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

熊野三山の一つ熊野速玉大社は、全国に3000余社分祀されている熊野神社の総本山です。

大社は熊野三所権現降臨の神倉山から神を遷し、現在地に新たに宮殿が造られたことから「古宮」に対して「新宮」と呼ばれるようになりました。

これが市の名前の由来とされています。

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。

この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。

平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。

『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。

与謝野寛(鉄幹)の歌碑

「高く立ち秋の熊野の海を見て誰そ涙すや城の夕べに」

与謝野鉄幹が明治39年来新、大石誠之助、北原白秋らと熊野を漫遊したとき詠んだ歌。

本丸の北西部に突き出た一画があるが、櫓が建っていたのだろう。
その一角に、丹鶴姫の碑が立っている。

鎌倉幕府をひらいた源頼朝と、平家を倒したあと悲劇的な最期を遂げる源義経。
歴史に名をとどめるこの兄弟の叔母にあたるのが、新宮が産んだ女傑・丹鶴姫だ。

丹鶴姫の父・源為義は武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあった八幡太郎義家の孫。
この為義が後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 

「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、生地の新宮で一女一男を産んだ。

女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。

姉の丹鶴姫は、第18 代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。
それがのちに第21代別当となる湛増だ。

夫の湛快の死後、19代別当行範(鳥居法眼)のもとに再嫁したとされる丹鶴姫は、22代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。

義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときも事態を静観していた湛増は、戦局が進むにつれ、源平いずれにつくか迷った。

そこで、湛増は田辺の今熊野権現(闘鶏神社)の社前で白い鶏7羽、赤い鶏7羽を蹴合わせて神意を伺ったという。

白は源氏、赤は平家の象徴だったが、蹴合いは白い鶏が勝った。
熊野水軍の兵船200余艘に乗った屈強の熊野衆2000余人は、屋島から壇ノ浦へと出陣した。

源氏の白い旗が船のへさきにひるがえるのを見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。

本丸北東の枡形門跡。
搦め手に当たる。
丹鶴姫の碑の横に搦手虎口があるが、現在はここからは降りられなくなっている。

本丸虎口は、通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設けている。

本丸下の郭から水の手曲輪を望む。

天守台はなぜか中央部が破壊されてしまっている。
そのために妙に幅の狭い石垣のように見えてしまう。

端の部分だけが細くそびえ建ち、なんとも異様な光景である。

下から、長く続く本丸の石垣を望む。

1954年には新宮城本丸周辺は民有地となっていて当時旅館業を営んでいた業者が通称二の丸(本来の二ノ丸は現在の正明保育園の場所に位置する)と本丸を結ぶケーブルカーを運行していたが、1980年(昭和55年)に休止し、1990年代正式廃線となっている。

地下には紀勢本線のトンネルが通されている。

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新宮城へのアクセス、行き方歩き方

住所:新宮市新宮7691-1

JR紀勢線「新宮駅」下車、徒歩10分。

岸和田城再訪

一段と秋らしくなったこの日、岸和田城を再訪した。
詳細は前回の訪問記猪伏山 千亀利城と呼ばれた岸和田城を参照いただきたい。
関連記事:城下町岸和田を散策
廻遊式日本庭園 五風荘(ごふうそう)散策

スタート地のJR難波駅に向かいます。

家で飼われていたものが迷い出たのか小鳥が一羽、少し弱っているようだが・・・・

東側から見た天守、柳とのコラボーレーションがきれい。

天守からは遠く、岩湧山、三国山、葛城山を望む。

岸和田城周辺のジオラマ、5重の天守の建つ本丸の西に二の丸、そして、本丸と二の丸を取り囲むように二の曲輪、三の曲輪が取り囲んでいたようです。

もとは今の二の丸が本丸だったようで、古い絵図には旧裁判所のところに、馬具の鐙(あぶみ)のような形のあぶみ堀が描かれている。

このジオラマもよく見るとそのように作られている。

天守には楠木正成の肖像画が掲げられるが、岸和田城は南北朝時代に楠木正成一族の和田高家が築いたと言われており、戦国時代にはここを拠点に秀吉が紀州根来寺・雑賀衆を征伐し、その後に秀吉叔父の小出秀政により5層天守の建築や城郭整備が行われた。

天守は落雷により江戸時代に焼失したが、昭和29年に3層鉄筋の復興天守が再建された。

現在の天守閣は三層ですが、本来は五層の天守閣でした。

岸和田城庭園(八陣の庭)は、昭和28年に日本の昭和期における代表的な庭園研究家であり作庭家でもあった重森三玲(しげもりみれい)氏によって、設計、作庭されました。

本庭園は、上・中・下3段の基壇の中央に、大将の石組みを配置し、これを中心に8つの石組みが円形に配置されています。

中国三国志の英雄として名高い諸葛孔明(しょかつこうめい)の「八陣法」をイメージしたもので、これらの石組みは地上からは、360度どの角度からも鑑賞することができるようになっています。

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岸和田城へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪府岸和田市岸城町9-1
電話:072-431-3251
南海電気鉄道蛸地蔵駅から徒歩7分

秀吉が初めて築いた長浜城

長浜城も昨年の6月以来の再訪だ。
関連記事:琵琶湖にたたずむ湖城 長浜城
私費で建設した明治天皇行在所 慶雲館

長浜は、羽柴(豊臣)秀吉が江北12万石の領主として、天正2年(1574)から翌年にかけて、はじめて自らの城を築き城下町を形成した地である。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている。

湖畔にあった馬屋跡。

長浜城再現図
長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。

その後、山内一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。

このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(縄張)は現状から推定することはできません。

古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・東西約0.7キロの大きさであったと考えられます。

内堀跡
市民プール前の交差点前駐車場の入口付近、現在の豊公園全体が内堀の内側といった感じか。

模擬天守の北側に長浜城の天守閣跡が残されています。
天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間とあります。

天守の西の湖岸に長浜城築城時に秀吉が掘らせたといわれている太閤井戸跡碑が建つ。

船木朴堂句碑
「えりの門に月のさざなみあるばかり」

天守からの眺望、彦根城、佐和山城址が望まれる。

湖畔の渚がきれいだ。

ちょうど黒田官兵衛博覧会が行われており大勢の観光客が押し寄せている。
市内には、黒田家発祥の地・木之本町黒田、官兵衛の息子・黒田長政が人質として過ごした長浜城、そして官兵衛が参陣した天下分け目の賤ヶ岳古戦場を有する。

黒田官兵衛像。

関ヶ原古戦場、虎御前山、小谷城址を望む。

竹生島を望む。

比良山、沖ノ島、安土城址を望む。

駐車場脇の民家の庭で見かけたネコ。

豊公園入り口でかわいい小鳥たち。

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長浜城へのアクセス、行き方歩き方

住所:滋賀県長浜市公園町10-10(豊公園)

JR琵琶湖線「長浜駅」下車 徒歩 5 分

初秋に佐和山城を訪れる

初秋のこの日、昨年6月に引き続き佐和山城を再訪した。
前回の記事:三成の夢の跡 佐和山城址

佐和山城跡は、西側山麓にある龍潭寺(彦根市古沢町1104)が所有しているが、好意により無料での入山が許可されており、境内に登山口がある。

山道の突き当たりにある、立派な山門。
龍潭寺の山門だ。

四脚門。
「龍潭寺」という名が示すとおり、屋根の上には龍が横たわる姿が施されている。

脇戸の横の城壁を見る。五本線が入っている。
「定規筋」と言う水平線が描かれているこの壁は「筋塀」と呼ばれ、皇室に由来する格式を持つ場所を示すもの。

その奥の壁は土と瓦を交互に積み上げる「練塀(ねりべい)」で瓦を埋め込むことで強くなる、戦いのための壁。
火矢で燃えたり、鉄砲で撃ちぬかれたりすることを防ぐためとも言われる。

各地の城で見かけるが石清水八幡宮の通称「信長塀」は有名だ。
関連記事:都の裏鬼門を守護する王城守護の神 石清水八幡宮

仏殿
方丈から床下の高い渡廊が仏壇に通じている。
庭園との重なりが静寂な領域をつくっている。

松尾芭蕉門下の森川許六(きょりく )の描いたとされるふすま絵が見える。

庭園に据えられた庭石、輪蔵の回転軸受け石か。

佐和山城の陣鐘も晩鐘となり龍潭寺の玄関に吊されていました。

塩硝櫓跡。
武器・弾薬庫でもあったのでしょうか?

発掘調査中、もともと巨大な穴が開いていたようだ。

ここは 塩硝櫓(火薬を保管する場所)ではなく 塩櫓(塩を保管する場所)だったのではという研究結果もあるそうだ。

発掘の成果を期待したい。

塩硝櫓跡を過ぎると地図にあった3つの曲輪のうち真ん中の曲輪は竹林となっていて、整備のため伐られた竹が積上げられていた。

三角点、佐和山の山頂標高232.9mの位置に本丸があったとされる。

本丸跡を大手方面に下ると、岩盤上にわずかに残る石垣を確認することができます。
この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられます。

本丸跡の外周では、このような石垣を7箇所で確認することができ、本丸跡の石垣の想定ラインを復元する上で貴重です。

日本城郭史に詳しい同志社大非常勤講師の中井均さんによると、山城では山を切り開く過程で出た岩石を石垣に使う。

佐和山はチャートと呼ばれる堆積岩の一種でできており、佐和山城跡に2個だけ現存する石垣の石もチャートであることから、佐和山城の石垣はチャートだったとみていいという。

ところが、彦根城の石垣の修理の必要性を把握するため、中井さんが理事長を務めるNPO法人「城郭遺産による街づくり協議会」が市教委の委託で調査したところ、彦根城の石垣でチャートと特定できた石は10個に満たなかった。

残りは琵琶湖東部産の「湖東流紋岩」だった。

善政をして領民からも慕われた三成の象徴を完全に消し去ろうとしていたようです。
一説には山を高さ十四mにわたって削り取ったとも伝えられ、佐和山の山の形が台形状をしているのは、このためだとも云われている。

と、いうか彦根城はこの近さ、残しておいたのでは防御の上から問題がありました。

本丸跡からの眺望は素晴らしい、ちょうど米原駅を出発した新幹線の車両が見えています。

真ん中の白い塔はエレベーターのフジテックの実験塔。

千貫井。
佐和山の南斜面にある、城中の飲料水として用いられた井戸。
お金の千貫目にかえがたい貴重な井戸というので命名された。

千貫井」の傍らに「紫鱗龍王」、ネットで調べたがわからなかった。
御存じの方教えていただけたらと思います。

2007年の築城400年祭のとき「佐和山一夜城プロジェクト」で築造した石造りのミニチュア佐和山城。

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。

そのあたりを松本清張の著書から引用する。

西軍は、先に岐阜、犬山、竹鼻の線が東軍によって破られたため、すぐに大垣から使いを大阪に出して毛利輝元に出馬を乞うた。

と同時に急使を越前に馳せ、大谷吉継に京極、脇坂らの隊を伴って関ケ原付近に来会するように告げた。
そして、三成自身は大垣城を脱出して、密かに佐和山に帰り、防禦に専念したのである。

これは、東軍が赤坂に集結して急には大垣城に迫らず、垂井、関ケ原付近に放火したのを見て、三成は東軍がすぐにも自分の居城佐和山を襲う計画だと早合点したからである。

こんなところにも、総指揮官としての三成の狭量さが出ている。

天下の兵力を二分した、東西の大会戦が迫っているというのに、何ぞわが城の大事なる。
自分のケチな城などは無視して、全体の作戦に専念すべきだが、どうも三成のやり方はコソコソし過ぎている。

しかも、大阪の毛利輝元のところに出した使者は、途中で東軍のために捕えられ、輝元のもとには達しなかったのである。
それを三成は、最後まで知らなかったのだから、いよいよ万事、立ち遅れている。

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佐和山城址へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県彦根市古沢町
お問い合せ 彦根市役所 TEL:0749-22-1411 FAX:0749-22-1398
JR東海道本線線彦根駅~徒歩約10分(登城口)