武田氏壊滅のきっかけとなった戦いと長篠城

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長篠城付近図、実際の戦場となった設楽原は図の左欄外。

長篠城はちょうど二つの川の合流点に位置しているのだが、その川の側は断崖絶壁であり堅固そのものである。
重火器が中心の現代戦ならともかく、飛び道具と言えば火縄銃や弓矢が中心だった戦国時代においては、こちら方面からの攻撃は不可能であったろう。

この堅固さを実感するには、本丸跡から見下ろしたのでなかなか困難である。
左端に本丸を貫くJR飯田線が見える。

長篠城縄張り図、JR飯田線が本丸を貫通する様子がよくわかる。
JRの傲慢さを表す図だ。

JR飯田線により長篠城の遺構の存在価値がいかにに低下したことか。

JR飯田線により本丸が切り取られた現場、無残だ。

本丸跡には、稲荷神社があったが、近くの大通寺に移したそうで、なくなっている。
すぐむこうがJR飯田線により本丸が切り取られた現場。

帯郭跡。

内堀跡。

林高英頌徳碑、江戸の中頃、ここ長篠に生まれた代官 林高英は日置流雪荷派師範としての名が高く門弟およそ七百人といわれ、その教えは今も残されています。

長篠城本丸入口。

本丸から南を望む。

弾正郭跡。

本丸にある土塁跡。

アラモ砦跡に、日本人が建てた石碑が建つことはあまり知られていません。
それは明治の地理学者志賀重昻が建てたもので、志賀はアラモの戦いにおいて、救援を求める伝令に赴いたボナム大尉が、危険を顧みずに砦に戻り、他の者と運命をともにしたことを知って、これは日本の長篠の合戦でも共通する話があることを思い出したのです。

それは籠城する奥平家の家臣鳥居強右衛門が、徳川方に救援を求めるために脱出、包囲する武田軍をかわして家康のもとに駆けつけ、援軍を確認するや再び城に戻ろうとして武田軍につかまり、武田方に「援軍はこない」と言えと強要されたものの、城に「援軍来たる」と大声で叫び、磔にされた話です。

アラモ砦といえば、ジョン・ウェイン主演の映画「アラモ」で知られるアメリカ・テキサスの古戦場です。
1836年、独立を宣言したテキサスに対し、メキシコ軍が攻め寄せます。
テキサスの男たち185人は教会跡のアラモ砦に立て籠もりました。

対するメキシコ軍は7000の大軍です。
しかし、男たちは屈することなく、13日間にわたって激戦を続けました。

本丸跡。

渡合…左手宇連川と右手寒挟川の合流点。
長篠城址の南端。
向かいの橋は、牛淵橋。 (案内板より)

伸び放題に放置された木々で本丸側からこの城の堅固さを実感するのを困難にしている。
本来の城は周囲からは完全に見える状態であったはず、もう少し管理してもらわないとせっかくの遺構が泣く。

JRに城郭の一部を削られた例は甲府城にも見られるが、少し見習ったらいかがなものか。
参考記事: 中山道の治め 甲府城

宇連川の向こう岸の山には、武田兵庫頭信実(のぶざね…信玄の弟) 以下各武将が陣をしいた。
5月20日、本隊は設楽原へ 進出したが、この部隊は長篠城の押さえとしてここに残った。

5月21日(太陽暦7月9日)夜明け、徳川軍の酒井忠次(吉田城主・豊橋市)は、 東三河の将士を引きいて、この武田軍の5つの砦を急襲した。
この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が 巣砦方面の火の手と銃声に驚き、本隊に戦闘開始を指令した。

5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが、 多数が討死して、残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流 しようとした。
その前夜、酒井忠次達将士は、大雨の中を豊川渡河(舟着山)の 裏を回り、5つの砦の背後の山中に潜み、夜明けを待っていたのである。 (案内板より)

不忍の滝、長篠城址史跡保存館 の裏手にある矢沢川に、落差 8mの滝がある。
長篠城 本丸の裏手でもあり、天然の堀の役目も果たしている。

5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。
城中の食料は あと4、5日分だけ。

その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ 救援を依頼する使者として長篠城を抜けでた。
梅雨の時、増水の寒狭川へおりて、豊川を下ること4km。

15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙を上げ、岡崎へ走った。 (長篠~岡崎は50km)
岡崎には援軍の織田信長も到着していた。

家康、そして信長の前で城の危急を訴え、周りの人々も感動した。
使命を果たして、休養を勧められたが、彼はすぐ引き返した。

16日の朝、再び、かんぼう山で「援軍来たる」の狼煙3発。
そして長篠城の対岸まで来たが、厳重に警戒する武田軍に 捕らえられた。

武田軍から「援軍は来ない城を開け、武田軍は厚くもてなす」 と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。 (この時、城は本丸と二の丸だけ残る)

しかし、「援軍はくる。 この眼で見てきた、あと2、3日、堅固に守れ」と叫んだので、 対岸の篠場野の地で磔にされた。

強右衛門その時36歳。18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に 到着して陣をしいた。(案内板より)

強右衛門磔の図。

天正3年(1575)の長篠の戦い。
長篠城主であった奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守しました。

寡兵で城を守りぬいた奥平貞昌らの奮闘が長篠の戦を勝利に導いたとされる。
この功績により、翌年貞昌は、信長から一字をもらい信昌と改名し、郷ケ原に新城城を築きました。

同年12月、信長のとりなしで家康の長女亀姫をめとり、4男1女をもうけました。
信昌の新城築城は、現在の中心市街区を形成する基礎となり、「新城」の地名の由来にもなっています。

強右衛門城脱出の想像図。

長篠城ジオラマ。

大通寺は、長篠城址の北端、国道151号沿いの丘の上にあります。
このあたりは武田信豊、馬場信房、小山田昌行らの陣地があった所です。

武田の宿将馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋正次らは、武田軍が設楽原へ進撃する前夜、寺の裏山から湧き出る清水で別れの水盃を交わしたといわれています。

長篠城址史跡保存館。

のこ保存館は銃の収集では日本一ではないだろうか。

風林火山の旗、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は、『孫子』・軍争篇第七で、軍隊の進退について書いた部分にある文章を、部分的に引用したものである。

すなわち、「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)からの引用である。

これは「(~そこで、戦争というものは敵をだますことであり、有利になるように動き、分散・集合して変化していくものである。)だから、(軍隊が)移動するときは風のように速く、陣容は林のように静かに敵方の近くでも見破られにくく、攻撃するのは火のように勢いに乗じて、どのような動きに出るか判らない雰囲気は陰のように、敵方の奇策、陽動戦術に惑わされず陣形を崩さないのは山のように、攻撃の発端は敵の無策、想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら実行されるべきであると言う意味である。

難知如陰は其徐如林と、動如雷霆は侵掠如火と、意味的に重複する部分が多いので旗印からは割愛されている。

長篠・設楽原の戦いの戦死者を供養する「火おんどり」では、3メートルもの大松明を振りかざし、来場者を魅了します。

長篠古戦場武田勝頼公本陣跡医王寺入口に茶寮 本陣がある。
武田勝頼本陣は、天正3年(1575)の長篠の戦いの時に医王寺の裏山に勝頼が長篠城攻めの際に陣城として築いたものとされる。

今日の昼食は此方ででいただくこととする。

茶寮 本陣脇の天神山陣地は長篠・設楽原の戦いの時に、武田軍の一条信龍、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次 ら2,000の軍が陣地を置いた所です。

陣地跡に建つ荏柄天神社は、元禄11年(1698)、旗本一色氏が旧領(下総国(千葉県))からこの地に移したもので、参道の石段123段の内、88段は下総国から運んだものといわれています。
神社本殿は新城市指定文化財となっています。

独り言
長篠城って歴史的には武田氏壊滅のきっかけとなった戦いで有名だけど100名城に選ばれるほどかなぁ?

JR飯田線は傲慢にも本丸を貫通して走っていたり、本丸の南側は木々が伸び放題に放置され、城の堅固さを実感するのを困難にしている。

まだまだこの城より立派な城跡はいくらでもある、100名城の名を返上すべきと考えるが・・・・・。

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長篠城へのアクセス、行き方歩き方

住所:愛知県新城市長篠字市場22-1
電話:0536-32-0162 長篠城址史跡保存館

JR東海飯田線長篠城駅から西へ徒歩7分

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