東海道46番目の宿場町 亀山宿 散策

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伊勢に初詣に来て最後は亀山宿散策です。

散策の起点、亀山市歴史博物館へ着いたときはすでに日は西に傾いて暮れかかっています。

亀山市歴史博物館には亀山藩主遺品や亀山城、亀山宿模型などが展示され、常設展示のほか、企画展やテーマ展示が開催され、様々な角度で亀山の歴史が取り上げられています。

玄関先には映画監督衣笠貞之助の顕彰碑があります。

衣笠貞之助は三重県亀山市本町に煙草屋の息子として生まれる。
家が裕福だったため、小さいときから芝居や映画をよく観に行っては友達に演じて見せるような芝居好きで、中学を卒業すると家出をし劇団に入り、女形をしていたところをスカウトされ、日活向島撮影所の専属俳優になる。

1918年『七色指環』でデビューし、その後5年間で130本に出演する。
映画界が女優を起用し始め、女形が不要になってきたこともあり、監督に転向し、1920年『妹の死』でデビューする。

その後、長谷川一夫のデビュー以来、起用し続け、彼をスターにし、1932年のトーキー映画『忠臣蔵』を大ヒットに導く。
1926年の『狂った一頁』は1982年にサウンド版を全世界で公開し、大成功を収めた。

宿場の散策を始めるころには西の空を夕日が染めていた。

亀山宿は市の東部に位置する、東海道46番目の宿場町。
宿場町であると同時に、城下町としても栄え、県下で唯一現存する城郭建造物である亀山城の多聞櫓が残っています。

また、城の一部が移築再建されたお寺・家老屋敷・直角に曲がった細い路地などがあり、現在も城下の名残を留めています。

マンホールの蓋のデザインは、亀山城跡の「多門櫓」とその下の空堀に咲く市の花「花菖蒲」。

さらに歩いて行くと、道は坂になり下って国道に出る頃にふと下を見ると、きれいな絵模様のマンホール蓋があった。

「旧東海道・亀山城」をモチーフにした絵タイルが埋め込まれていました。

連子格子・幕坂・板庇の家・なまこ壁の屋敷・土蔵が残り、宿場町の面影を残す。
塀には屋号が掲げられ、住民の地域振興の意欲がうかがわれる。

坂道の突き当たりを右に曲がるとすぐの左側に、遍照寺がある。
紅い夕闇の中に遍照寺がシルエットで浮かぶ。

延起山と号し、天台真盛宗の寺。
本山は滋賀県坂本の西教寺。

遍照寺の本堂は、亀山城の二の丸御殿(玄関)が移築されたものと伝えられています。
本堂の前に立って高くそびえ建つ本堂の屋根を見上げると、石川家の家紋「笹りんどう」が、鬼瓦などにくつきり見える。

本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています。

本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。

街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。

本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。

亀山宿は、石川主殿頭(とものかみ)6万石の城下町であった。

宿場としては本陣1、旅籠20と規模は小さかった。
鈴鹿峠を控え、隣の関宿や、坂下宿で泊まる人が多かった。

志賀直哉の「暗夜行路」のなかに亀山の情景が書かれています。
彼の生母が亀山出身で若くなくなった母の面影を求めて、亀山を訪れたといいます。


歌川広重「保永堂版東海道五十三次雪晴」は、「亀山に過ぎたるもの」とうたわれるほど豪華だった京口門を描いたもの。
亀山は宿場町であるとともに、 亀山城の城下町としての顔も持っていました。

そのため、見通 しのきかない曲がりくねった複雑な道や坂道が多く、城下町らしい特徴的な町並みとなっています。

宿場は栄えていましたが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通 る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれます。

緩い坂道を少し行くと、左手に亀山城址が見える。
亀山城は1590(天正18)年岡本良勝によって築城され、天主台南門高石垣は直高14.5m野面石(自然石)積したもので堅固・優美さを備えて400年の風雪に今も耐えている。

群れをなして舞う白蝶のように美しく見えたことから「粉蝶城」と呼ばれた。

現在は天主台、多門櫓、外掘、土塀の一部を残すのみとなっている。

多門櫓の上にかかる上弦の月。

散策を終えたころはすっかり闇に包まれていました。
トワイライトブルーがきれいです。

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