リニューアルオープンの藤田美術館

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2022年4月1日にリニューアルオープンした藤田美術館。

同館は、明治維新後に起きた文化財(仏教美術品など)の海外流出を莫大な私費を投じて防いだ大阪財界の重鎮で実業家の藤田傳三郎(1841年~1912年)とその息子達(平太郎、徳次郎)により築かれたコレクションを軸に1954年に開館。

国宝9件、重要文化財53件を含む約2000件のコレクションを所蔵しており、瑠璃色に輝く国宝「曜変天目茶碗」(国宝指定された3碗のうちのひとつ)を保有する館として、ご存じの方も多いのではないだろうか?

画像は展示室の入り口、蔵の重厚な扉です。

オープンスペースに簡易的なお茶室も設けられています。

実業家で男爵であった藤田伝三郎(旧字:傳三郎、1841年 – 1912年)、その長男の藤田平太郎(1869年 – 1940年)、伝三郎の二男の藤田徳次郎(1880年 – 1935年)のコレクションを展示している。

画像は[千 宗屋さんが観たかった作品]交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう)

中国・福建省の漳州窯付近で焼かれたと考えられる香合で、藤田傳三郎最後の蒐集品としても知られます。

戦後間もなく日本銀行に担保として押えられていたが、藤田鉱業常務の小川栄一によって散逸を免れる。

画像は国司茄子茶入れ
鎌倉時代(13世紀)以降、室町時代初め頃(14世紀)には日本にもたらされたと考えられます。

1951年(昭和26年)財団法人藤田美術館として法人化、美術館の開館は1954年(昭和29年)5月であった。
なお2013年(平成25年)10月、公益財団法人に移行した。

画像は斗々屋破茶碗

朝鮮半島で作られました。本来の用途とは異なりますが、日本では抹茶茶碗として使われました。

藤田伝三郎は、西南戦争で巨利を得、「藤田組」を設立した、明治時代の関西財界の重鎮であった。

画像は青磁鳳凰耳花入

中国・浙江省龍泉窯で製作されたと考えられる花入です。
鳳凰耳や口縁部が破れ金継されていましたが、この度、修理を行い、往時の美しい姿が蘇りました。

骨董収集の面でも関西第一と言われ、その豪快な買いっぷりは伝説化している。

画像は古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵

瀬戸で作られた、肩に丸みをもたせた茶入です。

胴全体に轆轤目(ろくろめ)が残り、濃い茶色の地に黒の斑紋があらわれています。

小堀遠州(1579~1647)が終生愛用したもののひとつです。

伝三郎の没後、昭和初期に藤田家蔵品の売り立てが3回行われ、この時売却された蔵品には、現在各地の美術館に納まっている名品が目白押しであった。

画像は砧青磁袴腰香炉 銘 香雪

ふっくらとした胴から三本足が伸び、袴をつけた姿に似ることから袴腰の名で知られます。
13世紀頃に中国・浙江省の龍泉窯でよく焼かれた器形で、日本では香炉として用いられてきました。

藤田美術館の所在地は、多くの蔵が並んでいた藤田家本邸(網島御殿)の跡地である。

大工棟梁・今井平七の指揮のもと建てられた藤田邸は明治末期の建設時、関西で最大級の和風邸宅であった。

画像は唐物肩衝茶入 銘 盧庵

邸宅内には30を越す茶室があった。

敷地内には、本邸、西邸、東邸とあったが、東邸(現在の太閤園・淀川邸)と本邸の表門(現:藤田邸跡公園南出入口の門)と多数の蔵、そして和歌山県高野山の光台院から移築して新たに銅板葺にした多宝塔を除き、1945年(昭和20年)6月7日の第3回大阪大空襲により全て焼失。

画像は利休茶杓 銘 藤の裏葉/東方朔

節が高く持ち上がる蟻腰で、樋が一本通る典型的な利休茶杓です。
全体に薄く漆が塗られ、光沢のある落ち着いた姿をしています。

筒に江月宗玩(1574~1643)が記した由来から、利休が秀吉へ献上し、のちに里村紹巴(1525~1602)が拝領したことがわかります。

千宗旦(1578~1658)による追筒が添えられています。

藤田家本邸は、1912年(明治45年)に当地にあった大長寺の敷地を明治十八年の淀川洪水後に買収して建てられた。

画像は茶杓 茶瓢

中国で作られた象牙の茶匙を原型とした茶杓です。

節でくびれて上下がふくらみ、匙と柄とが分かれた姿が瓢箪型に見えることから、茶瓢と呼ばれています。

作者の村田珠光(1423~1502)は室町時代の茶人で、「わび茶」の創始者として知られます。

美術館正門(現在の藤田邸跡公園のゲート)は当時の山門がそのまま残っているとされるが、実際は違う(大長寺は北に300mほどの場所に移転した)。

画像は[国宝] 曜変天目茶碗

中国・福建省の建窯で焼成されたと考えられる茶碗で、碗の内外に青や緑に光る曜変と呼ばれる斑紋がみられます。

曜変天目の典型例は世界に4碗しか現存せず、いずれも日本にあり国宝もしくは重要文化財に指定されています。

この茶碗は徳川家康から水戸徳川家に伝わりましたが、大正7年(一九一八)に行われた同家の売立で藤田平太郎が落札しました。

大長寺は近松門左衛門の『心中天網島』で小春・治兵衛が心中した場所である。

画像は[重文] 渓西広沢墨蹟 偈語

禅僧渓西広沢(生没年不詳)が、日本から禅を学ぶために留学していた白雲慧暁(1228~1294)の人となりを雲に例えた偈です。本文は七言詩で、一段下げてなお5行書き継がれています。末尾に咸淳己巳上元後二日書とあり、1269年正月17日に記されたことが分かります。白雲は帰国後、東福寺四世となりました。

この時大長寺は現在地の北に300mほどの都島区中野町2丁目に移転し、小春・治兵衛を供養する比翼塚も同時に移転したのである。

画像は[重文] 別山祖智墨蹟 法語

別山祖智は中国・南宋時代に活躍した僧侶です。
別山が太白山の天童寺に赴く際に従蔵主という人物にこの墨蹟を与えました。

最後の行にある「姑蘇万寿」とは径山万寿寺のことで、書かれた場所を示しています。

法語とは仏道の修行について教え示す言葉のことです。
なお、別山祖智の遺墨は数が少なく、極めて稀なものです。

したがって、本来の『心中天網島』の舞台は藤田美術館ならびに藤田邸跡公園である。

画像は[重文] 物初大観墨蹟 山隠語

中国・南宋時代の禅僧、物初大観が絹に書いた散文です。

全10行のうち、1行目に題名、2行目から8行目の途中までが本文、それ以降が署名です。

「山隠」とは山林に入って隠棲すること。

何年修行をしても秋雲秋月のような心境には至らないといった内容が記されています。

展示室を出ると、エントランスとは逆側(北側)のホワイエのような空間に出る。
展示室を見た後に、こういうふわっとした空間があるのは珍しい。

展示室内が暗いので、明るい光に包まれたこの空間に出ると、深呼吸したくなる清々しさ。

西側のガラス開口からは多宝塔(高野山から移築したもの)が見えて、庭に吸い込まれるよう。

新しく建築された伝統数寄屋建築の茶室「光雪庵」は美術館の西側に隣接しています。

かって存在した「会庵」の平面を基に再構築し、藤田家席名と部材を旧美術館の茶室から引き継いでいます。

すぐそばにある多宝塔は元高野山光台院にあり、1916年に藤田伝三郎が移築したものです。塔の築年代は室町時代まで遡れるとされています。

南からの眺めです。

周りには東大寺のつくばいや飛鳥時代の礎石などを配置し、回遊しながら歴史に親しむことができます。

美術館の庭と藤田邸公園も一体化され、ひとつの庭園として、大変良い雰囲気で多くの方が散策されていました。

藤田邸跡の庭園は、現在は藤田邸跡公園となっている。
園内に滝を配置するなど特徴のある庭園である。

この庭園は戦後放置され鬱蒼とした森となっていたのを、JR東西線建設工事時に建設基地として使われるために木が伐採され、東西線開業後に大阪市によって公園として整備されたものである。

藤田邸跡公園は、隣接する桜之宮公園とは異なり、夕方以降は閉門され、夜間は入園することができない。

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