最上家の隆盛を支えた名城 山形城

山形城は、最上氏の祖斯波兼頼が、延文2年(1357)に築城したと伝えられている。
兼頼の子孫は、その後最上氏を称して、代々居城した。最上氏11代当主義光の代に、関ヶ原合戦の戦功により、57万石の大々名となり、実質100万石の城下町として山形は繁栄した。
 
しかし、義光の孫・家信(義俊)の代に、家中不取締りの罪により、最上氏は改易され、その跡に鳥居忠政(24万石)が入部したが、忠政は山形城の本丸・二ノ丸を改築したので、現在の二ノ丸跡は、鳥居氏時代の遺構といってよい。

鳥居氏の以後、城主は11氏(幕僚2回)が頻繁に交替し、最後の城主水野氏は、僅か5万石で明治維新を迎えた。

二ノ丸東大手門は山形城の正門である。
枡形ますがたの南北両側に多門櫓たもんやぐらを持つ独特な形式の枡形門で、江戸城の諸門に匹敵する規模をもつ。

現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真等を参考にして、日本古来の建築様式で復原され平成3年3月に竣工した。

山形城が別名『霞城』と呼ばれるようになった理由は、関ヶ原の合戦の頃に直江兼続(上杉軍)が富神山の麓からお城を十日間見てた霞がかかって何も見えなかったことから『霞城』と呼ばれ、現在もそれが定着していて『霞城公園』と呼ばれている

東大手門の櫓は、中に入る事ができます(無料)。
中は展示スペースとなっており、山形城や復元の様子を見学できます。

最上義光公勇戰の像(現地説明板より)

慶長五年(西暦一六○○年)の秋九月 怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀將直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ 自ら陣頭に立って指揮奮戰し敵を撃退してよく山形を死守 した山形城主最上義光が決戰場富神山にむかって進撃せんとする英姿であり 鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。

右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で 清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光 と刻んであります。
銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。

最上義光公顕彰会

二の丸広場。

本丸一文字門石垣復原事業
二の丸から本丸への入口である、大手橋と一文字門です。
一文字門は石垣のみですが、これから櫓も復元される予定です。

駒姫(こまひめ、天正7年(1581年) - 文禄4年8月2日(1595年9月5日))は、最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室。
別名、伊万(いま)。

伊達政宗の従妹に当たる。
彼女の名は御駒山からとられている。

山形の戦国時代を知る事ができる、最上義光歴史館の見学はお勧めです。
実物の貴重な屏風や、最上義光が実際に使用した鉄の指揮棒、織田信長から贈られた兜、伊達政宗からの書状等、貴重な品を見学できます。

記念館のすぐ西、山形城初代城主・斯波兼頼の菩薩時、光明寺跡。

済生館(さいせいかん)は、山形県山形市の旧済生館病院本館。
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
国の重要文化財。

建物自体は現在山形市霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。

外堀沿いに走るJR線。
よ~く見ると並走する2本の線路の幅が違うんです。
山形新幹線の標準軌と、在来線の狭軌。
こうして違う幅の線路が並ぶスポットは珍しいんです。

秀吉の狂気 -”英雄”と評される者の実像は所詮こんなもの ...

姫は、その類いまれな美しさから父母に溺愛されて育ったという。
時の関白・豊臣秀次は、東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に迫った。

義光は断ったが度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせると約束する羽目に陥る。

なお、九戸政実討伐の帰途、山形城に立ち寄った秀次を、義光が駒姫に接待させたという挿話は後世の創作とみたほうが妥当である。

文禄4年(1595年)、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられてしまった。

そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。

まだ実質的な側室になる前だったと言われている。
父の義光が必死で助命嘆願に廻り、各方面からも処刑せぬようにと声があがった。

秀吉もついにこれを無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣した。
しかしあと一町の差で間に合わなかった。
享年15。その従容とした死に様は、さすが大名の娘であるといわしめた。

辞世の句は、
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき
(何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから)

この辞世は彼女愛用の着物で表装され、他の処刑者のものとともに京都国立博物館に保存されている。
複製品は京都・瑞泉寺、山形市・最上義光歴史館で見ることができる。

彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願ったが許されず、その場で掘られた穴に投げ込まれ、さらにその上に「畜生塚」と刻まれた碑が置かれた。

そのむごたらしさに都人は浅ましいとも何とも言いようがない思いを感じたと伝わる。

娘の死を聞いた母の大崎夫人も、悲しみのあまり処刑の14日後に亡くなった。自殺と推察されている。

駒姫の悲劇性とその後への影響

当時の武家社会でも男子はともかく女性は助けられるのが慣例であり、秀吉が秀次の妻妾子女ほぼ全員を処刑したのはそれを無視したものであった。

駒姫の死や、遺骸の処理は当時の社会通念からしても明らかに不当かつ残忍極まりないもので、最上家はもちろん諸大名、世間一般にもショッキングなものと受け取られたことは想像に難くない。

ちなみにごく一部ではあるが、秀次の妻子でも助命されたものもいる。
駒姫がまだ実質的な側室ではなかったにも関わらず、助命嘆願を無視して処刑されたことを考えると、当時義光が秀吉から冷遇されていたことがわかる。

この事件以降、義光は反豊臣急先鋒となり、慶長出羽合戦では奥羽における東軍の要として活躍した。
この惨劇は豊臣政権の寿命を縮める一要因ともなったわけである。

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山形城へのアクセス、行き方歩き方

住所:山形市霞城町1-1

電話:023-641-1212(山形市公園緑地課)

JR山形駅から徒歩10分程度