早朝 住吉大社


夜明けの住吉公園。
この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当時のまま残されている石橋。
心字池の景観上重要な石橋。

住の江は摂津の国の歌枕で今の大阪府の住吉大社の付近の海の入り江であった 住吉の津などとも呼ばれた

住の江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通い路 人目よくらむ   
古今和歌集 藤原敏行

我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ              
古今和歌集 詠み人知れず

住之江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見て           
藤原定家

まつかげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の濱             
藤原定家

松と海岸が広がる美しい景色のことを「住吉模様」と呼びます。
実は住吉公園のあたりはかつて海岸線があり、松が植わった風光明媚な土地だったのです

住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期に枯れ始めたことを惜しんだ俳人たちが「松苗勧進」を行って献木を斡旋し、併せて俳句の献詠を募り「松苗集」として住吉御文庫に奉納した、ことに因むそうです。

この神事は緑化運動の先駆けともされています。

松苗神事は境内に松の苗を植樹し、献詠俳句の秀作を披露する神事です。

平安時代から伝承される、白拍子舞と熊野舞が奉納されます。

住吉大社 松苗神事2013
境内に松の苗を植樹し、俳句を披露する神事。 平安時代から住吉大社に伝承されている … 続きを読む →


住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る「潮掛け道」は大社の表参道でした。

汐掛道の記

ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、社前から松原が続き、すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。

松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。 古くから白砂青松の歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 

財団法人 住吉名勝保存会

霰松原
古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるよう … 続きを読む →

古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるように風が吹いていたので「霰松原」と呼ばれていた。

松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。

日本庭園部分です。
公園の中の源流部分。石材が豊富に使われています。

源氏物語の碑

真住吉(ますみよ)し 住吉の国」は 万葉の昔から数多くの和歌や文学作品にその名をとどめている

源氏物語 澪標(みおつくし)に描かれた 明石上(あかしのうえ)の悲しい恋もこの地が舞台である。 
船で訪れた明石上はなつかしい 光(ひかる)源氏の華やかな住吉詣に出合ったが 再会することなくそのまま帰る。

中世の住吉は王朝貴族の住吉詣が多く平安のみやびにつつまれていたこの碑はかかる王朝をしのび 歴史を振り返り 郷土を愛するためのよすがである。

昭和五十七年四月吉日
財団法人住吉名勝保存会 建之

住吉公園駅は大正2年に開業。

南海電鉄の住吉大社駅に隣接している。
阪堺電軌によると、最盛期の昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

1日に約200本の電車が運行されていたが、利用客が年々減少していた。

↑2016年1月に廃駅となった住吉公園駅。
駅表示が戦前のままというレトロな駅だった。

前の灯篭は住吉灯篭

住友灯籠とは住吉大社の参道にある石灯籠の事です。

江戸時代から明治の初めにかけて、この地域は、四国の別子銅山から海路運ばれてきた、銅の精錬所があり、銅貿易の中心地でした、その中核が住友家でした、住友家が海路の安全と、家業の繁栄を願い、住吉大社の参道に石灯籠を寄進したのが住友灯籠です。

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている。

また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える。

また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。

後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。

一の鳥居と反橋

正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。

長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。

この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。

現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。

かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。

川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

架橋当時は住吉大社付近に海岸線があり、本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされている。

現在は池の上に橋が架かっている形になっているが、この池は当時の入り江の名残だとされている。

橋の基礎部分については創建当初のものをそのまま使用していると考えられている。

その一方で、木製の橋桁や欄干は老朽化に伴って何度もかけ直され、直近の掛け替えは2009年におこなわれた。

島津忠久には以下のような誕生伝説が伝えられている。

丹後局が頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて子供を身ごもるも、これを知った頼朝の正室北条政子に妬まれたため鎌倉を逃れた。

摂津国(現、大阪府)住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を産んだ。

現在、住吉大社の境内には忠久誕生石が存在し、島津家における稲荷信仰や雨を瑞兆とする慣わしはこの故事に由来するものである。

その後、元旦参拝のため住吉大社を訪れた摂政(せっしょう)近衛基通(このえもとみち)に救われ、丹後局はその家来の惟宗広言(ひろこと)のもとに嫁ぐことになった。

このため忠久も惟宗を名乗ることになった。

頼朝は誕生の知らせを受け「三郎」の名を与える。

元暦2(1185)年に頼朝と初めて対面し、頼朝の家臣畠山重忠(しげただ)の一字を得て「忠久」と名乗る事になったという。
 
この伝説を背景として、八景釜や血吸が島津家に代々伝えられてきた。
また、十字紋も頼朝から授かったものという説もある。


住吉大社角鳥居

本宮域の幸寿門前に立つ。
石造で、柱に大面取の角柱を用いるが、貫を通し、反りのある島木・笠木を重ねるなど明神鳥居の形式とする。

重心の低いどっしりとした造形で境内の他の鳥居と一線を画する。
同社を代表する鳥居として古くから参拝者に親しまれている。

昭和天皇御製。

いくさのあといたましかりし町々を
わが訪ふたびに立ちなほりゆく

台座には「在位六十年記念奉祀記念」と彫られています。


「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。

芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。

13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。

折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。

その翌日の句席で「升買て......」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。

すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。

その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。

この宝の市を詠んだ句は、住吉公園東入り口に、明治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てたもの。

高燈篭は古くから住吉の名所として広く知られ、日本最古の灯台といわれています。

江戸時代の浮世絵にも描かれている高灯篭は、鎌倉時代の創建で現在見られるのは復元されたもの。 夜は灯台として、昼は展望台として使われたそうです。

高燈籠復元の記

昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた。

寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時◆中略◆この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 往時の面影が偲ばれる。

旧高燈篭はここより二百メートル西にあって明治の末年迄度々大修理が行われた戦後台風のため木造の上部は解体され更に昭和四十七年道路拡張のため基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた。

この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成しその復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 その他地元会社有志の寄附を仰ぎ大阪府市の援助を得てこのゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである。

昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会

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