絶景を望む天空の寺院「大悲閣千光寺」へ


カツラ川の右岸をさかのぼります。

渡月橋あたりは人混みなのに、川をさかのぼる道を歩く人はまばら。

維持費を得なくてはならない事情があるのだろう、なんとか人を招くように、「京都一絶景」とか「TheBest in Kyoto 」とか、英文やら略地図までくわえて、元気のいい看板を作って立ててあった。

対岸は亀山公園。

戸無瀬瀧は蛇谷からさらに50メートルほど上流に歩いた山肌にある三段に落ちる滝のことを云う。

天龍寺の正西背後にあたり、造営された亀山殿からもこの滝が眺められている。

突然サルが!!

嵐山モンキーパークいわたやまでは、現在約120頭のニホンザルが野生の状態で暮らしています。

新緑が鮮やかです。

通例として、京都市右京区京北地区の流域にかけては「上桂川(かみかつらがわ)」、南丹市園部地区に入ると「桂川」、南丹市八木地区から亀岡市にかけては「大堰川(おおいがわ)」、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは「保津川(ほづがわ)」[1]などと名を変え、嵐山から合流地点は再び「桂川」と称される。

新緑が川面に反射してきれいです。

松尾芭蕉に、夏目漱石や谷崎潤一郎も訪れ、近年では司馬遼太郎が「街道をゆく」の中でも紹介している嵐山の隠れた名所。

嵯峨野の旅は、古くは、「絶壑ノ間ニ孤立ス」と表現された山峡の水尾から始まった。

司馬遼太郎は、はるか昔この地に辿り着いた清和天皇に触れ、天皇を祀るお社を護持し続ける里人の心遣いに注目する。

嵐山の渡月橋では、古代、山城国(京都)に定住し、土木技術によって田野を切り開いたといわれる渡来系氏族の秦氏について考える。

見まわせば、渡月橋下の中洲も松尾大社も、現代に残る秦氏の足跡なのだった。
天竜寺塔頭の妙智院で嵯峨名物の湯豆腐を食べながら、司馬さんの思いは遠く豆腐の起源にまで遡る。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻-朝日文庫-司馬-遼太郎

店の名は、むかしから二軒茶屋というのだそうで、いつのほどか一軒だけになった。

とあるが、今はその一軒もなくなって、かつてそういう茶屋があったと記した札が道端の木にかかっていた。

司馬遼太郎一行は川沿いの道を歩いたとき、オデンの屋台に寄り道している。

屋台は路傍にあり、客席はそれより降りて瀬ぎわの平床几(ひらしょうぎ)だった。そばに、水でまるくなった岩場がうねっていて、その上に五、六点の濡れた下着が置かれていた。

「身投げでもあったんですか」
と、須田画伯はゆるゆると老婦人にきいた。身投げがあれば、いくらこの老婦人ものんきにオデンを煮ていられまい。

「あれは私の干しものどす」
「そう」
 
画伯はオデンを食べはじめた。
ここのところは読むたびに、つい笑ってしまう。

千鳥ヶ淵は戸難瀬瀧より430メートル先の断崖に望んで深い淵となっているところを云う。

往生院に滝口入道を訪ねた横笛は、再会適わなかったのを嘆きこの淵に身を投げたと伝える。

山深い隠れ里のような風情 滝口寺
元々は法然の弟子・良鎮が創建した往生院の子院三宝寺跡を引き継いで今日に至る。 明 … 続きを読む →

『平家物語』の斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の侍女横笛の悲恋の寺として知られている。

二つの悲恋を語り継ぐ寺 滝口寺
滝口寺は、滝口入道と横笛そして新田義貞と勾当内侍の二つの悲恋を語り継ぐ寺である。 … 続きを読む →


星のや京都(もと嵐峡館)
京都市西京区嵐山元録山町11-2

右岸をさかのぼる道がつきあたるところに宿がある。

路傍より下の崖に、料理旅館があり、嵐峡館とあった。二十年ほど前、この旅館にきたことをおもいだした。

そのとき、右岸を歩かず、渡月橋からいきなり舟でここへきた。

今は嵐峡館の名はなく、全国で老舗旅館の再生を手がけている星野リゾートにより、2009年から「星のや京都」になっている。渡月橋のたもとから送迎の舟が往復しているのは今も同じ。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻-朝日文庫-司馬-遼太郎

門前、上り口の左手には「花の山 二町のぼれば 大悲閣」という松尾芭蕉の歌碑が置かれています。

途中には何度か「大悲閣 千光寺」の案内看板が出てきますので道が間違っていないことを確認できてちょっと安心。

そして「京都一の絶景・GREAT VIEW」などと書かれた案内板に心が躍ることでしょう。

ここからは約10分の登りです。

大須賀乙字の句碑「嵐気動く奥は蝉声晴れてあり」

千光寺(せんこうじ)は、京都府京都市西京区嵐山中尾下町にある黄檗宗系の単立寺院。

山号は嵐山、寺号は詳しくは大悲閣千光寺と称する。本尊は恵心僧都作といわれる千手観音菩薩。江戸時代の豪商角倉了以の木像があることで知られる。

境内にある、切り立った岩肌に建つ舞台造りの観音堂(客殿とも)は大悲閣と呼ばれるため、寺そのものの別称も「大悲閣」と呼ばれる。

参道途中の洗心亭をさらに上る。


松尾芭蕉の句碑「六月や峰に雲おくあらし山 はせを翁」

この寺の創建年代等については不詳であるが、当初は現在の嵯峨清涼寺の近くにあり、後嵯峨天皇の祈願所であったが長らく衰退していた。

江戸時代初期の慶長19年(1614年)、豪商角倉了以が、大堰川を開削する工事で亡くなった人々を弔うために、嵯峨の中院にあった千光寺を現在地に移転させた。もとは天台宗であったが、文化5年(1808年)に黄檗宗に改宗した。

山門に到着。

渡月橋から写真を撮りながらゆっくり歩いて30分ほどで着きました。

つづら折れの石段を登れば、やがて見えてくるのがまるで清水の舞台のような建物。

これが「大悲閣 千光寺」の客殿です。

ここからの眺めが絶景といわれるポイント!客殿と本堂が見えてきたらそこが境内の中心地の展望台エリアです。

三回まで無料でつけます。

客殿からの絶景。

一段と高い山が比叡山です。

目を少し右に転ずると千光寺の大悲閣が山の中腹に小さく展望できる。

大悲閣千光寺:江戸時代、角倉了以が大堰川の開削工事で亡くなった人たちを弔うためによって建立した。

春に大河内山荘より
大河内山荘は区嵯峨にある日本庭園。 時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘と … 続きを読む →


温かみのある客殿内には、住職さんがコピーした様々な資料が所狭しと並んでいて、まるで寺子屋の様相。

現在の大悲閣は、保津川の開削を計画した角倉了以や、その一族(外祖父)で塵劫記の著者の吉田光由に因み、そろばんや数学・理学向上の寺ともされている。

椅子の置かれた縁側からの京都市街の眺望が良い。無料で使える双眼鏡が備えられている。

秋にはこの山が紅く染まります。

住職と向こうは途中から同行してくれた老人、ことし91歳という、とても元気です。

ここで御朱印をもらいます。

明治維新で一旦衰退した後、大悲閣以外や境内を失った後、徐々に本堂などを再建したが、1959年の伊勢湾台風により大きな被害を受けた。

本堂も大悲閣も屋根の多くが飛び、仮補修でしのいできたが、1978年に本堂は解体された。

仮本堂 かつての本堂に祀られていた仏像や角倉了以の像がぎっしりと安置されている。

角倉了以の像がここにはあり、法衣姿で石割斧を持っている姿が特徴的。
今もこの大悲閣から川の安全を見守っているかのようです。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑
現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。
開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。

化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。 山号 … 続きを読む →

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。
風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

山を下ります。
同行してくれた老人は最後まで付き合ってくれました。

知る人ぞ知る、穴場のエリア
参拝客の7割が外国人!?

そろそろお昼です、舟が増えてきました。

右側の舟は物を売りに来た舟です。

トロッコ列車と保津川下り

この風流な保津川下りは夏目漱石の『虞美人草』を始め、水上勉、薄田泣菫、大町桂月、三島由紀夫など幾つもの文学作品に登場した。

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