霰松原


古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるように風が吹いていたので「霰松原」と呼ばれていた。

松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。

碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下和歌山に至っている。
 
この付近は街道の面影をよく残しており、新しく街道名の入った道しるべが建てられるなど、歴史の顕彰が行われている。

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霰打つあられ松原すみのえの弟日娘(おとひおとめ)と見れど飽かぬかも  長王子(万葉集)

あられ松原は、住吉の弟日娘と一緒にいくら見ても見飽きることがない

『万葉集』65のこの歌は、都が平城京に遷都される少し前、慶雲3年(706年)に、第42代・文武(もんむ)天皇が「藤原京」から「難波宮」へ行幸した際に、随行者が詠った宴遊の歌のひとつです。

作者は、第40代・天武天皇の子で第4子とみられる、「長皇子(ながのみこ)」。

ここ住吉津(住吉の港)には遊女がいた。

弟日娘」は港町の遊女であって、都から来た長王子と結ばれたようだ。

この地は、奈良・平安時代は海に沿った境まで続く松原で、白い砂と松の緑は四季を通じて素晴らしい景観をみせ、多くの人々が訪れ、大阪と河内南部のや紀州方面を結ぶ街道としても重要で「岸辺の道」、室町後期からは「紀州街道」とも呼ばれていました。

天水分豊浦命神社は、延喜式代の古社で、創建は詳らかではありませんが、「住吉大社すみよしたいしゃ神代記」にも記録されていることより千二百年以上経ており、明治四十年に沢之町の止止呂支比賣命神社〔若松宮〕に合祀されています。

安立町の由来は江戸時代初期の良医であった半井安立が、この地に住み多くの人々を助けた徳により、その名を残して町名となったと伝えます。

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