汐掛道

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住吉大社の旧表参道の汐掛道は、海岸に上陸した海神が通った道で、出見の浜〜住吉高灯籠〜住吉公園〜住友燈籠〜表参道鳥居〜反り橋〜住吉大社本宮と一直線に連なっています。

汐掛道の記

ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、社前から松原が続き、すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。

松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。

古くから白砂青松の歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 

財団法人 住吉名勝保存会

碑面には万葉歌「住吉の粉浜のしじみ開けても見ず隠こもりにのみや恋ひ渡りなむ」が刻まれている。

この天平六年(734)の万葉集歌碑は粉浜駅前に建っている。

「粉浜」は住吉大社社殿の材木の積み降ろしをしていた浜で、木浜が由来と伝わります。

「住吉の粉浜のしじみ開けても見ず隠こもりにのみや恋ひ渡りなむ」とあります。

現代訳では「私は住吉の粉浜のしじみのように、しっかりと蓋を閉じて胸の思いを打ち明けないで、心の奥に隠したまま、恋し続けるのであろうな。」となります。

この歌碑は万葉学の第一人者、犬養孝(1907~1998)が建てた歌碑で、全国の万葉ゆかりの地を訪ね、建立した万葉碑は131基に及びます。

大阪大学で教壇に立ち、現東粉浜に住んでいました。

このリレーフは、源氏物語澪標の巻きに描かれた有名な光源氏の住吉詣の情景を絵画化したもので、人々に囲まれた牛車の横に立つ衣冠姿が光源氏、右上の舟が明石上の舟であります。

内大臣となった光源氏の盛大で威厳ある行列の様子がうかがえます。

偶然、明石の君も舟で参詣に訪れていました。
しかし、光源氏一行の華やかさに圧倒された明石の君は自身の「身の程」を情けなく思い、その場を立ち去ってしまいます。

芭蕉は大社の「宝の市」に詣でてこの祭の名物である「升」を購入し、 

升買うて 分別かはる 月見かな と詠んでいます。

元禄7年(1694)9月、芭蕉は大坂で派閥争いをしていた門人、酒堂(しゅどう)と之堂(しどう)の仲を仲裁するために故郷の伊賀上野から奈良を経て大阪に入り、同月13日、住吉近くの長谷川畦止(けいし)亭で月見の句会を予定していました。

その日は住吉大社で宝の市(升の市)が立って賑わう日でしたから、この市に出かけ名物の升を買っています。去る9日来阪以来何となく気分のすぐれなかった芭蕉は、その夜急に悪寒を覚え、句会をすっぽかして早々に帰ってしまいました。

翌日にはすっかり快復して、芭蕉の不参加で延期されていた会に出かけて詠んだ挨拶の発句です。

参加者一同が不参加の理由(気が変わったのではない)を知っていることを承知の上で正面切って謝らず、それを風流に詠んだのがこの句であると云われています。

芭蕉はその後間もなく病に伏し、大阪市内南御堂付近で亡くなったのでした。

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