聖徳太子建立と伝わる 一運寺

住吉大社界隈
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推古21年(613)に聖徳太子が建立して最澄、空海、法然などもご説法なさったという 住吉きっての名刹。

山門の石碑には。
『(右側)日本諸宗祖師御旧跡、
 (中央)仏法最初聖徳太子御建立之地、
 (左側)元祖圓光大師御旧跡』の文字が刻まれている。

(仏法の法の字は石碑ではサンズイ偏に大の下にムの字が書かれている)
この碑文にあるように、伝教大師、慈覚大師、弘法大師、圓光大師(法然上人)等が住吉大社に参籠の際、当寺に立ち寄っている。

聖徳太子がある夜、夢をご覧になった際、西方の地より天に昇る光を見て、燐然とする白光に驚かれ、尋ねられると「住吉の地こそ実に過去七佛転法輪の処」と声があって目覚められました。

そこで、ここ住吉の地に七堂伽藍を建立したのが一運寺の始まりと伝えられており、遠く聖徳太子の故郷、飛鳥へつながる小さな径という意味を込めて名付けられました。
と書かれている。

寺ではちぅうど屋根の吹き替えの真っ最中でした。

こまもり地蔵。

境内には、赤穂浪士である大石義雄・主税父子、寺坂吉右衛門の墓があることで有名です。

むかし住吉に龍海寺という寺があり、赤穂四十七士の墓がありました。

天野屋利兵衛の菩提寺で、義士の墓を建てていましたが、明治維新の初め廃寺となり、墓石は持ちさられました。

一運寺の当時の住職が、危く残された三つの墓を一運寺に移し、以後懇ろに供養されています。

利兵衛は討入り用の槍を堺の職人に製作依頼しましたが、職人たちは突然の 臨時収入に喜んで住吉の料亭・三文字屋で豪遊しました。

このとき隣座敷に町奉行がい て「なぜ槍などを作るのか?」と怪しまれ、利兵衛は捕縛、拷問されます。

しかし義理堅 い利兵衛は「天野屋利兵衛は男でござる!」と啖呵を斬って吉良邸討ち入りが終わるま で決して口を割りませんでした。

ちなみに捕物劇の舞台となった三文字屋は、現在では 奇しくも住吉警察署となっている。

赤穂事件を題材にした「忠臣蔵」の物語において、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をした「義商」として知られているが、実在の天野屋利兵衛は赤穂藩や浪士と関係の無い人物であるという説もある。

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