幻の首都・住吉行宮

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南北朝時代、後村上天皇はたびたび住吉大社に行幸し、正平7年文和元年1352には吉野からここに移り、住吉大社神主津守氏の邸内にあった正印殿を行宮にした。

その後ここは南朝の勢力挽回の中心地となり、後村上天皇が正平23年(応安元年1368)ここで崩御して長慶(ちょうけい)天皇が即位、吉野に移るまでの約9年間行宮であった。

また慶長19年(1614) の大坂冬の陣では徳川家康の本陣にもなっていま す。

行宮とした天皇、行宮とされた期間は次の通り。
後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇) 正平7年/観応3年(1352年)2月28日 – 閏2月15日
正平15年/延文5年(1360年)9月 – 正平23年/応安元年(1368年)3月11日(崩御)

長慶天皇(第98代天皇、南朝第3代天皇) 正平23年/応安元年(1368年)3月(即位) – 12月24日

明治元年(1868年)に明治天皇が住吉大社に行幸した際には、天皇は正印殿にも立ち寄っている。

津守氏の邸宅は明治14-15年(1881-1882年)頃に人手に渡ったが、大正5年(1916年)と昭和8年(1933年)に正印殿跡地が当時の所有者から大阪府に寄附された。

その後、昭和13年(1938年)6月に正印殿跡地は大阪府指定史跡に指定され、昭和14年(1939年)3月7日には国の史跡に指定された。

敷地内には「後村上天皇住吉行宮正印殿址」と刻まれた石碑があります。

参照:

南朝の里 賀名生梅林散策
奈良には「三大梅林」というのがある。 「賀名生(あのう)梅林(2万本)」「月ヶ瀬 … 続きを読む →

賀名生の地名縁起
南朝こそ正統でありたいと願う後村上天皇は、かつては「穴生(あなふ)」と呼ばれていたこの地に夢現実の願いを込めて「叶名生(かなふ)」と名付けました。
その後、正平6年(1351年)には足利氏が南朝に帰順し、また多くの公卿や殿上からの賛同を得た事より願いが叶ったという喜びを記して、再度この地の名前を名付け改める勅書を下されました。
それが、「賀名生(あのう)」縁起です。

荘厳浄土寺
荘厳浄土寺は住吉神宮寺、津守寺と共に住吉三大寺として有名であったが、今は現存する … 続きを読む →

後村上天皇は、後醍醐天皇追善のため当寺にて、「法華八講」の法要を1375年(正平18年)と78年(同21年)と2回修し、五色仏舎利と和歌を奉納している。

観心寺 雨中の散策
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したと … 続きを読む →

後村上天皇桧尾陵へと通じる、南朝の後村上天皇は後醍醐天皇の思いを受け継ぎ、足利尊氏を討ち果たして天下の覇権を握る野望に固執した生涯の果てに、住吉行宮でその野望と共に崩御する。
その南朝軍と足利軍との戦いの中でも最終局面において、後村上天皇はなぜ賀名生を出、天野山金剛寺・観心寺をも通過点にして住吉行宮を終焉の地としたのでしょうか?

南北朝の哀史をとどめる金剛寺
山号は天野山(あまのさん)。 高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができた … 続きを読む →

下の書院には、後村上天皇が、上の庵室めいた離れには、北朝の上皇方が、肩をつき合わすように暮していられたのだ。それはお互いに犬そう間の悪い、油断のおけぬ日々だったに違いない。
そして、血で血を洗う争いが、いかに空しい地獄であるか、心の中では痛感されたであろう。半世紀にわたる乱世の間、辛い思いをされたのは南朝の天子・・・・・・

壬申の乱と女性たち 宮滝
青根ヶ峰の信仰 天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、神武天皇一行は、八咫烏 … 続きを読む →

吉野山に南朝の皇居があった時、まだ幼かった寛成親王(後の長慶天皇)が狩りに来られ、吉野川の水面に映える松の美しさを愛でられ「この松を後村上天皇に奉ろう、岩ごと皇居へ持ち帰れ」と供の者にむずかれたと言う逸話が残っています。

早春の洛北 常照皇寺
この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。 光厳上皇は観 … 続きを読む →

この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。
光厳上皇は観応3年/正平7年(1352年)、大和国賀名生の南朝後村上天皇行宮にて落飾(出家)し、禅宗に帰依した。

多賀城跡(政庁跡)
奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界 … 続きを読む →

国府多賀城にある後村上天皇御座之処碑
義良(のりなが)親王(後村上天皇)は、後醍醐天皇の第8皇子で、陸奥守北畠顕家と共に元弘3年(1333)に北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に多賀国府へ下向しました。
この時、顕家卿(16歳)、義良親王(6歳)、即位は後醍醐天皇が崩ずる前日のわずか11歳での即位です。

紅葉に彩られた 吉野山・世界遺産ハイキング
表題はいかにも紅葉真っ盛りの吉野山を連想させますが、実際は数日前に吹き荒れた大雨 … 続きを読む →

後村上天皇に仕えた女官に、弁内侍と言う者があった(日野俊基の娘)。
日ごろ から天皇の寵愛を受けていたが、ある時、高師直が自分の妾にしようとして内待を 誘ったが、途中運よく通り合わせた正行によって難を救われた。
その因縁もあって、 天皇より正行へ給わらんとしたが、正行は戦に出ることをおもって
   とても世に永らふべくもあらぬ身の仮りのちぎりをいかで結ばん
と断った。
そしてその翌年、四条畷に戦死したのである。

住吉大社で森女と邂逅 溺る一休
一休が晩年に盲目の美女と同棲をしたらしいことは、広く知られていよう。 77歳のと … 続きを読む →

森女は住吉大社の宮司津守氏の親族の女性だった。
住吉大社は、南朝の後村上天皇の行在所だった。
南朝の公家の娘を母に生まれた一休にとって深いつながりがあったのだ。
そして、住吉神宮と大徳寺も深いつながりがあった。

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