大阪護国神社 桜満開

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大阪市の南部、地下鉄住之江公園駅のすぐそばにある大阪護国神社は、2万㎡という広い境内を持っていて、春にはソメイヨシノが満開となる。

大阪護国神社南側の鳥居は、府下33の信用金庫から奉納され、平安神宮の鳥居には及ばないが、大阪府下では最大の鳥居である。(高さ10,3m。柱回り約3,3m)。

大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5千余柱を祀っており、祭神の柱数は護国神社では沖縄県護国神社、福岡縣護國神社に次いで3番目に多い。

参道を拝殿に向かう途中の西側にも鳥居があり、この鳥居から入ると左右の桜並木が一段と綺麗だ。

大阪府では、1871年(明治4年)4月10日に創設された真田山陸軍墓地の敷地内に招魂社が創建されたのが最初である。

しかし、招魂祭は、西南戦争後は陸軍の拠点である大坂城内で、1883年(明治16年)以降は中之島に建立された明治紀念標前で、1900年(明治33年)以降は城東練兵場[注釈 2]で行なわれていた。

なお、正確な時期は不明であるが、真田山の招魂社は1918年(大正7年)までには廃絶されている。

参考記事:大阪城の謎を探る
ここに陸軍墓地があることはあまり知られていない。
明治四年(1871)、当時の兵部省が大阪に陸軍を創設した際、日本最初の埋葬地として設置され、昭和13年に「陸軍墓地」と改称された。

戦後の一時期、GHQによる神道指令の影響下における存続対策として仁徳天皇を祀り、「浪速宮(なにわぐう)」と称していたが、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)に大阪護國神社に復称した。

その後、奉安殿に仁徳天皇を、その相殿に東郷平八郎を遺髪と共に祀るようになった。

参道の左右にある桜の林の中には大阪出身者で構成された歩兵第8連隊をはじめとする陸軍歩兵連隊、海軍、予科練などの忠魂碑が多数置かれている。

歩兵第8連隊は「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(京都の歩兵第9連隊と「くれんたい(もらえませんよ)」の語呂合わせ)」という里謡と、口数が多く弁舌が立ち、商人気質で損得勘定に敏く、かつ反権力的というステレオタイプかつ偏見混じりの大阪商人気質のイメージとワンセットで語られた事により、「大阪の兵隊は弱い」という風説が生まれた。

しかし、実際に第8連隊は特段負け戦をしておらず、また背後に聳える盃ケ岳や多紀連山を使った厳しい訓練や演習で「丹波の鬼」「山岳戦の篠山連隊」と恐れられ、信頼された篠山歩兵第70連隊の直系母体(第8連隊内から要員が捻出・編成され篠山に移駐した連隊)にもなっており、決して弱かったわけではなく、大阪鎮台時代の西南の役に連隊が従事した際には明治天皇より、「戦功ご嘉賞」の詔勅を日本軍で唯一賜るという偉業を達している[2]。太平洋戦争時のバターン・コレヒドール攻略戦に於いても第8連隊は奮戦勝利しており、軍司令官の本間雅晴中将から謝意を述べられている。

司馬遼太郎の「ある運命について」を読んでいて、その中に「昭和五年からの手紙」にこの「またも負けたか八連隊・・・」についての記述がある。

江戸時代の藩制に組み入れられなかった京・大坂の風土は封建的な影響が薄く、軍隊の中でも組織的な堅牢さと統率性がとれにくく、相対として兵隊の強さを発揮できなかった庶民性がうかがえるのである。

私は「またも負けたか八連隊・・・」と言われていた事を大阪人として、決して不名誉なこととは思わない。
大阪らしい風土として、むしろ誇らしい気もしているのだ。
「ある運命について」の中に八連隊は弱くはあったが兵士の偵察能力は全国一だったともあった。
そのことも大阪人として頷けて、八連隊というのが、よく大阪をイメージさせる軍隊であると思うのだ。

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