今日は玉造口からの登城を目指します。
玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江戸に次ぐ最重要の城だった、大坂城には玉造口とほぼ反対側の京橋口の二か所に定番が設けられており役目は城の出入り口での守衛、城内警備が主な仕事だったようです。
南外堀、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。
石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。
幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。
内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。
大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。
2度焼失しており、明治時代に陸軍が、昭和になり大阪市が再建しています。
青屋門と言う名前は、戦国時代の石山本願寺の青屋町から来てますが、この「青屋」というのは、染物屋のことです。
またの名を「紺屋(こうや)」と呼ばれていました。
染物とは紺色に染めることから来ているのでしょう。
。青屋門から本丸に登城するには、本丸の北側にかかる極楽橋という橋を渡ります。
一説によるとこの橋は、大坂本願寺時代、豊臣期大坂城の時代にも存在しており、現在の大阪城でもその名称が引き継がれています。
秀頼、淀殿ら自刃の地
前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。
前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。
城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。
潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。
しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。
ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。
秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。
山里丸石垣の機銃掃射痕
山里口出桝形
隠し曲輪の入り口。
何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。
この奥に広場があるとは、誰も気付きません。
姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。
「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。
隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。
「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。
天守東側を堀に沿って歩く、ミライザ(前の大阪市立博物館。旧第四師団司令部庁舎)の裏手。
前面に何か祭祀の場所のようなものがある。
馬印櫓は3層の櫓であったが、明治維新の折に焼失した。
解説板によると此処にあった櫓には、家康が大坂の陣で用いたという馬印が納められていたということです。
大坂城代は、この馬印を拝するのを例とし幕末に大坂城を訪れた14代将軍家茂もこの櫓で馬印を拝覧したそうです。
右先方は梅園。
今日は違うアングルから天守を。
桜門桝形の巨石 蛸石と振袖石。
桜門
西側から見た空堀
南仕切り門跡・太鼓櫓跡、前方は石山本願寺推定地。
大手口桝形と巨石
独古組み(どっこぐみ)
こちらは大阪城の追手門に使われている継ぎ手を再現したもの。
当時は継いだ状態からは内部構造がどうなっているか不明で、X線による解析で内部構造が分かったそうです。
縦にも横にも動かない、とても難解な組木です。
大手門からの堀。
大手門
生玉神社御旅所跡
南外堀の石垣の高さは大阪城で2番目となっていて、堀の幅も広いので雄大な外堀の景色を楽しめます。
築城技術が全盛で、さらに南外堀は築城の最終段階でつくられたこともあるので 石垣の石組の完成度が非常に高くなっています
二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、七番櫓は第二次世界大戦の空襲と戊辰戦争の大火により焼失しています。現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。
関連記事