天王寺7坂めぐり ①逢坂


安土桃山時代、大阪の上町台地北端に豊臣秀吉によって大坂城が築城され、その後大坂夏の陣で戦功を幕府によって評価され大坂城主になった松平忠明によって城下の寺院を移転・統合、現在の大規模な寺町になったと言われています。

ここが逢坂です。
一心寺の門前を出ると国道25号線(竜田越奈良街道)です。

松屋町筋が北に続き、東側の北に続く上町台地のふもとを通る為に松屋松筋から谷町筋に急な登り坂が多く並んでいます。
これを「天王寺七坂」と言われています。

道路(坂)としての逢坂は上町台地の西斜面の坂で、現在の国道25号四天王寺前交差点(谷町筋交点) - 公園北口交差点(松屋町筋交点)間にあたる。天王寺七坂のひとつで、最も南に位置する。

名称は逢坂関に由来するとも、聖徳太子と物部守屋が法について討論した合法四会に由来するとも言われ、「合坂」や「相坂」とも表記された。

また、逢坂下の現在の公園北口交差点のあたりは合邦ヶ辻(がっぽうがつじ)と呼ばれ、のちに浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなった。

近代以前は馬車馬が音をあげるほど急な坂だったと伝えられ、道も狭く、事故多発地点だった。

明治9年(1876年)に茶臼山観音寺の住職(静明)が寄付を集めて坂を切り崩して緩やかにする工事を行った。

この住職の功績をたたえた石碑が現存している。
明治42年(1909年)に大阪市電西道頓堀天王寺線の敷設に伴い、道路が拡幅されてほぼ現在の姿になった。

一心寺の塀越しにハルカスを望む。

一心寺 山門と仁王像。

宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺(現在は、創価学会のみ、受け入れを拒絶している)でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。

嘉永4年(1851年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。

猫がすやすやとお休み。

大坂冬の陣では家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。

本多出雲守忠朝は、徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていましたが酒を過したため大坂夏の陣(1615年)において討ち死にしました。

死に臨んで深く酒弊を悔い死後は酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられています。

爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ています。

墓碑周辺のシャモジは参拝者による断酒祈願。
墓碑は、元和2年(1616年)に建立されたものです。

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