南禅寺水路閣

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南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。

「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。

現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。

2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。

伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

文明開化から間もない1888(明治21)年に作られた、全長93.2m、高さ9mのアーチ型橋脚の水道橋です

レンガ・花崗岩造のレトロな風貌が、禅寺の和の雰囲気と周囲の自然を引き立てます。一説には、ローマの水道橋をモデルに作られたとも。

疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。

ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。

また水力発電の増強と水道用水確保のため、1908年に第2疎水の工事が、始まり、1912年に完成している。

同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。

当初計画では水路は山の中を通るはずであった。

トンネル工事も特段難工事でもなく、計画は順調に進んでいた。

ところが着工直前、計画部分に亀山天皇の分骨場がある事が判明し、宮内庁からストップがかかった。

そこで、急遽浮上したのが現在のコース。
当時建設場所は今より谷が深かったという。

その谷を少し埋め戻し、更にローマの水道よろしく橋をかけ水路としたわけだ。

関係者の話によると、三井寺、南禅寺と京都市(当初は京都府)との争いは裁判に持ち込まれ、三井寺とは8年前にやっと話し合いが成立したそうだ。

さらに、南禅寺側に立った福沢諭吉は「南禅寺は京都にとって重要な観光資源。
その境内に水道橋を通すとは正気の沙汰では無い。 

末代の恥。
さらに京都の伝統産業にとって疏水がどれほどの役に立つか」と反対したという。

撮影スポットとしては、この場所が人気です。

レンタル着物を着た女性たちがこの風景に入りこむと大正時代? のようなノスタルジックな風景に。

特に秋の紅葉の時期が人気で、秋には大混雑になります。

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