近松の里


JR尼崎駅より北へ約2キロメートルにある広済寺、近松の墓、近松記念館、近松公園周辺を「近松の里」と名づけ、歴史と文化がふれあう魅力あるゾーンとして整備されている。

近松公園は約2ヘクタールに池や、せせらぎなどを配した回遊式の日本庭園で、四季折々の風情が楽しめます。

公園には珍しい品種のアジサイが咲いていました。

近松銅像

近松門左衛門の50代の油ののりきった時代を、資料をもとに、二 紀会の彫刻家 故村上炳人(へいじん)さんが創作した「近松のま ち・あまがさき」のシンボル像。

広済寺(こうさいじ)

多田満仲が957年に勧請したと伝えられ、正徳年間(1711~ 1716)日昌上人が再建。

近松は日昌上人と親交があり、再興にも 力をかす。
その後も、度々同寺を訪れ「近松座敷」で執筆したと言 われています。

近松門左衛門の墓

広済寺の境内にあり、墓石は高さ約48cm程の緑泥片岩の自然 石で表に近松門左衛門と妻の戒名が、裏には没年月日が刻まれ ています。
昭和41年(1966年)9月に国の史跡に指定。

そうりんし【巣林子】は近松門左衛門の号。

伊居太(いこた)神社 (伊居太古墳)

古墳時代中期の前方後円墳で全長約92m、市内に残る古墳の中 では最大の規模。
現在は伊古太神社の境内にあり、原形を失っ ているが、わずかに面影をとどめています。

近松の墓はなぜ二つあるのか。

近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する。

元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。

まず法妙寺のお墓ですが、近松門左衛門の妻が深く関わっています。
法妙寺は妻の生家の菩提寺だったと言われています。
近松門左衛門と法妙寺には直接の関連性はないものの、妻の菩提寺という関係からお墓が建てられたのではないかと考えられています。

次に広済寺のお墓についてです。
広済寺は日昌上人によって開かれたお寺です。
近松門左衛門は日昌上人に深く帰依しており、広済寺との関係は深かったと言われています。

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