真如堂


金戒光明寺から黒谷墓地を経由して、真如堂に通じるルートは、桜の美しさもさることながら、平安時代から戦国時代、そして幕末に至る壮大なドラマを体感できるいわば“歴史の道”でもあります。

石薬師堂のあたりは山茱萸の花、満開できれいです。

ちょうど本堂の裏に出ます。

真正極楽寺は、天台宗の寺院で通称・真如堂と呼ばれる。
山号は鈴聲山(れいしょうざん)。

本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算。

永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。

正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。
不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。

しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱に巻き込まれ、堂塔は焼失した。

本尊は応仁2年(1468年)比叡山黒谷青龍寺に、次いで文明2年(1470年)近江国穴太の宝光寺(穴太真如堂)に避難させた。

応仁の乱が終息すると文明10年(1478年)、一条西洞院に寺地を改めるが、文明16年(1484年)には旧地である神楽岡にもどって再建された。

本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻したもので、完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので、「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、阿弥陀像は三度頷かれたという伝説がある。

黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。

文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。

なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。

いま梅が真っ盛り。

そして本堂横、アセビが見事。

斎藤利光の墓。

安土桃山時代に明智光秀に仕えた斉藤利三は、山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉に敗れた後、捕えられ六条河原で処刑された。
その後、斎藤利光の遺体は京都市左京区の真如堂の墓地に埋葬されます。

斎藤利光の遺体を真如堂の墓地に埋葬したのは、絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)でした。

海北友松は、斎藤利三と親交があったことから、その首を真如堂に葬ったということです。
墓石には「斎藤内蔵介利三墓」と刻まれています。

真如堂よりの帰路、梅が見事です。

真如堂 涅槃の庭は東山(大文字山等)を借景にしています

真如堂から大文字を見るポイントはいくつかありますが、元三大師堂の前が一番人気でしょうか。

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