聖護院門跡

京都府
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聖護院(しょうごいん)は本山修験宗総本山(本庁)の寺院。
聖護院門跡( – もんぜき)とも称する。山号はなし。

開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。

日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。

天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。

また、この寺院は近畿三十六不動尊の第十八番霊場でもあります。

静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。

明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった。

江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。

明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある。

なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている。

聖護院の南西には、平安時代に「聖護院の森」の鎮守として熊野神社が祀られ、 「京の熊野三山」(残り2つは若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された。

長屋門

門と居住スペースが一体化した建物を言うが山門の中に建てられているため門としての役割はなく、土間、納戸として使用されていた。

大玄関

山門正面にあり宸殿への入口である。

内部には桃山障壁画の遺風を残す堂々とした老松が狩野永納、益信の筆によって描かれ、その構図は見るものを圧倒する。中の1面に筆による落書きが残る。

本堂

昭和43年に建替えられた。江戸時代の本堂と外観はほぼ同様である。

重要文化財の本尊、脇仏は耐火式空殿と内内陣に祀られ、南北両面に収蔵庫を持つ形となっている

。主な法要は宸殿で行われており、本堂は加行道場としての一面を持っている。

宸殿(しんでん)の前に広がる白砂場は、庭園ではなく、あくまで修行の場という位置づけだそうです。

実際にこの場所では護摩行なども行われます。

祇園祭の役行者山では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。

左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。

和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である。

また、このお寺は江戸時代後期にあたる、1788年(天明8年)と1854年(安政元年)の内裏炎上に際し光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用していたため、「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されています。

寺務所前2階大仏間。

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