千歳の渡しで大正内港へ


2003年に完成した千歳橋は2代目である。
大正時代から昭和時代にかけて、初代の千歳橋が架けられていた。

初代千歳橋は1922年に架けられ、鶴町と対岸の新千歳町を結んでいた。

しかし大正内港の建設工事のため、初代千歳橋は1957年に撤去された。
なお、当時対岸だった新千歳町は、町の大半が内港の中に沈んでいる。

初代千歳橋撤去の代替として千歳渡船場が開設され、歩行者や自転車の移動に供されている。

2003年に開通した千歳橋は海面からの高さが28メートルあり、歩行者や自転車の利用には不便なことから、渡船は橋開通後も存続されている。

この渡しは大阪港復興事業の一つとして大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去され、その代わりの施設として設けられた。

昭和30年7月にそれまでの民営から港湾局の所管とし(同32年6月直営化)、同39年建設局に移管された。

大正区鶴町三丁目と同区北恩加島二丁目(岸壁間371メートル)間を運航している。

平成29年度現在1日平均約578人が利用している。

水辺に囲まれた大正区は、大正初期まで三軒家と難波島を除く大部分がのどかな農村地帯で交通機関の発達は遅く、井路を行き来する小船と木津川や尻無川の「渡し」が、重要な交通機関でした。

その後、各地での橋の完成に伴い、市民の足である「渡し」から自動車やバスへと移っていきましたが、今も変ることなく区民の大切な足として活躍しており、また大正区の風物詩となっています。

大正内港

大正期に入って、大阪築港工事の一環として川幅が拡張され岩崎運河、大正運河、千歳運河の掘削や埋立地造成が進んだため造船、ガス、金属、機械の工場が河岸に進出し、臨海工業地区となった。

1952年に上流は埋め立てられ、岩崎運河のみで木津川と連絡することとなったが、下流左岸の大正内港は、国内貿易埠頭と鉄鋼埠頭を設置する大阪港の物流基地である。

1940年代前半まで、大正区の土地の大半は海抜0メートル以下にあった為、昭和9年(1934年)9月21日には室戸台風が襲来し、大正区のほとんどの土地が冠水、当区は死者119人(行方不明者を含む)、被災者123,000人、建物の浸水等被害22,535戸にも及ぶ甚大な被害を受けた[1]。

また当時は、付近に貯木場が集中していたので、貯木場から流されてくる丸太により、道路が塞がれ、建物が壊されるなど、多くの被害を受けた。

その後も、昭和20年(1945年)の大阪大空襲により区の大半を焼失し、昭和25年(1950年)のジェーン台風による被害(大正区の83%が約1.9メートルの高さまで浸水、被災者は区民の96%に当たる57,000人で、行方不明者を含めて死者は13人、建物被害は10,654戸。)など、大正区民はたびたび起こる高潮や戦災に悩まされていた。

そのため、大阪港復興計画の一部として、大阪港に注ぐ河川の拡幅や大正内港化が昭和22年(1947年)に決定された。

掘り起こした土砂で大正区を全面的に盛り土し、区画整理する工事が同年に開始され、昭和50年(1975年)には完了した。

この工事の際に、大正運河に連絡していた貯木場や材木市場は閉鎖され、住之江区平林に移された。
この頃、港区では同じくして弁天埠頭が完成した。

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