名工の道具


蟇股の造作 いろいろな形状のノミが使われて削られていきます。

本来は屋根からくる荷重を支える部材の一つでしたが、平安時代後期以降は装飾材としての役割が重視されていきました。

そのため装飾様式で、奈良時代、平安時代、安土桃山時代、そして江戸時代と、建物の建立時代を判定できる部材の一つです。

江戸時代にはその装飾美は頂点に達し、左甚五郎による日光東照宮の「眠り猫」は有名です。

大入鑿(のみ)三代目善作

大阪で活躍した鍛冶名工、三代目善作(本名:松原重次郎、明治42年〜昭和中期)の作。

明治神宮外拝殿、観世能舞台等を手がけた棟梁・野村貞夫氏の旧蔵品。
柄の首で捩れた墨流しの模様が特徴。

この木目調の地肌は、硬い地金と柔らかい地金を鍛え合わせ、薬品につけることであらわれる。

三代目善作は昭和28年(1953)頃、注文したい大工たちが探し回ったが消息不明となってしまう。
今日でも「幻の善作」と呼ばれる謎めいた名工である。

突鑿 二代目善作

善作の刃物は関西方面の古道具を辿ると今日でも見つかる事があります。
同時期を生きた千代鶴是秀は善作をあまり評価しなかったという話を聞きます。

善作は鑿、鉋をはじめ玄能や時には山林刃物まで製作していた時期があったようです。

この鋼の巻き方に鍛冶屋の心意気が見てとれます。

三代目が一般的に有名ですが情報が極めて少なく知られていないだけで二代目はさらに上を行く腕前であったように思われます。

火を見極め鉄を読む

微妙な日の色合いを見分け、最上の間合いを捉えた所作。
鋸鍛冶の名工・二代目宮野鉄之助が玉鋼(たまはがね)で木の葉型鋸をつくる「焼き入れ」の瞬間。

「宮野鉄之助」銘の名を高めたのは2代目で、明治34年(1901年)に三木市福井に生まれ、本名を遠藤政一郎と言いました。

地元で鋸鍛冶を見習い、大阪に出て目立ての修業をした後に三木に戻り、初代「宮野鉄之助」に弟子入りしました。

大正12年(1922年)に鉄之助の長女一恵と養子縁組をし、宮野政一郎となりましたが、2、3年後に離婚ではなく、姓を遠藤に戻しました。
昭和13年(1938年)には、その鋸製作の技量を認められて2代目「宮野鉄之助」を襲名しました。

当時の2代目「宮野鉄之助」は刀剣鍛冶の修業も行い、昭和16年に帝国新作日本刀展で金賞を受賞しました。
昭和17年頃には、名匠宮入昭平(後の人間国宝)らと共に刀剣造りの研究もし、昭和19年に総裁名誉賞を受賞しました。

この時代、刀匠として「遠藤四方斎朝也」とも名乗っていました。
昭和48年には、伊勢皇太神宮に新刀一振りを奉納しました。

兵庫県の三木は、江戸時代からの刃物鍛冶の町である。
今日ではその生産が殆ど機械化されている中で、昔ながらの手造りの鋸鍛冶の名工・2代目宮野鉄之助(明治34年生)さんがここにおられる。

日本古来の製法の砂鉄から作られた和鋼で鋸を鍛え上げられる人は、今日ではこの人だけであろうといわれている。

宮野さんには3人の息子さんがおられるが、この3人がそれぞれ独立して、立派に家業をまもっている。
全国の道具鍛冶が後継者を失い、電動工具に追われて消えていく中で、心温まるご一家だ。

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