3箇所の蝉丸神社と蝉丸説話

歴史を訪ねる旅
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蝉丸神社下社  滋賀県大津市逢坂1丁目15-5
 祭神---豊玉姫命(或いは、道反大神-チガヘシ)
 合祀---蝉丸

かなり老朽化が進んでいる。

以前の訪問記
琵琶の名手蝉丸
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水 … 続きを読む →


逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒 紀貫之

「今やひくらん望月の駒、云々」は、八月十五日夜の日に、ここで信州の牧場から来た馬を、朝廷に引渡す行事があり、
満月にちなんで「望月の駒」と呼ばれた。・・・・・このことを詠んだ歌は多いが、中でも有名なのは紀貫之の作である。

『近江名所図会』という、江戸時代に書かれたガイドブックがある。
「蝉丸の社内にあれども、長明[無名抄]に、その時すでに水かれたるよし見えたれば」とある。
江戸時代以前に、すでに水は枯れていたらしい。

白洲正子の説
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水」は、蝉丸神社(下社)の中にあるが、これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという。

『近江山河抄』より

蝉丸神社上社  滋賀県大津市逢坂1丁目
 祭神---猿田彦命
 合祀---蝉丸(逆髪とする説もある)

関蝉丸神社上社は、急斜面にある。。

何故、蝉丸神社が3カ所も。

東海道が通る逢坂峠の関の鎮守・道祖神として創建されたと考えられている。

上社と下社に分かれ、祭神は、上社が猿田彦命に琵琶の名手の蝉丸霊を合祀し、下社は豊玉姫命に蝉丸霊を合祀する。

社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。

貞観17年(876年)に従五位下を授かった近江国「坂神」がこれに相当する国史見在社と見られている。

平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死去後に彼も上社と下社に祀られるようになった。

天禄2年(971年)には円融天皇から下された綸旨により、以後歌舞音曲の神としても信仰されるようになった。

蝉丸神社は後から造られたため「分社」となっています。

目の前には、名神高速道路の高架橋が、国道一号線を横断するように架かっている。

近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。

しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。

なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

逢坂は、「合坂」(『日本書紀』)、「相坂」(『万葉集』)、「会坂」とも書かれた。
 
本来の「逢坂」の意味は、「あふさか」であり、「人が坂に出合う」の意という。
また、「二つの坂が出合う」場所として峠も意味した。

古墳時代-弥生時代はこの「人が坂に出会う」だった。

200年頃、14代・仲哀天皇没後、竹内宿禰は、忍熊王(おしくまおう)らの反乱を逢坂で鎮圧した。
この時、両軍勢が出会った坂が逢坂だったという。

その後、平安時代以降は、「人と人が出合う」意味に変わっていく。

この急な階段を上がったところが 蝉丸神社分社(蝉丸神社) 大津市大谷町
 祭神---蝉丸
 合祀---猿田彦命・豊玉姫命

ここはウナギのかねよで有名。
優雅な庭園を眺めながら堪能 日本一のうなぎ 「かねよ」
琵琶湖疏水の散策に出かけ、京都と滋賀の県境・逢坂山に店を構える明治5年創業の老舗 … 続きを読む →

蝉丸説話

小倉百人一首の中でも有名な蝉丸(せみまる)は、平安前期の歌人。
また、盲目でありながら、大変な琵琶の名人であったともいわれている。

しかしそれ以外となると、色々な逸話は残されているものの、その正確な人物像は定かではありません。
なぜなら蝉丸は、その本名を始め、血筋や生没年さえも不詳とされているからです。

諸説としては、第五九代天皇の宇多天皇の皇子である敦実親王に仕えた蔵人見習いであったとか、第六十代天皇の醍醐天皇の第四皇子であったなどというものもあります。
しかし、そのどれもに確実性はなく、推察の域を出ないそうです。

特に、「今昔物語集」の中に収録された蝉丸と源博雅に関する話は有名。
逢坂の関に庵を構えていた蝉丸を、当時、管弦の名人と評判であった源博雅が訪ね、三年がかりにしてやっと、琵琶による秘曲を蝉丸に伝授されたという話です。

また、逢坂の関に庵を構えていたという蝉丸は、逢坂の関の守護明神として祀られており、蝉丸自身が琵琶の名手であったことから、芸能や歌舞伎の祖神としても崇められています。

能楽の『蝉丸』では次のような話となる。

蝉丸は醍醐天皇の第四皇子であったが、生まれつきの盲であったため、逢坂の関に粗末な庵を与えられて捨てられる。

前世の報いのため、来世の幸せのために、従容と運命を受け入れる蝉丸。

そこへ一人の狂女がやってくる。
生まれつき髪の毛が逆立って櫛が通らない異形故に遠ざけられ狂乱した、蝉丸の姉宮である逆髪宮であった。

逆髪は琵琶の音色に惹かれて庵を訪ねると、そこには弟宮の蝉丸があった。
薄幸の姉弟はそこで互いの不運を嘆き、慰め合う。

しかし時が来て、逆髪宮は別れを告げて、いずこともなく去っていってしまう。

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