眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院


伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。

その後、現在の木之本に移転する経緯については2つの異なる伝承がある。

一つの伝承は奈良・薬師寺の僧を開山とするものである。
これによると、天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。

休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。

後にこの地は、「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、さらに「木之本(きのもと)」と言われるようになったという。

今一つの伝承は、文武天皇が北陸の白山参詣の途上、木之本の地で紫の雲を見て、この地が霊地であると知り、難波の金光寺を木之本に移したとするものである。

以上の草創伝承は各地に多くある霊験譚の域を出ないものであり、どこまで史実を反映したものであるかは定かでない。

境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。

眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。

木之本地蔵院は、眼の仏さまであり、片目をつむった身代わり蛙たちが住んでいます。

お寺に住む蛙は、多くの人々が眼の病気で困っているのを見て、「すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように」と、自らが片方の目をつむることによって身代わりの願をかけたと言い伝えられています。

北国街道

木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、現在では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残しています。

旧本陣 竹内五左衛門家

京都、江戸、北陸を結ぶ宿場の本陣跡。

藩政時代には、大名などが、絶えず宿泊した宿札や記録が数多く残っている。

また、将軍の息女、溶姫一行が滞在したときは、三千人分の寝具などを、助郷から集めたと記されている。

先々代の当主は、明治二十六年全国で日本薬剤師第一号の免状を取得されている。

軒下柱の馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。(現地案内板)

木之本地蔵院の斜め向かいの、富田八郎家〈富田酒造〉。

天文2年(1533)、当地に移り住み、以来、酒屋を営む傍ら庄屋を務めたと言うお家。

創業470年の歴史を誇る酒蔵。
ここのお酒のラベルは、当家に逗留した北大路魯山人によって書かれたものだという。

また、ここは明治天皇の北陸巡幸の際、岩倉具視が宿泊をしたところだ。

町の花こぶしと、町を流れる3つの清流高時川、杉野川、余呉川をデザインしたマンホール。

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