秘密にしておきたい紅葉の名所 旧秀隣寺庭園

滋賀県
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道元が越前下向のおり当地の地形の様子が宇治興聖寺のそれに似ているのに驚き、建立する寺の名を同じにしたといわれる関西花の寺二十五霊場14番。

訪れた日は紅葉の真っ盛り。
風にハラハラ鳩落ち葉が舞っていた。

享禄元年(1528年)、足利義晴は細川晴元・三好元長らの反乱の難を避け、朽木稙綱を頼って享禄4年(1531年)まで朽木谷に滞在していた間、朽木氏一族を始め、京極高秀や浅井亮政、朝倉孝景らの協力のもと、管領細川高国が義晴を慰めるためにこの庭園を贈ったといわれる。

ここに樹齢500年近くの歴史をもつ藪椿(右奥の緑の低い木)があります。

見頃は4月中旬から5月上旬にかけて。千利休が訪れた際、一期一会の心を表す花だと賞賛したという。

散りモミジも見事。

この広い庭園にいるのは私一人、1時間半くらいいたが誰も訪れる人なし、誠にもったいない時間を過ごした。

興聖寺の略年譜

嘉禎 3年(1237年):朽木村の領主佐々木信綱が、承久の乱で戦死した一族の供養を願い、道元を招く。
寛元元年(1243年):招きに応じた道元が、越前下向のおり朽木村に立ち寄り、寺の建立が始まる。
享禄元年(1528年):室町幕府12代将軍足利義晴が、細川晴元・三好元長の追撃から逃れるため3年間滞在。
元亀元年(1570年) :4月、浅井長政の裏切りに合い、絶体絶命の危機に見舞われた織田信長を救う。
享保14年(1729年):上柏村指月谷から岩神村秀隣寺の地に移す。
文政11年(1828年):本堂が焼失。
安政 4年(1857年)3月:朽木大綱の寄進で25世仙英和尚の代に再建。

朽木は近江守護の佐々木一族(朽木氏)に代々治められてきた場所で。

興聖寺の開基となる宇多天皇の直系の佐々木信綱、その曾孫にあたる義綱より氏を『朽木』と改め、明治時代になり廃藩置県が行われるまで統治していた。

その朽木の地に興聖寺が建立されるのが鎌倉時代。

嘉禎3年(1237)、近江守護佐々木信綱が宋から京都に帰洛していた曹洞宗開祖・道元禅師に、承久の乱で戦死した一族の供養を願い出た。

朽木の里を訪れた禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て絶景だと喜び、山号を高巌山興聖寺とする一寺の創建を奨めた。

3年がたち仁治元年(1240)には七堂伽藍が完成し、遷仏式には永平二世・孤雲懐奘禅師を迎え盛大に行われた。
それ以来、興聖寺は曹洞宗第三の古道場といわれてきた。

秀隣寺は、朽木宣綱が、慶長11年(1606)に正室の菩提を弔うために、かつての岩神館のあった地に建立した寺院であることから、この庭園は、正しくは「岩神館庭園」と呼ぶべきかもしれません。

庭園は、安曇川が形成した段丘の縁にあり、安曇川の清流、そしてその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景としています。

池泉鑑賞式の庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は池に注ぎます。

曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島、鶴島を浮かべ、中央付近には見事な自然石の石橋を架けます。

随所に豪快な石組を配する、全国屈指の武家の庭です。

元亀元年(1570)4月、浅井長政の裏切りに合い、絶体絶命の危機に見舞われた織田信長。

信長は京に逃げ帰る道として朽木街道を選択します。

この時、浅井長政の勢力下にあったはずの朽木元綱は、長政を裏切って信長に味方し、信長が朽木谷を通過することを許します。

この時、もし元綱が長政に義理立てしていたら、信長はこの段階で歴史の舞台から姿を消していたでしょう。

この間の様子を『信長公記』は「4月晦日、朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走を申し、京都に至って御人数打ち納められ・・」
と、簡潔に記しています。

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