堺散策

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河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。

仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。
僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。

中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。

1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。

摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。

およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。

その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。

日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。

堺博物館所蔵の河口 慧海画。

現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。

冬日の萬福寺
隠元禅師は中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持だった。 日本からの度重なる … 続きを読む →

河口慧海にチベット行きを決意させたのが、京都・宇治にある萬福寺・塔頭「宝蔵院」の一切経の版木だった。

種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。

現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、市の指定有形文化財になっています。

江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」にも記載されており、わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。

大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し商業のまちとしても成熟していきます。

北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。

紀州街道 市内延長5.4キロメートル

江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道。

大道筋の東側には多くの古い町並みが残り、材木町東一丁の商店街には「右住よし 大さか」などの文字が刻まれた道標を見ることができます。

阪堺電気軌道1001形電車
「堺トラム」

阪堺電気軌道1001形電車は、2013年8月25日から営業運転が開始された、阪堺電気軌道が保有する路面電車車両。
車両の愛称は「堺トラム」。

上町線の天王寺駅前から住吉を経て阪堺線の浜寺駅前までの間で毎日定期運行されており、3編成のうちいずれか1編成がその運用に充てられている。

土佐藩士割腹跡の碑

妙国寺境内に建つ慰霊碑。

中央に建つ三基の石碑のうち左側は「土佐藩十一烈士之英霊」碑と右側は「佛国遭難将兵慰霊碑」。
この碑は1916年(大正5年)仏首相クレアマンソーが戦死した仏兵の碑を並び建てることを条件に承諾した。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)

王政復古直後の攘夷事件。
1868年(明治1)2月15日,当日堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、同地警備の土佐藩兵が襲撃し11名を殺傷した事件。

このころこうした事件が相次いだが、成立したばかりの新政府は外国と事をかまえることの不利を考えて、箕浦猪之吉(隊長)以下20名(うち9名は、フランス艦長の申し出により助命)の土佐藩士に切腹を命ずるなど、フランス側の要求のすべてを認めた。

ウィキペディアより

堺環濠都市は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた貿易都市。
   
この地点(SKT960)の調査では環濠都市「堺」を象徴する4条の環濠が発掘された。

なかでも環濠1は幅17m、深さ4.5mの二段に掘られた巨大なもので、これまで確認されている環濠の中で最大級のもの。

環濠の北側には掘った土を盛り上げて土塁を造り、環濠都市「堺」の防御性を高めていた。

「黄金の日々」を謳歌した環濠都市「堺」の繁栄を如実に示す環濠といえる。こ

れほどの大規模な環濠も豊臣秀吉の命令で埋め戻されますが、これらの4条の環濠は、今日に続く環濠都市「堺」の出発点と言える記念碑です。

画像の人の大きさから堀の大きさが推定される。

浄 因 寺

錦光山浄因寺は、天文(てんぶん)年間(1532~54)紀伊雑賀(きいさいが)の郷士、名和修理介(なわしゅりのすけ)が本願寺顕如上人(けんにょしょうにん)紀州鷺ノ森(きしゅうさぎのもり)在寺中に功労があり、上人より尊正(そんしょう)の法号を授与されたので天正6年(1578)に、堺桜之町西七堂浜に一寺を開創したのが始まり。
  
和泉の国を守護していた藤堂高虎(とうどうたかとら)が「慶長の役」出陣の際、預かった庶子が後に出家して第7世住職尊順(そんじゅん)となる。 

その後大坂夏の陣(1615)の大火により焼失、現在地に移転。  

当寺ゆかりの人物で、日本演劇界に喜劇王として千以上の脚本を書き、製作・演出・俳優の四役を兼ね、喜劇王いわゆる「五郎劇」を始めた曾我廼家五郎は、幼少のおり浄因寺第15代住職祖父幻中然学(まもなかねんがく)にひきとっられて、生母の実家である当寺に居住していましたので、ここは五郎の住居跡でもあります。

浄得寺

大阪府堺市堺区にある寺院。
700年代、行基により建立。
通称、海船御堂と呼ばれている。

かつて、北旅籠町西に存在した海船の浜付近に位置していたため、海船御堂と呼ばれるようになった。

月蔵寺

大野道犬斎治胤の墓

宇賀徳社と供養塔の間にひと際目を引く南無阿弥陀佛の名号が彫られた大きな五輪塔がある。
豊臣秀吉側近の重臣で大野三兄弟(治長・治房・治胤)と称された内の三男、大野道犬斎治胤の墓である。 

父は大野佐渡守道犬で、内裏の修理造営職を掌り官位は太夫に次ぐ亮であった為に大野修理亮道犬と呼ばれた。

母は浅井長政の三姉妹の一人で、秀吉の側室である浅井茶々(淀君・淀殿)の乳母を勤めた大蔵卿局。

尚、三男の治胤は父道犬の名を採って大野道犬斎治胤と称した為に、一部の歴史文学書の間で父子を混同しているものがある

風間六右衛門の墓

長谷川藤広は着任以来病床にあり、元和三年(1619)十月二十六日に没した為に町割りは風間六右衛門の独断で進められたが、風間奉行はその昔越後・信濃両国を治めて日蓮聖人の弟子日昭上人を外護した篤信者、風間信昭の後裔であった所為か、法華寺院の敷地を他宗に優先して広く配置した。

特に千利休ゆかりの南宗寺はもと宿院町にあった寺域から新たに拡張された堺の南端に振り当てられた為に、当然南宗寺を始め他宗僧俗からの非難が激しく起こり、江戸の寺社奉行は元和四年(1615)八月十四日に風間奉行に急使を送り、八月十五日に出頭するように命じてきた。

到底不可能な江戸到着命令を熟慮した風間奉行は江戸に向かう途中、並松の刑場辺りに至った時に籠の中で自刃してこれに応じた。

享年四十七歳、堺を再建する町割りに際しては町の殷賑を願うのみで他意のなかったことを自らの命を以て上奏したと考えられるが、町割り自体には些かの修正を加えられることもなく、寛永の頃には風間奉行の描いた通りに実現された。

その後約七十年を経て復興がなされた頃、元禄二年(1689)の『元禄堺絵図』を見れば、整然と整備された街並みと、他宗寺院に比して法華寺院の敷地が広大であったことや、柳寺町辺りの道路がこの地図に示された状態で現在も往時の佇まいを残していることがよく分かる。

本願寺堺別院

堺市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたもので、明治4年(1871年)の廃藩置県後から10年間堺県庁として使用されていました。

明治維新当初の堺県は旧天領地だけでしたが、明治2~9年に河内県、丹南4県、奈良県などを合併して、近畿でも有数の大きな県になりました。

広大な県域を有し独自の県政を行った堺県でしたが、政府の大阪府域拡大の方針で明治14年(1881年)に県域を府に併合され、その歴史に幕を降ろしました。

堺県の廃止後、境内地と建物は浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至っていますが、堺県庁跡として府指定の史跡となっています。

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