幻の堺幕府と三好一族を訪ねる

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堺では信長に先駆けること、その直前20年に三好長慶による堺幕府がありました。

海船政所跡

所在地: 堺市堺区桜之町西3丁他

海船政所(海船館とも)跡は、南海「七道」駅を降りてすぐ南に歩いていったところに石碑と案内板がありました。

四国阿波の三好長輝は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破り、細川澄元を援助し、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に就きました。

長輝は京都に近く、阿波に渡るのに都合のよい堺に目をつけ、永正元年(1504)2月、海の見える海船町に館を建てることを計画、京都から堺に来て4月から工事を始めましたが、完成は孫の元長の代になり、大永元年(1521)3月に政所の号をもらいました。

その規模は桜之町3丁付近を中心に東西360歩(約652m)南北これに倍しとあり、錦之町にあった梅黄寺も政所跡といい伝えられていることから相当広い区域であったと想像されます。

建物は、館の中央に高楼を作り、楼上より常に四方を監視し、一旦ことが起きると鐘・太鼓を打ち鳴らし一族郎党に知らせたといいます。

元長歿後、政所は長慶・義興・義継三代相次いで、ここに住み、この政所は摂河泉(摂津、河内、和泉の国)の各支城の本城的な役割も果たしました。
『海船政所跡案内板』より

善長寺 縁起

勝軍山・善長寺は、天文18年(1549年)に三好政勝が、父宗三の菩提所として、宗三戦死の日(6月24日)を以て開基と定め、浄土宗粟生光明寺(京都)の顕空上人を請して開山とし。

三好政長(宗三は法名) 1491~1549
        従四位少将三好善長公・越前守

阿波の大名三好一族の武将、かの三好長慶も一族の一人で共に室町幕府の管領細川晴元の家臣として仕えた。

時あたかも戦国時代、下克上の世、畿内で次第に勢力を伸ばした三好長慶は一族の長老三好政長の存在がうとましく、政長の讒言によって父元長が誅殺された恨みもあり、晴元に政長父子の誅殺を請うたが受け入れられず。

これがため、晴元に叛旗を翻した長慶は晴元・政長と敵対した。

摂津国江口城に籠城した政長は援軍間に合わず、長慶軍の猛攻に会い討ち死にした。

細川晴元は将軍足利義輝を伴って近江に逃避、三好長慶が洛中で天下を手中にする。

三階菱に五つ釘抜

大永7年(1527)2月、丹波の波多野稙道・柳本賢治とそれに呼応した三好元長軍が管領・細川高国軍を桂川原の合戦で打ち破り、室町幕府は機能不全に陥りました。

同年3月、細川晴元と家臣・三好元長は、逃亡した12代将軍・足利義晴の兄・足利義維(よしつな)を擁して、兵8000とともに和泉国堺に上陸。

7月に義維が朝廷から次期将軍に与えられるのが慣例の従五位下・左馬頭に補任されると、晴元と元長は堺の顕本寺を本拠に「室町幕府」に代わる幕府体制を築き、近畿一円にその勢力を伸ばします。

こうした動きに朝廷は、逃亡中の将軍・義晴も無視できず、義維に将軍職を与えることこそなかったものの、実質的には「堺幕府」を認めていました。

このことは当時の公家たちの日記にも「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などという表現があります。

この「堺公方府」ですが、三好元長などの阿波国人衆だけでは維持できず、柳本賢治などの山城・摂津国人衆の連合体にならざるを得ませんでした。

のちにこられ連合体が内紛の元となり、「堺公方府」は成立してから僅か5年後の天文元年(1532)細川晴元の要請で集まった10万の一向宗徒によって崩壊してしまいます。

三好元長戦死の碑、開口神社

三好元長は室町幕府管領の細川国高と将軍擁立を巡って死闘を繰り広げた阿波の武将。

その子供に三好氏をもっとも栄えさせた長慶がいる。

元長は堺に堺幕府を開くべく将軍を擁立し、京都の将軍を擁立する細川高国と争った。

一進一退の末、本願寺一向宗の一揆にとどめを刺され、この地で戦死したという。

この開口神社の近くに堺幕府の置かれた顕本寺があった。

顕本寺

大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。

しかし、享禄4年(1531年)6月に高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、翌5年(1532年)6月に袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けた。

そのため当寺へ逃れた末に元長が自害に追い込まれると、後ろ盾を失った足利義維は阿波へ逃がされ、堺幕府は滅んだ。

元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、実休らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた。

顕本寺にある長慶の墓。

三好氏の菩提寺南宗寺惣門

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。

弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

大坂冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。

2014年7月6日、三好長慶公の座像建立除幕式

「戦国天下人 三好長慶公 1522-1564
文武相備在家菩薩」とある。

晩年の三好長慶は、穏やかな暮らしを望んでいたと言われています。

彼は風流を好み、身のこなしも爽やかで、大言を言う事もなく、唄や茶を好みました。

合戦に行く時も、連歌仲間に 「ちょっと用事を済ませてきます」 と言って出立していき、そして帰ってきた後に、勝ち戦や武功を自慢する事もなかったと言います。

元々、彼が 細川家 と戦ったのは お家再興 のためであり、己の「野望」はなかったようです。

ですが、だからこそ、野心家である 松永久秀 や、権威の回復に燃える 将軍・足利義輝 に付け込まれたのかも知れません・・・

三好長慶 の死によって、近畿には再び権力闘争の嵐が吹き荒れます。

そんな中、それを利用して 将軍・足利 義輝 が三好家の追放と 京都 の奪還を狙いますが・・・

三好家 の重要な家臣団 「三好三人衆」 は、松永久秀 と共にこの将軍 「足利義輝」 を暗殺してしまいます。

彼らは 足利家 の親類を別の将軍として擁立しようとしますが、「将軍殺し」 である彼らへの風当たりは強く、各地で内乱も発生してうまく行きません。

その結果、三好三人衆 と 松永久秀 はケンカ状態となり、ちょうどそこに 織田信長 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍して来たため、あっという間に 三好軍 は敗退、京都 や 大阪 も 織田信長 によって支配されてしまいます。

大和の国主である 松永久秀 は独立して 織田家側 に付き、残った四国の領土も、「土佐(高知県)」 の 「長宗我部家」 の侵攻を受け、次々と敗北・降伏していきました。

こうして、戦国初期に最大勢力を誇った 三好家 は、跡形もなく消失する事となります・・・

妙国寺

三好実休は大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。

生年には大永6年(1526年)説もある。

兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。

早くに父が戦死したことで、幼少期から政治的に重要な立場となった。

署名に長慶と実休の幼名が記されている「三好千熊丸・千満丸寄進状」の日付は天文元年8月9日(1532年9月8日)であり、これは父の死から数えて49日にあたる。

兄・長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。

四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。天文8年(1539年)には、持隆に付き従い、伊予国における河野氏との合戦[10]に三好勢の責任者として参加した。

天文13年(1544年)、兄に従って京都に入り、天文15年(1546年)までに豊前守を名乗るようになった。

細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いで大勝した。

その後も兄・長慶の勢力拡大に従って伊予・讃岐・和泉など各地に転戦している。

また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。

天文22年(1553年)6月に細川持隆を見性寺で自害に追い込み、その子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立した。

この時、持隆派であった久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこれも打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。

実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。

しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった。

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。

永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。

しかし永禄5年(1562年)、紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。享年36。

また、寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。
跡を子の三好長治が継いだ。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。
実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた。

しかし、実際には武野紹鴎に茶道を学び、妙国寺を創建したりと文化への造詣は深く残した功績も大きい。

これは父の三好元長が堺の町衆との間に深い人脈を持っていたことが、実休が茶人達と交流する切っ掛けとなった。

堺の有名人の内、最も実休と親しくしていたのは津田宗達(津田宗及の父)であり、他には、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、彼らを自室に招いている。

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