越中高岡に 大友家持を訪ねる 越中国一宮 気多神社

気多神社(けたじんじゃ)は、式内社(名神大社または小社)、越中国一宮。旧社格は県社。

階段上の境内には、「かたかごの丘」という苔と木々に覆われた場所があり、越中国総社跡の伝承地となっている。

*「かたかご」とはカタクリのこと、ユリ科カタクリ属に属する多年草。古語では「堅香子(かたかご)」と呼ばれていた。

社殿、所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地。
越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。
他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。

社伝によれば、当神社が勧請されたのは養老元年(717年)としているが、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では、これに対する傍証は無く、草創については諸説あると述べる。

家持を顕彰した大伴神社

昭和60年(1985)は、大伴家持が亡くなって1200年経った年であった。

天平18年(746)から5年間越中守(国司)だった家持は、また万葉歌人として越中で多くの歌を詠んで越中を、そして高岡を大いに世に知らしめた。

ということで、この機会に家持さんに感謝し、その気持ちを形にしようと言うことになり、有志が集い「大伴家持卿顕彰会」を発足させ、募金活動を展開、家持を奉祀する神社と顕彰碑を気多神社境内に作った。

遺骨、遺品がないので、生誕の地奈良の・越中国庁跡の・越中国守館跡の・最終の地多賀城の・遺骨が流刑にされた隠岐の、5箇所の土を地元の古府焼の壷に入れ更に石棺に納めて本殿床下に埋め霊代(たましろ)とした。

境内には、大伴家持の歌碑がある。
馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に

大伴家持が越中に赴任して最初に開いた宴の時に読まれた歌とされています。

渋谿の磯とは、現在の雨晴海岸のこと。
宴も終わりにさしかかった頃、家持が「みんなで海を見に行こう」と提案している歌。

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